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七尾工房、本日も開店休業中。  作者: 七尾 拓哉


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第8話 旭川の風、十人の呼吸(前編)

 九月の中標津は、まるで刃物の刃先をそっと肌に当てられたかのように、朝一番の空気が鋭く尖り始める。ひと月前まであれほど瑞々しく輝いていた根釧台地の牧草地は、ゆっくりと深い錆色を帯びた濃緑へと落ち着き、朝の気温は早くもひと桁まで下がるようになっていた。


 午前七時。窓を開けると、防風林のカラマツを揺らす風の音が、昨日よりも明らかに乾いた音を立てて部屋を通り抜けていく。吹き抜ける風の冷たさに首をすくめながら、私は二階のリビングのダイニングテーブルの定位置に腰掛け、ティファニーのハート柄マグカップを両手で包み込んでいた。冷たい風のせいで、淹れたてのブラックコーヒーは驚くほどの早さでぬるくなっていくが、その微かな熱を掌に覚えながら、私は十分間だけの朝の読書を静かに楽しんでいた。

 今朝読んでいるのは、宮下奈都さんの『羊と鋼の森』だ。北海道の静かな山あいの学校で、一台のピアノの調律に出会った青年が、森の匂いのする音を求めて、果てしない職人の世界へと足を踏み入れていく物語。作中、主人公の外村は、先輩調律師の「才能なんていうものは、おそろしく深く、あるいは激しく、何かを信じる力のことなんじゃないか」という言葉を胸に、自分の頼りない耳と不器用な指先を頼りに、ひたすら鍵盤の奥にある羊毛のハンマーと鋼の弦に向き合い続ける。評価されるかどうかではなく、自分がその仕事に対してどれだけ誠実であれるか。ページをめくりながら、私はその静かなロジックを噛み締め、自分の手のひらをそっと見つめた。


 一年前にこの工房へ来たばかりの十一月、初めて訪ねた畑山さんに「まだ、やわらかい手だな」と笑われた私の掌には、この十ヶ月の間、チェリーの端材を削り、木工旋盤の刃を無心で握り締め続けたことで、親指と人差し指の付け根のあたりに、少しだけ硬く、道具に馴染むためのタコができ始めていた。地味な仕事をコツコツと積み重ねてきた証が、皮膚の硬さとなってようやく現れ始めていたのだ。

 けれど、私がここでようやく「木と道具の正しい対話」の入り口に立ったまさにそのタイミングで、七尾さんは「アユムさん、ちょっと旭川の立花工芸さんに行って、揉まれておいでよ。二ヶ月でいいから」と、いつもの飄々とした調子で私の背中を押したのだった。


 二ヶ月。短いようで、果てしなく長い時間に思えた。この工房のリズムにようやく身体が馴染み、自分の作った「言葉と木工」を介して誰かの未来に関わっていく覚悟を固めたというのに、また別の土地の、全く異なる空気に自分を放り込まなければならない。その遠回りのような日々に、私の胸の奥には、拭いきれない小さな戸惑いが燻っていた。


「……おはよーございます……」


 午前九時五十分を回った頃、お約束通りのひどい寝癖を頭の左右に爆発させた七尾さんが、力なく階段を降りてきた。ダイニングテーブルの上に置かれた私の文庫本を一瞥した。


「お、宮下奈都さんか。静かないい本だよね。『羊と鋼の森』。ピアノの調律もギター製作も、結局は木を相手にする気の遠くなるような旅だからさ」


 そう言って、土間の椅子に深く腰掛け、本日の一本目のアメリカンスピリットに火をつける。青白い煙が、網戸を通り抜けていく夏の終わりの乾いた風にさらわれて、あっけなく消えていった。七尾さんは煙草を灰皿に押し付けると、私のトラベルバッグの口へと、一冊の分厚い文庫本を無造作に突っ込んできた。見ると、伊坂幸太郎の『ゴールデンスランバー』だった。


「孤独に負けないようにね。十人のプロの職人がいる現場って、本当にうるさいし、自分を見失いそうになるからさ。疲れたら、その本の中の逃亡劇にでも逃げ込むといいよ」


「七尾さん、私は逃げるために旭川へ行くんじゃありません。……でも、ありがとうございます」


 七尾さんはそう言いながらも、本棚の方へふらりと歩いていって、もう一冊、今度は表紙の擦れた文庫本を引っ張り出してきた。


「あ、二ヶ月も行くなら、ゴールデンスランバーだけじゃ寂しいよね。『舟を編む』も持ってった方がいいな」


「二冊ですか」


「うん。逃げる話ばっかりだと気が滅入るかもしれないし。こっちは、ちゃんと一個のことに向き合う話だから。まあ、気が向いたら読んでみなよ」


 七尾さんはその文庫本も、トラベルバッグの隙間に無造作にねじ込んだ。私は思わず苦笑して、「ありがとうございます」ともう一度言った。


「お土産は旭川ラーメンの生麺ね。できれば醤油がいいな」


 七尾さんは悪びれずに笑うと、二本目の煙草に手を伸ばした。

 今日は珍しく、あーちゃんが居た。旅館のバイトの前に立ち寄ってくれたのだ。

 私が旅立つことに対して、多くを語らなかった。ただ、私がバッグのジッパーを閉める音を聞いたとき、ふと顔を上げ、ヘッドフォンを片耳だけ外して、「……気をつけて」と、消え入りそうな声で呟いた。その短い言葉の中に、彼女なりの精一杯の気遣いと、中標津の静寂を共有する者としての連帯感が宿っているように思えて、私の胸の奥が少しだけ温かくなった。


「じゃあ、行ってきます」


「はーい、いってらっしゃい。たまには朝寝坊しなよー」


 二つの看板が並ぶ工房の入り口を振り返りながら、私は白いビートルの助手席ではなく、中標津の冷たい秋風を浴びて、ゆっくりと駅へ向かって歩みを進めた。

   

 中標津から都市間バスに揺られる道程は、およそ五時間にも及んだ。バスの車窓は、まるでスライドショーのように北海道の広大な季節の移り変わりを映し出していく。

 中標津を出発した直後は、地平線まで波打つように続く、あの見慣れた根釧台地の巨大な牧草地が広がっていた。規則的に並ぶ防風林のカラマツ、点在する白いロールベール、そして時折姿を見せる牛たちの影。しかし、バスが北見を経由し、石北峠の険しい山道へと差し掛かる頃には、景色は劇的にその表情を変えていった。

 針葉樹と広葉樹が複雑に混ざり合う深い森は、ところどころ黄色や赤の斑点を含み、山肌はすでに秋の深まりを告げている。峠の頂上付近では、雲の切れ間から覗く陽光が、標高の高い岩肌を冷ややかに照らし出していた。急峻な渓谷を貫く石北峠を越え、層雲峡の圧倒的な柱状節理の絶壁を通り過ぎる頃には、私の心はすでに、自分が住み慣れた「中標津」という安全な繭から、完全に引き剥がされたことを実感せざるを得なかった。

 中標津の、あの人工的なノイズが一切ない、どこまでも静寂に包まれた世界に身体が慣れきっていたのだ。たった十ヶ月前までは東京の真ん中で満員電車に揺られて暮らしていたというのに、人間の感覚というものは、これほどまでに脆く、そして鮮やかに塗り替えられてしまうものなのかと、改めて驚かされる。かつての東京での日々が、遠い前世の出来事のように思えた。


「ようこそ、橋本さん。長旅、本当にお疲れ様でした」


 旭川駅前のロータリーで私を出迎えてくれた「立花工芸」の代表、立花さんは、焦げ茶色の涼しげなリネンジャケットをスマートに着こなし、べっ甲縁の眼鏡の奥の優しげな瞳を細めて微笑んだ。その都会的で洗練された佇まいは、中標津のログハウスでいつも寝癖を爆発させ、古びたジーンズを穿いている我が師匠とは、あまりにも対照的だった。洗練された大人の余裕と、どこか理知的なオーラが漂っている。

 立花さんの運転するセダンは、静かに街を走り、東光地区にある「立花工芸」の本社工場へと向かった。車窓から見える旭川の街並みは、家具の街としての長い歴史を物語るように、どこか職人気質とモダンなデザインセンスが融合した、独特の気品を湛えている。


「さあ、うちの現場です。みんな、ちょっと手を止めてくれ」


 車のドアを開け、コンクリート造りの頑強な工場の建物の中に一歩足を踏み入れた瞬間、私はその圧倒的な「音」の塊に、身体の芯まで叩きのめされるような感覚を覚えた。

 工場の中で稼働している巨大な帯鋸バンドソーの、地響きのように床を揺らす重低音。大型サンダーが木肌を激しく削り取る、耳の奥を突き刺すような乾いた摩擦音。エアーコンプレッサーの抜ける「プシューッ!」という鋭い破裂音。そして、高周波プレス機が接着剤を硬化させるための、目に見えない振動。


 それらの剥き出しの機械ノイズが、十人のプロの職人たちが発する、一ミリの無駄もない規律正しい呼吸と重なり合って、工場全体の空気をピリピリと激しく振動させている。


 全員がグレーの揃いの作業服を身にまとい、誰も無駄口を利かない。ただ、シビアな納期と目の前の材の反りだけを凝視し、機械のような正確さで、けれど凄まじい熱量でノミと鉋を動かしている。工場の床には、中標津のあの甘いチェリーやナラの香りとは異なる、防虫処理された合板や、大量の接着剤、そして多様な広葉樹が入り混じった、鋭く、鼻を突くような匂いが充満していた。


 そこには、個人のロマンや情緒が介入する余地など微塵もない、圧倒的な「組織のものづくり」の冷徹な現実が横たわっていた。


「中標津の七尾くんのところで弟子をしている、橋本歩さんだ。今日から二ヶ月間、うちの全体の進行管理と、現場の翻訳作業を手伝ってもらう」


 立花さんがそう紹介すると、十人の職人たちが一斉にこちらを振り返った。

 その視線は、決してよそ者を排除するようなトゲトゲしいものではなかったが、同時に「本当にこの手の白い若い男に、俺たちのシビアな現場が務まるのか」という、プロとしての鋭い品定めを含んでいた。


 特に、最前線で腕を組んでこちらを凝視している、工場長兼棟梁の佐野さんの眼光は鋭かった。白髪混じりの短髪に、彫りの深い顔立ち。その頑強な体躯からは、何十年もの間、木と格闘し続けてきた者だけが持つ、圧倒的な説得力が放たれている。


「……橋本です。よろしくお願いいたします」


 私は深く頭を下げながら、自分の声が工場の凄まじい機械音にかき消されて、ひどく頼りなく、小さく響くのを情けなく感じていた。私の震える声など、この工場の強固なロジックの前には、何の価値も持たないかのように思えた。

   

 旭川での修行が始まって一週間、私は早くも、組織という巨大な波の洗礼を受け、完全に圧倒されていた。

 立花工芸の仕事は、七尾工房のような「注文が来たら、時間を見ながら徐々に作る」というのんびりとしたスタイルでは決してない。大手ハウスメーカーからのシステムキッチンの特注パネルや、旭川の老舗ホテルのリニューアルに伴う数十脚の椅子の製作など、常に明確な「納期」と「コスト」の冷徹なロジックが現場を支配していた。


 私の役割は「全体の進行管理と、現場の翻訳作業」だった。だが、それは想像を絶する困難を極めた。

「橋本くん、この図面、現場の進行表と照らし合わせて、材料の段取りが二日遅れてるぞ。どうなってるんだ?」


 ベテランの副棟梁である田端さんから、容赦のない鋭い声が飛ぶ。田端さんはノギスと定規を手放さない徹底的な数値管理派で、彼の引く図面にはコンマ一ミリの狂いも許されない。

「申し訳ありません、木材の乾燥状態が追いついておらず、佐野さんが『これではまだ使えない』と……」


「そんなの言い訳にならないよ。営業側はホテルのオープン日に合わせて納期を設定してるんだ。佐野さんがダメだと言ったからって、ただ待ってるだけじゃ進行管理の意味がない。別の乾燥ロットから回すなり、営業に仕様変更の打診をするなり、君が動かなきゃ現場が止まるんだ」


 職人たちは、図面に描かれた一本の線の裏側にある「木という生き物の個体差」と闘いながら作業しているため、その日の湿度や温度、木の育った環境によって、どうしても予期せぬ狂いが生じ、工程がズレる。しかし、営業や事務室は「仕様書通りに、スケジュール通りに上げてくれ」と機械的な要求を突きつけてくる。


 職人の言葉にならないこだわりの言い分と、外の世界のシビアなシステム。その二つの巨大な歯車の隙間に挟まれて、私は朝から晩まで工場と事務室を往復し、数字と図面のデータ、そして両者の板挟みになりながら走り回っていた。


 かつてコピーライターとして広告代理店で働いていた頃、私はクライアントと制作スタッフの間に立ち、コンセプトを「翻訳」する仕事をしていた。あの頃は、言葉を飾ることで、あるいは巧みなプレゼンテーションで、そのギャップを埋めることができた。しかし、木工の現場では、言葉の飾りなど何の意味も持たない。コンマ五ミリの反りは、どんなに美しいコピーを添えても、コンマ五ミリ反ったままなのだ。


 夜、立花工芸が用意してくれた東光地区の単身者用マンションの静かな一室で、私はエアコンの微かな機械音を聴きながら、ベッドの端にぐったりと腰掛けていた。

 作業服を脱いでも、耳の奥では、昼間聴いた大型機械の爆音が残響のようにずっと鳴り響いている。コンビニで買った味の薄い弁当をつつきながら、私は強烈な疲労感と、それ以上に深い孤独に襲われていた。


 中標津の、あの七尾さんが鉋を引くシャッ、シャッという単調なリズムや、あーちゃんが磨くペーパーのサッ、サッという静かな音が、今の私には遠い幻のように懐かしく思えた。あそこには、確かに「ものづくりの魂」の温もりがあった。しかしここでは、私はただの巨大なシステムの歯車、しかも滑りを悪くしている出来の悪いギヤに過ぎないのではないかという恐怖が、頭をもたげる。


「孤独に負けないように、か……」


 私はトラベルバッグの底から、七尾さんに持たされた『ゴールデンスランバー』を取り出し、ページを開いた。


 巨大な陰謀に巻き込まれ、見知らぬ仙台の街を、かつての仲間への信頼だけを頼りに逃げ続ける主人公の青柳雅春。誰も信じてくれない絶望的な孤独の中で、彼は泥臭く走り続ける。

 作中、ビートルズのあの美しいメロディのタイトルが、何度もリフレインされる。


 ――かつてあった、黄金の輝かしいまどろみ。


 私は本を胸に抱きしめ、深く息を吐いた。今の私にとっての『ゴールデンスランバー』は、間違いなく、あの古い丸太を組み上げた中標津のログハウスでの日常、七尾さんとあーちゃんと過ごした、あの静かな時間だった。

 あのうるさくない、けれど最高に誠実なものづくりのまどろみから一度外へ出たからこそ、私は今、この十人のプロの職人たちがシビアにしのぎを削る旭川の現場で、自分の「役割」を全うしなければならない。逃げ出すわけにはいかないのだ。

「元コピーライターとしての私の能力が、この組織の波に立ち向かうための唯一の武器なんだ」

 私は自分に言い聞かせるように、暗い天井を見つめた。

   

 二週間が過ぎたころから、少しずつ、現場の潮目が変わり始めた。

 私は、ただ言われた通りに書類を運ぶだけの「伝書鳩」であることをやめた。十人の職人の言葉と、事務室の数字。その両極端な言語体系を深く理解し、本質的な「翻訳」を行おうと決意したのだ。


 十人の職人は、それぞれに全く異なる個性と、全く異なる「木との対話の仕方」を持っていた。

 口数の少ない棟梁の佐野さんは、仕上げの段階で必ず素手で木肌をなでてから判断を下す。彼の「この木はまだ眠っている」という言葉は、感覚的なものに見えて、実は長年の経験に基づく「木材の内部応力と含水率のアンバランス」を指している。


 副棟梁の田端さんは逆に、数字がすべてだ。コンマミリ単位の誤差を許さない彼の「これじゃ出せない」は、ホテルのような気密性の高い空間に設置した際、将来的に発生する狂いを未然に防ぐための科学的な配慮だった。


 一番若い職人の堀内くんは二十二歳。手の速さは誰にも負けないが、焦りからくる細かなミスが多い。彼の「大丈夫です」は、往々にして「早く次の工程に行きたい」という焦燥の裏返しだった。


 私はそれぞれの「言葉」の背景にある本質を、ノートに書き留めていった。

 三週間目に入ったある日、最大の試練が訪れた。


 ホテルの客室に納品する、特注のワードローブ(クローゼット)のフラッシュパネル(芯材に薄い合板を貼り合わせた板材)が、初秋の旭川の急激な乾燥によって、一晩で大きく反ってしまったのだ。


「これじゃ、組み立てに入れない。扉がピシャリと閉まらなくなる」


 組み立て担当の田端さんが、厳しい表情でパネルを指差した。


 一方で、営業担当からは「明日の午前中には現場搬入だ。今から作り直していたら絶対に間に合わない。プレス機を二重にかけて、無理やり矯正してでも進めてくれ」と、電話口で悲鳴のような要求が届いていた。


 現場は一触即発の空気に包まれた。「職人のプライド」と「納期という冷徹なシステム」が、正面から衝突していた。

 私は、反ってしまったパネルの前にしゃがみ込み、じっと木肌を見つめた。佐野さんが、私の隣に静かに立った。


「橋本くん、木は生きてるんだ。急激に暖房を入れたり、外気が乾燥したりすれば、息を吸うようにのけ反る。無理にプレスで押さえつけても、現場に納品した後に、今度は逆方向にバキリと割れるぞ。それは、立花工芸の看板を汚すことになる」


 佐野さんの言葉は重かった。しかし、営業の言う「納期遅延による違約金と信用の失墜」もまた、組織にとっては致命傷になり得る。


 私は、深く息を吸い込んだ。頭の中で、かつてコピーライターとして培った「複雑な状況を整理し、誰もが納得するロジックを導き出す」思考回路が、フル回転を始めた。


「佐野さん、田端さん、少し時間をください」


 私はまず事務室に走り、ホテルの施工現場の「本当の」進行状況を確認した。内装業者の進捗データを調べると、ワードローブを設置する予定の客室は、クロス(壁紙)の張り替え作業が一日遅れていることが判明した。つまり、明日搬入しても、実際に組み立て・設置ができるのは明後日の午後になる。

 次に、私は工場に戻り、含水率計を手に取った。反ってしまったパネルの含水率を測定し、工場の乾燥室の温度・湿度データと照らし合わせる。


「佐野さん、田端さん。提案があります」


 私は二人の前に、一枚の簡潔な進行変更シートを提示した。


「搬入を丸一日遅らせます。営業には私から交渉し、現場のクロス工区の遅れを理由に、搬入順序の変更を認めさせました。これで、二十四時間の猶予が生まれます」


 二人が私の顔を見た。


「その二十四時間を使って、パネルを一度、湿度の高いプレスカット室に移し、自然な形で水分バランスを復元させます。その後、田端さんの指示の元、裏面からスリット(細い溝)を入れ、反りを物理的に逃がす加工を施した上で、再度フラッシュ接着を行います。これなら、強度は損なわれず、田端さんの許容値であるコンマ二ミリ以内に収まります。佐野さん、この方法なら、木は『風邪をひかずに』済みますか?」


 静まり返る工場の中で、佐野さんはじっと私の書いたシートを見つめていた。やがて、その厳しい表情がわずかに和らぎ、私の肩をぽんと叩いた。


「……よし、田端、その方法でいこう。堀内をサポートにつけろ。一晩で仕上げるぞ」


「わかりました」


 田端さんも、力強く頷いた。


 その夜、工場には深夜まで明かりが灯り、私も職人たちと共に、木屑にまみれながら作業を手伝った。

 翌日、完成したワードローブの扉は、吸い付くように完璧な精度で枠に収まった。搬入された現場でも、非の打ち所がない仕上がりだと絶賛された。


 その日の夕方、立花さんが事務所の奥から私を呼び出した。


「橋本さん、最初の一週間とは、まるで別人のようだね」


「そうですか」


「七尾くんから聞いてたよ。『彼は、言葉を飾ることは得意だけど、本質を掴むまでは少し時間がかかる。だから、最初だけ少し荒波に揉んで、驚かせてやってください』ってね」


 私は思わず、天井を仰ぎ見て苦笑した。


 あの人は、私が旭川でどんな壁にぶつかり、どうやってそれを乗り越えるかまで、出発前からすべて見抜いていたのだ。中標津で朝、ひどい寝癖を爆発させながら、ちゃんと全部、私のための「処方箋」を計算していた。


「……なんだかんだで師匠なんですね」


「そういう人なんだよね、七尾くんって」


 立花さんは、べっ甲縁の眼鏡を人差し指で嬉しそうに押し上げながら、懐かしむように笑った。

   

 旭川に来てから、間もなく四週間が経とうとしていた。二ヶ月という修行期間の、ちょうど折り返し地点を過ぎ、終わりの足音が微かに聞こえ始めた頃だ。

 大雪山の頂上付近はすでにうっすらと白く染まり始め、旭川の朝は吐く息が白く、マンションの窓の外には、中標津とはまた違う種類の、冷厳な冷たさが張り詰めていた。中標津の冷気は牧草地を渡ってくる、草の匂いを含んだ柔らかな風だ。旭川の冷気は、どこか険しい山の岩肌や、冷たい川の匂いがする。

 私はその夜、静まり返った部屋で、珍しく中標津の七尾さんに電話をかけた。呼び出し音が七回鳴り、八回目のコールで、ようやく繋がった。


「……はい」


「七尾さん、橋本です。今、大丈夫ですか」


「あ、アユムさん。うん、大丈夫。今ちょっと、弦のテンションの計算してたところ」


 受話器の向こうから、聞き慣れた、あのどこか気の抜けた声が聞こえてきた。時計を見ると、夜十一時を過ぎている。


「まだ仕事してたんですか」


「たいした仕事じゃないよ。こっちは今日、三上さんがホッケいっぱい持ってきてさ。あーちゃんと捌いて、フライにして食べてたら、遅くなっちゃって」


「それ、仕事してないじゃないですか」


「してるしてる。食べながら設計図見てたから。マルチタスクってやつだよ」


 私は受話器を持ちながら、思わず苦笑した。


「……ちゃんと、納期、守れてますか」


「え?もちろん」


「立花さんの現場にいると、納期のことが身に染みて分かって。七尾工房の方が心配になってきちゃって」


 電話の向こうで、七尾さんが少し間を置いた。タバコを灰皿に押し付ける、微かな音が聞こえた気がした。


「守ってるよ。ちゃんと」


「本当に?」


「……まあ、澤さんの棚が三日ほど押してるけど」


「やっぱり」


「でも、ちゃんと連絡はしてあるから! 澤さんも『ゆっくりでいいよ、アユムくんが帰ってきてからでもいいし』って言ってくれてるし。ちょっと立花さんの現場に染まりすぎじゃない?」


 それはそうかもしれない、と思った。ここ数週間で、私の中の「納期」という言葉の重みは、旭川に来る前とは全く別の密度、別の手触りになっていた。

 数字で管理される、十人のプロの現場で毎日を過ごすと、一日の遅れが、ライン全体のどれだけの損失を意味するかが、身体で理解できるようになる。


 でも、七尾さんが作る家具には、そしてあの工房の流れる時間には、数字や効率だけでは決して測れない「何か」がある。澤さんが「ゆっくりでいい」と言うのも、その、数字の向こう側にある「誠実さ」を信じて待っているからだ。


「……それ以上は納期延ばさないでください」


「はいはい。アユムさん、向こうで何か面白いことあった?」


「面白いというか。立花さんに、七尾さんが私を驚かせるよう裏で頼んでたって聞きました」


「あはは。そーゆーのは言わないでいいのにね」


「なかなか毎日大変です」


「そうだろうね。七尾工房はぬるま湯だからなー。まあでも、あそこの現場のあの密度は、中標津じゃ体験できないからね。一回、十人のプロの呼吸の中に放り込まれると、自分の立ち方が変わるでしょ」


 私は、窓の外に見える旭川の街の、ぽつぽつと灯る明かりを見つめながら、少しの間、考えを巡らせた。


「……翻訳の仕事をしているな、と思います。職人の感覚的な言葉と、営業や事務室の数字の言葉の間の、正しい橋渡しを」


「それ、ここでも必要なやつだよ」


「知ってます」


「じゃあ、残り半分、しっかり揉まれておいで。お土産の生麺、忘れないようにね。できれば、醤油ね」


 電話が切れた。


 私はしばらく、暗くなったスマートフォンの画面を眺めていた。

 三日の遅れ。澤さんの棚。弦のテンション。深夜の設計図。

 七尾工房は今夜も、あの飄々とした、けれど、どこか温かいリズムで動いている。

 あの人はちゃんと朝、起きているだろうか。あーちゃんは相変わらず、あの窓際の作業台の前に座って、お気に入りのヘッドフォンを耳に、チェリーの端材を愛おしそうに磨いているだろうか。

 不思議なことに、心配しているのか、安心しているのか、自分でもよくわからなかった。

 ただ、あの中標津の工房がそこにあって、変わらない時間が流れているという事実そのものが、今の私にとって、旭川の激しい組織の波の中で溺れずに立つための、揺るぎない「錨」のような気がした。

 私は手帳を開き、明日届く予定の、ホテル用特注クローゼットの追加部材の数量を、丁寧に書き留めた。

 時計の針は間もなく零時を指そうとしていたが、私の胸の奥には、どこか遠くから響くような、心地よい木の残響が、ずっと静かに鳴り響いていた。

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