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念のためと夫に呼ばれ続けて、三年目の朝が来た  作者: 九葉(くずは)


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7/10

第7話 父の名で押したのではない、私の名で押した

支所の応接間は、二階の小さな部屋だった。机が一つ、椅子が三脚、壁際に書架。窓は南向き。


午後、商会令嬢ナエル・モンセールが、一人で支所を訪れた。


「ヴィルジニー様」


「ナエル様」


「お時間を、いただいてもよろしいですか」


「どうぞ」


椅子を一脚、私は彼女に勧めた。エドモンがすぐ隣の事務室に控えている。ベルナトン氏は、上階の机で電信文の準備をしている。


ナエルは、椅子に深く座らずに、背を伸ばして座った。


「お茶を、お持ちしましょうか」


「いただきます」


私は湯を二杯、自分で運んできた。机に置いて、自分の杯を持って、向かい合った。


ナエルが、最初に口を開いた。


「私、試験には落ちましたが、地金は読めます」


「はい」


「五年、見習いをしております。父の鋳造所で。地金を持つと、掌で重さを覚えます。〇・九六と〇・九八の差は、掌で分かります」


「掌で」


「はい」


「では、改鋳所の地金見本の純度を、ナエル様は、ご存じだった」


「知っておりました」


「書類値と、実測値の差を」


ナエルは、一度、答えようとして、口を開けた。すぐには言葉を出さなかった。膝の上で、彼女の指が、握り直された。


「……『気づきませんでした』と、申し上げかけました」


「ナエル様」


「いえ、嘘になります。知っておりました」


ナエルは、息を一つ吐いて、続けた。


ナエルは、湯の湯気を見て、それから私の方を見た。


「ヴィルジニー様」


「はい」


「父バルテルミは、私が再受験する前に、私に主任印を押させました」


「再受験前に」


「はい。検査官資格を取得すれば、私は王立鋳貨院の側の人間になります。商会鋳貨ギルドの主任印を押せる立場ではなくなります。父は、私に商会の側で押させたかった」


「ご事情、ですね」


「事情、と申しますか」


ナエルは、少し笑った。


「父の経営判断です。私の人生も、ですが」


私は、紙を一枚、机に置いた。


「ナエル様」


「はい」


「いま、お話しいただいたことを、書面化していただけますか」


「父の名で、ですか」


「いいえ。ご自身のお名前で」


「私の名で」


「はい」


ナエルは、湯の杯を、机の縁に少し戻した。


しばらく、彼女は無言だった。


それから、


「書きます」


と、短く言った。


私は便箋とペンを差し出した。


ナエルは、ペンを取って、書き始めた。


筆跡は、商会の事務に慣れた、整った字だった。


「私、ナエル・モンセールは、辺境伯領年貢改鋳事業において、王立鋳貨院検査官資格を取得しないまま、商会鋳貨ギルドの主任印を、辺境伯家改鋳台帳に押印いたしました。


押印は、父バルテルミ・モンセールの指示でありましたが、その指示が王立鋳貨院の制度に反することは、私自身、見習い五年の知識として承知しておりました。


押印の効力が形式上のものではなく、副署権を伴う公式の行為であることを、私は知った上で、押しました。


『父の名で押した』ではなく、『私の名で押した』と、ここに明記いたします。


王立鋳貨院辺境支所の処分につきましては、見習い停職を含む、いかなる処分も受け入れる所存です。


ナエル・モンセール」


ナエルは、自分の名前を書き終えて、ペンを置いた。


私は、その紙を、しばらく読まずに、ただ机の上に置いた。


「ナエル様」


「はい」


「ありがとうございます」


「奥様」


「はい」


「ひとつ、お願いがございます」


「どうぞ」


「父バルテルミの、経営判断としての責任は、別途、父自身が書面で書くべきだと、私は思います。ただ、父の名前を、私の書面にいま並べて書くと、父の自由な供述が阻害されます。今日のところ、私の書面だけを、別個に、本院に提出していただけますか」


「分かりました」


「父の供述は、後日、改めて」


「ええ」


私は、ナエルの書面を、青表紙の地金台帳の控に、丁寧に挟んだ。


エドモンが、隣の事務室から顔を出した。


「お湯、おかわりは」


「ありがとう、副所長」


エドモンが、無言のまま、湯を一杯ずつ、両方の杯に注ぎ足した。



ナエルが、応接間で身を整えて、立ち上がった時、ベルナトン氏が二階の階段を下りてきた。


「ナエル様」


「はい」


「現場の地金見本について、もう一点。改鋳所の地金は、商会鋳貨ギルドが受け入れた時点と、改鋳前で、重量に差が出ておりますか」


ナエルは、しばらく考えた。


「重量、ですね」


「はい」


「差は、出ます。研磨と切断、加工工程で、一定の損失は出ます」


「その損失分は、誰の管理ですか」


「商会鋳貨ギルドの管理です」


「ロベール家令殿との取り決めは」


「ございません」


「了解しました」


ベルナトン氏は、それだけ書き留めた。


ナエルは、応接間を出る前に、もう一度、私の方を向いた。


「ヴィルジニー様」


「はい」


「私、試験に、もう一度、挑みたいと思います」


「はい」


「停職期間が明けたら、本院の試験に」


「ええ」


「奥様の机を、その時、一度、訪ねさせていただいてもよろしいですか」


「机は、空けてあります」


ナエルは、深く一礼して、応接間を出た。


階段の音が遠ざかってから、ベルナトン氏が、私の机の脇に近づいた。


「ヴィルジニー様」


「はい」


「お疲れさまでした」


「はい」


ベルナトン氏は、自分の鞄から、削ったばかりの新しい鉛筆を二本、取り出して、私の机の端に立てた。


「机の上に、二本」


「ええ」


「明日、本院に第二報を打ちます。改鋳停止令の起草要請です」


「お願いします」


「もう一点」


「はい」


「本日のあなたの、ナエル様への問いの順序は、見事でした」


「順序、ですか」


「ええ。問いを、形式から始めずに、彼女自身の知識から始められました。彼女が答えたのは、形式の話ではなく、彼女自身の知識の話でした」


私は、耳飾りに、中指を一度触れた。


「ベルナトン様」


「はい」


「あなたの問いも、同じ順序でいらっしゃいます」


「私の」


「ええ」


ベルナトン氏は、眼鏡の柄を、一度だけ押し上げた。


それから、もう一度、礼の角度を変えずに、


「失礼します」


と、応接間を出ていった。



夜、辺境伯邸では、オリヴィエが家令ロベールに問うていた。


「ヴィルが、どこに行ったか、本当に知らないのか」


「奥様は、王立鋳貨院辺境支所におられます」


「届出?」


「ええ。受理されているとのことです」


「届出」


オリヴィエは、廊下を二度、行き来した。


「俺はあいつに、何か、怒らせるようなことを言ったか」


「奥様は、お怒りではないかと存じます」


「怒りでないなら、なぜ家を出る」


「お仕事に、お戻りでございます」


「仕事」


「鋳貨検査官のお仕事でございます」


オリヴィエは、廊下の壁に、額を一度寄せた。


「ロベール」


「はい」


「ヴィルが、王立鋳貨院の検査官だったことは、知っている。それはもちろん知っている」


「はい」


「ただ、辺境伯夫人で、王立鋳貨院の検査官でも、ある。それでいいじゃないか。両方でいいじゃないか」


「両方、と」


「うん」


ロベールは、深く頭を下げた。


「辺境伯様」


「うん」


「奥様にとっての『両方』と、辺境伯様のお考えになる『両方』は、別物のように、私には、見えております」


オリヴィエは、額を壁から離した。


「別物?」


「奥様は、両方とも、ご自分の名でなさりたい方でございます」


オリヴィエは、ロベールの方を、しばらく見た。


それから、廊下の角を曲がって、書斎の方へ歩いていった。



支所の窓辺で、私は新しい手帳の三頁目に、ペンを置いた。


「ナエル様、書面を書いた。


『父の名で押したのではない、私の名で押した』。


私は、その一行を、自分のためにも、書き留める」


ペンを置いて、机の端に立った鉛筆を、私は、しばらく見ていた。


二本だった。


短く削ったのと、まだ削っていない、新しいの。

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