第7話 父の名で押したのではない、私の名で押した
支所の応接間は、二階の小さな部屋だった。机が一つ、椅子が三脚、壁際に書架。窓は南向き。
午後、商会令嬢ナエル・モンセールが、一人で支所を訪れた。
「ヴィルジニー様」
「ナエル様」
「お時間を、いただいてもよろしいですか」
「どうぞ」
椅子を一脚、私は彼女に勧めた。エドモンがすぐ隣の事務室に控えている。ベルナトン氏は、上階の机で電信文の準備をしている。
ナエルは、椅子に深く座らずに、背を伸ばして座った。
「お茶を、お持ちしましょうか」
「いただきます」
私は湯を二杯、自分で運んできた。机に置いて、自分の杯を持って、向かい合った。
ナエルが、最初に口を開いた。
「私、試験には落ちましたが、地金は読めます」
「はい」
「五年、見習いをしております。父の鋳造所で。地金を持つと、掌で重さを覚えます。〇・九六と〇・九八の差は、掌で分かります」
「掌で」
「はい」
「では、改鋳所の地金見本の純度を、ナエル様は、ご存じだった」
「知っておりました」
「書類値と、実測値の差を」
ナエルは、一度、答えようとして、口を開けた。すぐには言葉を出さなかった。膝の上で、彼女の指が、握り直された。
「……『気づきませんでした』と、申し上げかけました」
「ナエル様」
「いえ、嘘になります。知っておりました」
ナエルは、息を一つ吐いて、続けた。
ナエルは、湯の湯気を見て、それから私の方を見た。
「ヴィルジニー様」
「はい」
「父バルテルミは、私が再受験する前に、私に主任印を押させました」
「再受験前に」
「はい。検査官資格を取得すれば、私は王立鋳貨院の側の人間になります。商会鋳貨ギルドの主任印を押せる立場ではなくなります。父は、私に商会の側で押させたかった」
「ご事情、ですね」
「事情、と申しますか」
ナエルは、少し笑った。
「父の経営判断です。私の人生も、ですが」
私は、紙を一枚、机に置いた。
「ナエル様」
「はい」
「いま、お話しいただいたことを、書面化していただけますか」
「父の名で、ですか」
「いいえ。ご自身のお名前で」
「私の名で」
「はい」
ナエルは、湯の杯を、机の縁に少し戻した。
しばらく、彼女は無言だった。
それから、
「書きます」
と、短く言った。
私は便箋とペンを差し出した。
ナエルは、ペンを取って、書き始めた。
筆跡は、商会の事務に慣れた、整った字だった。
「私、ナエル・モンセールは、辺境伯領年貢改鋳事業において、王立鋳貨院検査官資格を取得しないまま、商会鋳貨ギルドの主任印を、辺境伯家改鋳台帳に押印いたしました。
押印は、父バルテルミ・モンセールの指示でありましたが、その指示が王立鋳貨院の制度に反することは、私自身、見習い五年の知識として承知しておりました。
押印の効力が形式上のものではなく、副署権を伴う公式の行為であることを、私は知った上で、押しました。
『父の名で押した』ではなく、『私の名で押した』と、ここに明記いたします。
王立鋳貨院辺境支所の処分につきましては、見習い停職を含む、いかなる処分も受け入れる所存です。
ナエル・モンセール」
ナエルは、自分の名前を書き終えて、ペンを置いた。
私は、その紙を、しばらく読まずに、ただ机の上に置いた。
「ナエル様」
「はい」
「ありがとうございます」
「奥様」
「はい」
「ひとつ、お願いがございます」
「どうぞ」
「父バルテルミの、経営判断としての責任は、別途、父自身が書面で書くべきだと、私は思います。ただ、父の名前を、私の書面にいま並べて書くと、父の自由な供述が阻害されます。今日のところ、私の書面だけを、別個に、本院に提出していただけますか」
「分かりました」
「父の供述は、後日、改めて」
「ええ」
私は、ナエルの書面を、青表紙の地金台帳の控に、丁寧に挟んだ。
エドモンが、隣の事務室から顔を出した。
「お湯、おかわりは」
「ありがとう、副所長」
エドモンが、無言のまま、湯を一杯ずつ、両方の杯に注ぎ足した。
◇
ナエルが、応接間で身を整えて、立ち上がった時、ベルナトン氏が二階の階段を下りてきた。
「ナエル様」
「はい」
「現場の地金見本について、もう一点。改鋳所の地金は、商会鋳貨ギルドが受け入れた時点と、改鋳前で、重量に差が出ておりますか」
ナエルは、しばらく考えた。
「重量、ですね」
「はい」
「差は、出ます。研磨と切断、加工工程で、一定の損失は出ます」
「その損失分は、誰の管理ですか」
「商会鋳貨ギルドの管理です」
「ロベール家令殿との取り決めは」
「ございません」
「了解しました」
ベルナトン氏は、それだけ書き留めた。
ナエルは、応接間を出る前に、もう一度、私の方を向いた。
「ヴィルジニー様」
「はい」
「私、試験に、もう一度、挑みたいと思います」
「はい」
「停職期間が明けたら、本院の試験に」
「ええ」
「奥様の机を、その時、一度、訪ねさせていただいてもよろしいですか」
「机は、空けてあります」
ナエルは、深く一礼して、応接間を出た。
階段の音が遠ざかってから、ベルナトン氏が、私の机の脇に近づいた。
「ヴィルジニー様」
「はい」
「お疲れさまでした」
「はい」
ベルナトン氏は、自分の鞄から、削ったばかりの新しい鉛筆を二本、取り出して、私の机の端に立てた。
「机の上に、二本」
「ええ」
「明日、本院に第二報を打ちます。改鋳停止令の起草要請です」
「お願いします」
「もう一点」
「はい」
「本日のあなたの、ナエル様への問いの順序は、見事でした」
「順序、ですか」
「ええ。問いを、形式から始めずに、彼女自身の知識から始められました。彼女が答えたのは、形式の話ではなく、彼女自身の知識の話でした」
私は、耳飾りに、中指を一度触れた。
「ベルナトン様」
「はい」
「あなたの問いも、同じ順序でいらっしゃいます」
「私の」
「ええ」
ベルナトン氏は、眼鏡の柄を、一度だけ押し上げた。
それから、もう一度、礼の角度を変えずに、
「失礼します」
と、応接間を出ていった。
◇
夜、辺境伯邸では、オリヴィエが家令ロベールに問うていた。
「ヴィルが、どこに行ったか、本当に知らないのか」
「奥様は、王立鋳貨院辺境支所におられます」
「届出?」
「ええ。受理されているとのことです」
「届出」
オリヴィエは、廊下を二度、行き来した。
「俺はあいつに、何か、怒らせるようなことを言ったか」
「奥様は、お怒りではないかと存じます」
「怒りでないなら、なぜ家を出る」
「お仕事に、お戻りでございます」
「仕事」
「鋳貨検査官のお仕事でございます」
オリヴィエは、廊下の壁に、額を一度寄せた。
「ロベール」
「はい」
「ヴィルが、王立鋳貨院の検査官だったことは、知っている。それはもちろん知っている」
「はい」
「ただ、辺境伯夫人で、王立鋳貨院の検査官でも、ある。それでいいじゃないか。両方でいいじゃないか」
「両方、と」
「うん」
ロベールは、深く頭を下げた。
「辺境伯様」
「うん」
「奥様にとっての『両方』と、辺境伯様のお考えになる『両方』は、別物のように、私には、見えております」
オリヴィエは、額を壁から離した。
「別物?」
「奥様は、両方とも、ご自分の名でなさりたい方でございます」
オリヴィエは、ロベールの方を、しばらく見た。
それから、廊下の角を曲がって、書斎の方へ歩いていった。
◇
支所の窓辺で、私は新しい手帳の三頁目に、ペンを置いた。
「ナエル様、書面を書いた。
『父の名で押したのではない、私の名で押した』。
私は、その一行を、自分のためにも、書き留める」
ペンを置いて、机の端に立った鉛筆を、私は、しばらく見ていた。
二本だった。
短く削ったのと、まだ削っていない、新しいの。




