第6話 黄色い警戒符はまだ出ていない
翌朝、辺境伯領の改鋳所の煙突から、白い煙が三本上がっていた。
改鋳所は、辺境伯邸から馬車で半刻、商会の運搬路に近い小高い丘の上にある。鉱山から運ばれた地金が、ここで一度炉に入り、新貨に鋳直される。
馬車を降りると、改鋳所の門前で、商会令嬢ナエル・モンセールが立っていた。
赤い唇の上に、ほんの少しだけ笑み。
「お待ちしておりました、ヴィルジニー様。中央財務監察庁の方も」
「失礼します」
私は短く挨拶を返した。ベルナトン氏は、礼の角度を一定に保ったまま、
「中央財務監察庁、監察使補シリル・ベルナトンと申します。本日は現場確認に参りました」
ナエルは黒髪を高く結っていた。指先は白い手袋で覆われているが、手袋の縁から、地金の汚れの灰色が、わずかに覗いている。
「私、商会鋳貨ギルド、鋳造士見習いのナエル・モンセールでございます。改鋳所の主任印は、私の名で押させていただいております」
「主任印を、ご令嬢のお名前で、ですね」
「はい」
「では、現場をご案内いただけますか」
「どうぞ」
私たちは、改鋳所の中に入った。
熱気と、金属の匂い。鋳造士たちが、炉のそばで地金を扱っている。鋳型の並びは、整然としていた。
ナエルが説明を始めた。
「現在、辺境伯領の年貢一年分、約十八トンの地金を、新貨に改鋳しております。鋳造期間は二か月、現時点で六割の工程が完了しております」
ベルナトン氏は、鞄から鉛筆を一本出して、覚え書きに書き留めた。
「六割、ですね」
「はい」
「改鋳前の地金見本は、どちらに」
「こちらに」
ナエルは、改鋳所の奥、見本棚に案内した。
棚には、三十ほどの小さな地金片が並んでいた。それぞれに札がついていて、入庫日と、純度の記載。
私は札を一枚ずつ読んでいった。
純度〇・九八四。
純度〇・九八二。
純度〇・九八五。
並んだ数字は、いずれも商会主任印で「ナエル・モンセール」と署名されている。
私は白布で包んだ試金石を取り出した。木箱から出すのは、辺境伯邸の書斎以来、二度目だった。
「ナエル様」
「はい」
「地金見本のうち、入庫日が古いものから三つ、お借りしてもよろしいですか」
「どうぞ」
棚から三つ、私は地金片を取り出した。一つを試金台に置いた。
試金石を、地金片に擦り付ける。表面に、地金の薄い線が残る。
エドモンが、酸瓶を手渡してくれた。
「お願いします」
私は酸の小さな雫を、試金石の上に垂らした。
線が、色を変える。
純度の筋が、想定より薄い。
書類に記載されている〇・九八四ではない。私の目では、〇・九六二、悪ければ〇・九五五。
私は、もう一つの地金片で、同じ手順を繰り返した。
書類:〇・九八二。
実測:〇・九六〇。
三つ目。
書類:〇・九八五。
実測:〇・九六四。
私は試金石を白布で軽く拭いて、エドモンの方を見た。
「副所長」
「うん」
「実測値、書類値より、いずれも二桁目に二パーセント以上の差があります」
「うん」
「商会鋳貨ギルドの基準値内ですか」
「商会の基準値、というのは、私の知る限り、存在しません。基準は、王立鋳貨院の基準のみです」
ナエルは、棚の脇に立ったまま、私たちのやり取りを聞いていた。
ベルナトン氏が、ゆっくりと振り向いた。
「ナエル様」
「はい」
「主任印の押印、いつから、どの書面で行われましたか」
「三か月前、改鋳事業開始時から、すべての地金台帳の主任印欄に押しております」
「お一人で、ですか」
「私一人で押しました」
「ご指示は、どなたから」
「父バルテルミから『主任印は形式である。改鋳事業の代表者の名として、商会から一人が押す慣例だ』と」
「形式、と」
「父はそう申しました」
「あなたは、それを形式とお考えでしたか」
ナエルは、少し言葉に詰まった。それから、髪を結い直した。
「形式ではない、と知っておりました」
「と、申しますと」
「主任印は、改鋳許可符に副署する権限です。形式ではありません。私はそれを、商会鋳貨ギルドの研修で学びました」
「研修で」
「五年間、見習いをしております。検査官資格の受験を、一度経験しております」
「結果は」
「不合格でした」
「再受験は」
「父が止めております」
ベルナトン氏は、鉛筆で何か書き留めた。
「ナエル様」
「はい」
「主任印を押す権限は、王立鋳貨院の検査官資格、または、商会鋳貨ギルドの鋳造士長相当の資格を持つ者に限られます。あなたは見習いです」
「はい」
「主任印を押した書類は、形式上、無効です」
ナエルは、少しだけ目を閉じた。それから、開けた。
「分かっております」
◇
改鋳所の事務室に移って、ベルナトン氏は、改鋳許可符の保管庫を確認したいと申し出た。
家令ロベールが、別の入口から事務室に入ってきた。
「監察使殿、副所長、奥様」
「家令殿」
「改鋳許可符は、現在、辺境伯邸の倉庫で保管しております。本日中にこちらへ移送する手配を」
「お手配は不要です」
エドモンが、淡々と告げた。
「改鋳許可符は、昨夜、王立鋳貨院辺境支所の保管庫に移送が完了しております。本院鋳貨頭ヴェルニエ様の判断で、現場保管から支所保管へ切り替えました」
「昨夜、ですか」
「うん」
家令ロベールの顔色が、ほんの一段、下がった。
ベルナトン氏が、目線をロベールに移した。
「家令殿」
「はい」
「主任印の名義変更通知書、こちらに写しがあります」
ベルナトン氏は、革鞄から書類を取り出した。
「これは、ロベール殿の筆ですね」
ロベールは、書類を一目見て、声を出さなかった。
喉が、一度、鳴った。それから、もう一度、鳴った。本人が止めようとして、止められなかった音だった。
「家令殿」
「……はい」
「筆跡について、確認をお願いします」
「私の、ものでございます。……筆跡は」
「ヴィルジニー様の検査印を、王立鋳貨院辺境支所の印で代替する、と通知された文書ですね」
「代替できる、と書きました」
「実際には、代替できません。王立鋳貨院辺境支所の印は、改鋳許可符の発行登録印であり、副署権はありません。副署権は、検査官個人の印にのみあります」
ロベールは、机の縁に手をついた。
「家令殿」
「はい」
「お話を伺うのは、本日ではありません。後日、書面で」
「分かりました」
ロベールは、深く一礼をして、事務室を出ていった。
私は左の親指で、右の爪先を、一度だけ押した。
◇
帰りの馬車。
ベルナトン氏が、私の方を見て、
「ヴィルジニー様」
「はい」
「黄色い警戒符は、まだ出さない方がよろしいですね」
「同意します」
「商会鋳貨ギルドの改鋳工程は、まだ六割の段階です。停止すれば、領民の年貢納入が、別の手段に切り替わる猶予が生まれます。今、警戒符を出すと、改鋳所の従業員と地金の流通に、不必要な混乱を招きます」
「はい」
「明日、改鋳停止令の起草を、本院に第二報として要請します」
私は窓の外を見た。
夕日が、辺境伯領の鉱山の方角で、赤く沈み始めていた。
ベルナトン氏が、もう一度、
「ヴィルジニー様」
「はい」
「ご令嬢ナエル様の『私はそれを形式と知らなかった』ではなく『形式ではないと知っていた』というご発言を、書面化していただきたく思います」
「承知しました」
「あなたから、お声掛けいただけますか」
「私からですか」
「あなたの方が、彼女には届くと思います」
私は窓の外から、視線を戻した。
ベルナトン氏は、まっすぐ前を見ていた。
「分かりました」
馬車が、支所の方角へ、ゆっくり進んでいった。




