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念のためと夫に呼ばれ続けて、三年目の朝が来た  作者: 九葉(くずは)


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第1話 念のため、と夫は言った

「念のため、ヴィルが最後の印だけ押してくれればいいから」


その朝、夫の口から「念のため」という四文字が出るのを、私はもう数えていた。


私は白湯の表面に浮かべたレモンの皮を、銀の匙でひとつ沈めて、また浮かばせた。皮の油が湯の中で薄い円を描く。テーブルの向こうで、オリヴィエは二杯目の珈琲を半分残したまま、新しい話題に身を乗り出している。


「年貢の改鋳は、商会のナエル殿に任せる。あちらは王都の鋳造所と連絡が早い。一年分まとめて回せるそうだ」


「商会鋳貨ギルドが、ですか」


「そう。あちらは王都との連絡が早い。今年の納期に間に合わせるには、現実的な選択だと思うんだ。だから、念のため、ヴィルが」


二度目。


私は匙を置いた。耳飾りに中指がそっと触れて、また離れる。落ち着くための動作だ。怒鳴る前のではない。考え事を整えるための、私だけの呼吸。


「念のためというのは、どこに位置する仕事ですか」


夫は笑った。明るい、よく通る笑いだ。領内の市場に立てば領民が顔を上げ、子どもが手を振る、あの笑い方。


「気にしすぎだよ、ヴィル。素人でも金は数えられるんだ。商会の鋳造所には三人、地金を見られる人間がいる。最後に君の印があれば、形式上の問題はない」


「形式上の問題、ですか」


「君の印は王立鋳貨院の正式な印だろう? 念のため、それを最後に押してくれれば、王立金庫の通過も問題ないはずだ」


三度目。


私は、白湯のレモンを匙でもう一度沈めた。


数えるところまでは、そうですね。


声に出すかどうか迷った。出した。


「数えるところまでは、そうですね」


短い間。


オリヴィエの肩が、ほんの一瞬だけ上下を止めた。彼は気づかなかったかもしれない。気づかないのは、いつものことだ。私はそれを責めないと、三年前に決めた。決めたつもりだった。


「奥様、改鋳所のお披露目に向けて、領内挨拶状の案でございます」


家令ロベール・ロワゾンが、銀盆に書類を一枚載せて差し出した。糊づけ前の薄紙。家紋を入れる前の試刷り。


私はそれを受け取って、宛名の下、いつもなら検査印が入っている右下の隅を見た。


空欄だった。


検査印の枠線そのものが、刷られていない。


「ロベール」


「はい」


「右下に、検査印の枠を入れる慣例ですが」


「今回は、商会のナエル殿のお名前を中央に大きく入れるご意向と伺いまして、検査印は省いてございます。形式は、王立鋳貨院辺境支所の印で代替できるかと」


代替できる、と家令は言った。


頭の中で、三年と一行のメモが並んだ。三年前から私の名で押してきた、辺境伯領の地金の印。代替できる、と一文で消える慣例。


中指が、もう一度耳飾りに触れた。


「ありがとう。預かりますわ」


私は紙を受け取って、皿の脇に置いた。皿のパンに手をつけずに、白湯のレモンを口に運ぶ。レモンの皮は朝食室の銀器の縁よりほんの少し冷たかった。


「ロベール、もう一点」


「はい」


「先月の領内挨拶状の控は、書斎に届いていますか」


「届いてございます」


「それと、婚礼の年の招待状の控も。倉から出しておいてください」


家令は一度、視線を夫の方へ動かしてから、頭を下げた。


「承知いたしました」


夫は気づかない。新しい話題に身を乗り出している。商会鋳貨ギルドの新しい鋳造所の煙突の高さがどうの、王都の新貨の意匠がどうの、と楽しそうに話している。私はそれを聞きながら、自分が彼の話のどの位置に座らされているのかを、頭の中で組み立て直していた。


オリヴィエは、家令のやり取りを聞いていなかったのか、聞いていたのに聞き流したのか、分からない。彼は私の方を見て、また明るく笑った。


「だからさ、ヴィル。改鋳所の披露の日には、君も出てくれ。並んで挨拶してくれればいいから」


「並んで挨拶、ですね」


「君の検査印は、念のため、押してくれれば」


四度目になった。


私は紙の角を、テーブルの上で一度だけ折った。指の腹で押さえて、すぐに伸ばした。折った跡は、後で必ず伸ばす。私のいくつかある癖の中で、一番、自分でも気に入っている癖だ。



朝食が終わって、私が朝食室を出る前に、ジャネット・ラフォンが廊下の入口で頭を下げた。


「奥様」


「ジャネット」


「お部屋にお戻りでよろしいですか」


「ええ」


「お申し付けの前に、整えております」


これも、いつものことだ。ジャネットは奥様の指示を聞く前に動く。私が「お茶を」と言う前に、湯の温度が合っている。「窓を」と言う前に、半分だけ開いている。


ただ、今朝のジャネットの「整えております」は、湯や窓のことではないと、私には分かった。


私は彼女の前で一度足を止めた。


「ジャネット、白湯のレモン」


「皮を二枚、新しく」


「ええ」


「茶葉は、わたくしの分も」


「ええ」


ジャネットの白い手袋の指先が、私の方を見ずに少し曲がった。彼女が「いつもと違うご様子」と察した時の合図だ。お互い、何年も使ってきた合図だ。


廊下の角を曲がって、書斎の扉を開ける。


机の上に、青表紙の地金台帳が置いてあった。今朝のうちに支所から届いたものだ。配達はジャネットが受け取ったらしい。机の隅に、麻紐が二本、堅結びで添えてある。


ジャネットの麻紐は、いつも堅結びで二本だ。


「結びは、堅結びで」――嫁いだ年に彼女が一度だけ言った言葉を、私は今も覚えている。荷物を縛る時の結び方の話だったけれど、それ以上のことを言われた気がした。荷物に限らない。結ぶ時は、ほどけない結び方を選ぶ。緩めるのは、自分が決めた時にする。


私はそれを見て、はじめて少しだけ笑った。



夜になっても、夫は領都に泊まると言って戻らなかった。


書斎の机に、私は黒い試金石の入った木箱を載せた。母の代から伝わる箱ではない。私が王立鋳貨院辺境支所に入った日に、エドモン副所長から「君の試金石だ。退任の時には院に返せ」と渡された、私個人の名で発行された道具だ。


蓋を開けた。


中で、玄武岩を細長く切り出した石が、白布の上に静かに置かれている。三年休んでいたが、毎月一度は出して柔らかい布で拭いた。表面に、薄い酸の跡が二筋ある。婚礼の年の前、辺境伯家の地金を初めて読んだ時の、私の手の癖の跡だ。


私はその試金石を取り出して、机の上に置いた。


それから、青表紙の地金台帳を開いた。


ページをめくる音だけが、書斎に響く。


最後の頁。改鋳事業の主任印の欄に、見覚えのない名前があった。


「ナエル・モンセール」


私の知らない女性の名前ではない。商会の令嬢で、王都の社交界では「鋳造士見習い」とも噂されている、二十二歳の方だ。私は彼女と直接会ったことはない。


主任印の隣に、押されたばかりの赤い印。


その上に、私の名前を入れる欄が、もう一つあった。


「念のため」と、印影の脇に、ロベールの筆跡で薄く書かれていた。


紙の上にも、その四文字が、書かれていた。


私は紙の角を、もう一度折った。今度は、伸ばさなかった。


机の引き出しを開けて、王立鋳貨院辺境支所宛の白い便箋を一枚取り出す。封筒も一通。


ペン先にインクをつける前に、一度だけ、左の親指で右の爪先を押した。集中する時の癖だ。


書斎の窓の外で、雨が降り始めた音がした。


三年。


私は心の中で、数字を一つだけ数えた。


三年、私は辺境伯夫人として、辺境伯領の地金に印を押してきた。婚礼の翌月、夫の父――先代辺境伯アルベリック様が、私の手を取って「この領の地金は、君の小数点が読んでくれるそうだね」と笑った日のことを覚えている。先代は、息子よりずっと細部に明るかった。


その人の代の継ぎ目で、私は嫁いだ。継ぎ目の側に、自分の名前があるつもりで、嫁いだ。


四度の「念のため」を、紙の上で、もう一度数える。


「念のため」というのは、本来、もう一度確かめる、という意味の言葉だ。誰かの仕事を、もう一度。ところが、夫の口の中では、それが少しずつ違う意味になっていた。「他に主役がいる」「お前は補助だ」「最後だけ署名しろ」。同じ四文字が、三年で形を変えた。


形を変えた、と気づいた瞬間に、対応すべきだった。半年前。一年前。二年前。三年前。気づいた頃に、私は気づかないふりをした。気づかないふりをすれば、夫は明るく笑い、領民は手を振り、家令は頭を下げ、商会は新しい鋳造所の煙突を建てて、辺境伯家は静かに動き続ける、ように見えた。


動き続けているように見える時、ほんとうに何が動いているのか、誰も確かめない。確かめないことが、夫の中では、信頼の証だった。夫のいう信頼を、私は、信頼と呼びたくないと、今夜、はじめて、思った。


それを、私は、毎月一通ずつ、王立鋳貨院辺境支所から送られてくる支所の月例報告書を読みながら、ゆっくりと、確認していた。送られてくる紙の中で、私はずっと「鋳貨検査官 ヴィルジニー」だった。封筒の宛先には、辺境伯夫人ではなく、検査官ヴィルジニー、と書かれていた。エドモン副所長は、私の身分を、決して書き間違えなかった。


私の責任ではない、と思いたかった。


私の責任ではない、と思いたかった。


二度、書く。声に出さずに、頭の中で、二度、書く。


それでも、足元は、いつも自分の靴で立っている。靴の中に、足がある。足の中に、骨と血がある。責任を、誰のせいにしても、靴は、私の靴のままだ。


ペン先のインクを、一度、便箋の隅に試した。きれいに線が落ちた。


私は試金石の上に、白布をそっと広げて、その上にもう一度、青表紙の地金台帳を重ねた。


明日の朝、書く便箋の宛先と差出人は、もう決まっていた。

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