第8話 数字に名前を寄せないでください
辺境伯邸の大広間が、三日後、改鋳検証会の臨時会場になった。
私が出迎えられたのは、玄関ではない。裏口だった。家令ロベール・ロワゾンが「奥様、こちらから」と頭を下げ、私はそれを断らずに通った。
大広間の中央に、長机が並べられていた。試金台、酸瓶、比重秤、青表紙の地金台帳、改鋳許可符の写し――王立鋳貨院辺境支所の名で、すべて私たちが持ち込んだ道具と書類だった。
出席は、辺境伯オリヴィエ、家令ロベール、商会主バルテルミ・モンセール、商会令嬢ナエル・モンセール、中央財務監察使補シリル・ベルナトン、王立鋳貨院辺境支所副所長エドモン・カルティエ、検査官ヴィルジニー・ド・サン=アルディオ、領民代表三名。
夫オリヴィエとは、三日ぶりに顔を合わせた。
「ヴィル」
夫は、長机の向こうから、一歩、近づきかけた。
「辺境伯様」
私は、まっすぐ礼を返した。
「本日は、王立鋳貨院辺境支所の検査官として、出席しております。私的なご挨拶は、改鋳検証会の終了後にお願いいたします」
オリヴィエは、足を、その場で止めた。
ベルナトン氏が、最初に発言した。
「中央財務監察庁、監察使補シリル・ベルナトンと申します。本日は、辺境伯領年貢改鋳事業における地金純度の検証会を執り行います。これは断罪の場ではなく、書類値と実測値の照合の場です。各位、ご協力をお願い申し上げます」
エドモンが、続けた。
「王立鋳貨院辺境支所副所長、エドモン・カルティエ。本日の現場検証の主検査官は、ヴィルジニー・ド・サン=アルディオ検査官が務めます」
私は、長机の中央に立った。
試金石を白布から取り出した。
地金見本を一つ、長机に置いた。
「皆様、お手元の改鋳台帳をご覧ください。本日、検証する地金見本は、改鋳所から本日午前中に運ばれた、本日付の入庫地金です。商会主任印『ナエル・モンセール』の押印書類によれば、純度〇・九八三と記載されております」
私は、試金石を地金見本に擦り付けた。
線が、残る。
酸瓶を傾けて、雫を、線の上に。
線の色が、変わる。
「実測純度、〇・九六一。書類値との差、〇・〇二二」
商会主バルテルミ・モンセールが、机を一度、軽く叩いた。
「奥方、待ってくれ。試金石による実測値は、誤差が大きい。我が商会鋳貨ギルドの分析設備では、もう少し書類値に近い数字が出る」
私は、バルテルミに向かって、
「商会主殿」
「うん」
「王立鋳貨院の正式試験は、試金石、酸試験、比重秤の三段階で行われます。本日は、その三段階のうち、試金石をいま終えました。続いて、比重秤に移ります」
私は比重秤を引き寄せた。
地金見本の重量を秤で量り、水中重量を量り、比重を計算する。
数字を黒板に書いた。
比重一一・三五。純度推定〇・九六二。
「比重試験の結果、純度推定〇・九六二。試金石の結果〇・九六一と、整合します」
バルテルミは、もう一度、机を叩こうとして、止めた。
「奥方」
「はい」
「数字は、まだ商会鋳貨ギルドの基準範囲内だ。誤差〇・〇二程度は、許容範囲だろう」
私は、青表紙の地金台帳を開いた。
「商会主殿。王立鋳貨院の改鋳基準は、純度〇・九八〇以上です。これは、辺境伯領の鉱山から産出される地金について、過去十二年間、王立鋳貨院辺境支所と先代辺境伯アルベリック様の協定で取り決められた基準です」
私は、義父アルベリックの手帳の写しを、長机に置いた。
「協定書の写しです。先代辺境伯のお手元から、王立鋳貨院辺境支所に提出されたもの。本日、初めて公の場に出します」
オリヴィエが、息を、一度、止めた。
私は続けた。
「実測純度〇・九六二は、協定書に定める基準値〇・九八〇に達しておりません。本地金で改鋳された新貨は、王立金庫の通過認証基準を満たさない可能性が高い、というのが、王立鋳貨院辺境支所の見解です」
バルテルミ・モンセールは、声を上げた。
「奥方、もう一度言うが、それは商会鋳貨ギルドの鋳造士見習いが調整した数字だ。我が商会の基準では誤差の範囲――」
私は、バルテルミの言葉の終わりを、待たずに、
「商会主殿」
「うん」
「数字に名前を寄せないでください」
短い間。
「基準は、押した人の身分で変わりません」
バルテルミは、口を、開けたまま、止めた。
ナエルが、父の隣で、まっすぐ前を向いていた。
ベルナトン氏が、その瞬間、静かに発言した。
「中央財務監察庁の判断として、本件改鋳貨の王立金庫通過認証を、本日付で保留します。本院鋳貨頭ヴェルニエ様の名で、改鋳停止令の起草を要請いたします」
ベルナトン氏は、いつものように眼鏡の柄に手をかけたが、押し上げる前に、その手が、一度、止まった。彼自身、自分の手が止まったことに気づかないらしかった。
長机の端で、領民代表のひとり――白髪混じりの、麦の作付け頭の老人が、誰にともなく呟いた。
「……今年の納め、どうなりますかの」
声は、小さかった。返事を求めていなかった。けれど、大広間の空気が、その一言で、一度だけ、ぱっと縮んだ。
オリヴィエが、ようやく口を開いた。
「いや、待ってくれ」
ベルナトン氏は、答えなかった。
「待ってくれ。一年分の年貢を、改鋳途中で止められたら、辺境伯領は」
「辺境伯様」
ベルナトン氏は、礼の角度を、いつもと同じに保ったまま、
「年貢の代替納入手段については、王立金庫と中央財務監察庁が、別途、ご相談に応じます。本件改鋳貨の通過保留は、領民への被害を最小化するための、機構上の判断です」
「いや、待ってくれ」
「辺境伯様、お言葉ですが、待つ段階は、地金純度〇・九六二の段階で、既に過ぎております」
オリヴィエは、椅子の肘掛けを、二度、指で叩いた。
家令ロベールが、その横で、深く頭を下げて、
「辺境伯様」
「うん」
「本件、私の判断ミスでございます。検査印の手続きを、私が代替できる、と書類に書いた、その判断が」
「ロベール」
「申し訳ございません」
オリヴィエは、家令の肩に、手を一度置いて、それから、力なく、下ろした。
ナエルが、自分の書面の写しを、長机に置いた。
「父バルテルミ、聞いてください」
「ナエル」
「私、書面を出しました。父の名ではなく、私の名で。私が知っていて、押した、と」
「ナエル、お前」
「父は、別に書面をお書きください。私の書面の上に、ご自分の判断を上書きしないでください」
バルテルミ・モンセールは、しばらく口を開けて、それから、口を閉じた。
◇
検証会は、午前中の二時間で、終わった。
長机の道具を、私たちは、丁寧に片付けた。試金石を白布で包み、麻紐を堅結びで二本かけた。
オリヴィエが、私の机の脇に近づいた。
「ヴィル」
「辺境伯様」
「いや、ヴィルジニー」
私は、その名を聞いて、一度、息を、止めた。
オリヴィエは、続けた。
「これから、改鋳停止令が出る、ということは」
「はい」
「俺たちの結婚は、どうなる」
「結婚と改鋳事業は、別件です」
「別件」
「はい」
「ヴィル、いや、ヴィルジニー」
「辺境伯様」
「夜、邸に、戻らないか。話したい」
私は、白布に包んだ試金石を、両手で抱えていた。
「お話は、書面で承ります。本日は、改鋳検証の続きで、支所に戻ります」
オリヴィエの肩が、少し、下がった。
ベルナトン氏が、私の方に近づいて、薄手のハンカチを、私の試金石の白布の脇に、そっと置いた。酸の飛沫よけのハンカチだった。
「ヴィルジニー様、酸瓶を持ち帰る前に、これを」
「ありがとうございます」
私は、左の親指で、右の爪先を、一度押した。
エドモンが、隣で、深く息を吐いた。
「副所長」
「うん」
「帰りましょう」
「うん」
私たちは、辺境伯邸の裏口から、馬車に乗った。
馬車が動き出してから、ベルナトン氏が、
「ヴィルジニー様」
「はい」
「『数字に名前を寄せないでください』は、本日の議事録に、そのまま記録します」
「お任せします」
「もう一点」
「はい」
「明日、本院から、改鋳停止令の正式書面が、こちらに届きます」
私は、窓の外を、見た。
辺境伯邸の屋根が、ゆっくり、遠ざかっていった。




