第7話 夏の終わり、あーちゃんが梱包しなかったもの
八月の終わり、中標津の夏は、まるでビールの泡のように、あっけなく店じまいの準備を始める。
日中の陽射しには、まだ肌の表面をじりじりと焦がすような鋭さが残っているものの、ひとたび傾きかけた西陽が白樺の梢に触れると、防風林を抜けてくる風にはっきりと冷たい秋の匂いが混ざり始めるのだった。窓を開け放したリビングに滑り込んでくる空気は、夕方を迎えるたびにその冷たさを増し、数日前までは心地よかったそよ風が、今では網戸を揺らすたびに少しだけ肌寒さを覚えさせる。
朝、八時二十分。
私は一階のダイニングテーブルの定位置に腰掛け、ティファニーのハート柄マグカップを両手で包み込んでいた。冷たい風のせいで、淹れたてのブラックコーヒーは驚くほどの早さでぬるくなっていくが、その微かな熱を掌に覚えながら、私は十分間だけの朝の読書を静かに楽しんでいた。
今朝読んでいるのは、辻村深月の『ツナグ』だ。
一生に一度だけ、死者との再会を仲介してくれる使者を巡る、いくつかの不条理で、けれどどうしようもなく温かい記憶の物語。作中、残された人間たちは、もう二度と届かないはずだった言葉や、生前に手渡せなかった想いの断片を、ツナグという静かな窓口を介して、もう一度だけその手に手繰り寄せようとする。
言葉にならなかった本音を、残された人間がどう引き受けて生きていくか。
ページをめくりながら、私はその魂の救済のロジックが、紺色の手帳を開いて呪いを解いたこの工房の空気と、どこか優しくシンクロしているような気がしてならなかった。
「・・・おはよーございます・・・」
午前九時五十分を回った頃、お約束通りのひどい寝癖を頭の左右に爆発させた七尾さんが、力なく階段を降りてきた。
「お、辻村深月さんか、かがみの孤城もいいよ?おすすめ」
そう言って、土間の椅子に深く腰掛けて、本日の一本目のアメリカンスピリットに火をつける。
青白い煙が、網戸を通り抜けていく夏の終わりの乾いた風にさらわれて、あっけなく消えていった。
七尾さんは煙草を消すと、ダイニングテーブルの上の冷え切ったコーヒーを一気に飲み干し、作業机の引き出しを一瞥した。あの紺色の手帳が収められている場所だ。その表情には気負いはなく、長坂さんから届いた試作二号機の図面ファイルをパソコンの画面上で時折眺めては、乾燥室のローズウッドの木肌を思い浮かべるように、のんびりと顎をさすっている。東京の友人のための小ぶりなアコースティックギターは、昨日無事に最終調整の塗装を終え、今は乾燥室の片隅で塗膜が落ち着くのを待っている状態だった。
「さて、仕事も混んでるし、時間見ながら徐々に進めますかねぇ」
七尾さんがそう言って立ち上がり、作業室へと向かおうとした、その時だった。
工房の正面の引き戸が、ガラガラと大きな音を立てて勢いよく開いた。
「ごめんください! 七尾さん、あーちゃん、いる?」
入ってきたのは、養老牛温泉の「湯川旅館」の若女将、湯川美香さんだった。
仕立ての良さそうな小豆色の作務衣に身を包んだ彼女の表情は、一月に出会った頃のあの迷いと不安に満ちていた雰囲気とは、明らかに違っていた。戦前からある開かずの和箪笥から曾祖父の手記を見つけ出し、「この湯を他人の手に渡してはならない」という宿の本当の歴史を受け入れて以来、彼女は本格的に旅館を立て直すために文字通り中標津中を奔走しているのだ。その生き生きとした瞳には、自らの足で立って歩む人間の、凛とした強さが宿っていた。
「美香さん、お久しぶりです。どうしたんですか」
私がダイニングチェアから立ち上がって声をかけると、美香さんは作務衣のポケットから一枚の古びたパンフレットを取り出し、大作業台の上にパッと広げた。
「あのね、七尾さん。宿のロビーのカウンターを少し模様替えしたの。観光客の人たちが足を止めて、地元の牧場の案内や、養老牛の自然のパンフレットを自由に手に取れるような、小さな『パンフレット立て』を新調したくて。カウンターのナラの無垢材にぴったり馴染むような、地味だけど、そこにあるだけでホッとするような案内板を作ってほしいのよ」
七尾さんは、作業台の上のパンフレットを指先で引き寄せ、ふむ、と眺めた。
サイズとしては横が三十センチ、奥行きが十センチくらいのお盆みたいな形に、仕切り板を立てる感じだ。予算も規模も、七尾工房にとっては本当に小さな、ありふれた「端材仕事」だった。いつもなら「いいよー、暇な時にパパッと作っときますね」と気楽に引き受けるはずの七尾さんが、なぜかそこで言葉を止め、視線を斜め後ろへと向けた。
そこには、梱包用の麻紐を両手に握りしめたまま、大作業台をじっと見つめているあーちゃんの姿があった。今日は木曜日、彼女の週に一度の出勤日だった。彼女は週の残りの四日間、美香さんの湯川旅館で本格的に働いている。
七尾さんはアメリカンスピリットの箱をトントンと指先で叩きながら、何かを吟味するように、あーちゃんとパンフレットを交互に見つめていた。
七尾さんの目の奥に、家具職人としての、そしてあーちゃんの「腕」を誰よりも信じている師匠としての鋭い光が宿る。七尾さんがあーちゃんに向かって口を開こうとした、まさにその瞬間だった。
「……あの」
消え入りそうな、けれど驚くほど頑なな響きを持った声が、作業室にぽつりと落ちた。あーちゃんが、梱包紐を握りしめたまま、一歩前へ踏み出していた。
「……私、作りたい」
作業室の空気が、一瞬にしてしんと静まり返った。
あーちゃんが、自ら「これを作りたい」と手を挙げたのは、初めてみた。
七尾さんは、自分の思考を先回りされたことに一瞬だけ面食らったような顔をしたが、すぐにいつものちゃらんぽらんな笑みをその目元に浮かべた。
「今言おうと思ってたんだ。いいじゃん、やりなよー、あーちゃん。あっちの作業台、今日一日あーちゃんに丸ごと明け渡すわ。アユムさんは手出し禁止ね」
「えっ?」
「アユムさんは知らないかもしれないけど・・・俺は、あーちゃんの木工家としての技術は、今すぐ旭川の家具工房行ってもすぐ通用するレベルだと思っているよ」
私は驚いた。そんな人が梱包作業をメインのバイトをしていただなんて。
美香さんは「あーちゃんが作ってくれるの?ちゃんと、どこかにあーちゃんの名前入れてね」と、嬉しさのあまりパッと顔を輝かせた。
あーちゃんは前髪の奥で照れくさそうに「ん」とだけ呟くと、エプロンの紐をキュッと結び直して、窓際の作業台へと迷いのない足取りで向かっていった。
あーちゃんの「一人きりの製作」が始まった。
私が仕事を盗見しようと色めき立つのを、七尾さんは「アユムさん、お茶でも読書でもしてなよ」と手で制した。
あーちゃんは一人で黙々と一階の奥にある端材置き場へと足を運んだ。
彼女が選び出してきたのは、淡いピンク色を帯びた、緻密で美しい木目のチェリーの端材だった。
あーちゃんは、いつも耳を塞いでいた大きなヘッドフォンを潔く首へと引っ掛け、自分のスマートフォンを作業台の隅に置いた。画面を少しだけ操作すると、スピーカーから、カチ、カチ、という乾いたメロディに続いて、どこか切なくも瑞々しい、夏の終わりの空気感を孕んだ軽快な手拍子のリズムが流れ始めた。
ヨルシカの、『ただ君に晴れ』だった。
「お、ヨルシカじゃん。センスいいよ」
作業台の前にいた七尾さんが、嬉しそうに声を上げた。
「ヨルシカはさ、引き算の美学なんだよね。言葉を詰め込まないからこそ、残響が綺麗に残る。Suisさんの声も切なくてさ、本当に頭一つ抜けてるんだわ」
あーちゃんは前髪の奥の黒い瞳で七尾さんを一瞥し、何も言わずに、けれど少しだけ嬉しそうにスイッチを入れて帯鋸の動力を起動させた。
キィィィン、という、鋭い金属と木が擦れ合う音が響いた、その直後だった。
私は、窓際の作業台でノミを握り、玄能を振り下ろしたあーちゃんの手元を見て、完全に言葉を失った。
――別の時間が流れている。
それは、木工の世界に入ってようやく一年が経ち、ナラとセンの違いを半分しか当てられないような私の手つきとは、次元の違う動きだった。美大時代に立体彫刻を専攻し、三年もの間この工房の空気と工具を見つめ続けてきた彼女の指先は、チェリーの端材をコンマ数ミリの狂いもなく切り出し、接合部の溝を吸い付くような美しさで一人きりで彫り進めていく。
普段の梱包作業の大人しさに甘えて、彼女の本当の技術の高さを全く知らなかったのは、この工房で私一人だけだったのだ。私は自分のが急に恥ずかしくなり、ただただ呆然と、その鮮やかな手仕事を見つめることしかできなかった。
やがてお昼の休憩時間になり、ヨルシカの『ただ君に晴れ』の最後の音が静かにフェードアウトしていった。
あーちゃんが作業台の木屑をブラシで払っていると、七尾さんがおもむろに立ち上がり、乾燥室の片隅から、昨日無事に最終塗装を終えたばかりの、東京の友人のための小ぶりなアコースティックギターを両手で抱えて持ってきた。
「ちょっと、出来たてホヤホヤのこの子の音出し、付き合ってよ」
七尾さんはリビングの白い合皮ソファの左端に腰を下ろすと、お気に入りのピックを指に挟み、スプルースの表板を静かに爪弾き始めた。
コードが一つ鳴った瞬間、豊かな、どこまでも伸びていく奇跡のような残響が部屋を塗り替えた。
七尾さんはふっと目元を和らげると、その小ぶりなアコギのフレットを左手で巧みに押さえ、ゆっくりとしたテンポでメロディを奏で始めた。
――それは、ヨルシカの『春泥棒』、そして『ただ君に晴れ』のアコースティックな旋律だった。
私は、その指先から零れ落ちる瑞々しい音を聴きながら、別の意味で深く驚いていた。
七尾さんが夜中に、あのリボン柄のベースをアンプに繋いでヨルシカの曲を弾いているのは、前にも耳にしたことがあったし、知っていた。けれど、この人がアコースティックギターを、これほどまでに感情を乗せて、滑らかに弾きこなす姿を見るのは、私がここに来てから、二度目だった。親友の呪いが解けたからこそ、彼は今、木本来の温かい振動を心から楽しんでいるのだ。
あーちゃんも作業の手を止め、首にヘッドフォンを掛けたまま、そのギターが放つ特別な残響を、じっと、吸い込まれるように見つめていた。
いくつかのメロディを奏でた後、七尾さんはふっと悪戯っぽく笑い、今度はピックを持つ右手のストロークに、ガツンと鋭い、どこか泥臭くて艶っぽい力を込めた。
ジャカジャーン、と、コードが激しく跳ねる。
――椎名林檎の、『丸の内サディスティック』だった。
小ぶりなボディからは想像もつかないほど、ジャジーで、どこか退廃的で、けれど胸の奥を激しく掻きむしるような色気のある低音が、ログハウスの壁をビリビリと震わせる。
最後の一音が、中標津の八月の終わりの涼しい空気の中に溶けていくようにして消えた後、七尾さんは嬉しそうに小さく鼻を鳴らし、アコギのネックを愛おしそうに撫でながら、ぽつりと言った。
「……このギターは、ヨルシカよりやっぱ椎名林檎だな」
「いい音ですね」
「完成直後だからね、これからだよ」
七尾さんはアコギを愛おしそうに磨き布で拭き始めた。あーちゃんもまた、何かが吹っ切れたような真っ直ぐな目で、自分の窓際の作業台へと戻り、一人きりで最後の仕上げの工程へと入っていった。
夕暮れ時、中標津の空がゆっくりと、ひどく鮮やかな橙色と静かな紫色のグラデーションに染まり始める頃。
あーちゃんの作業台の上に、ひとつの、一切の無駄な装飾を削ぎ落としたパンフレット立てが、一人きりの手によって完全に完成を迎えていた。チェリーの淡いピンク色の木目が、案内板の底から背板へとまっすぐに、美しい波を描きながら一本の線となって通っている。
私がいつものように、発送用のダンボール箱と梱包用のクラフトテープを抱えて彼女の前に立った。
「あーちゃん、お疲れ様。これ、明日美香さんのところに発送するから、梱包しちゃいますね。ダンボール、どれがいいかな」
すると、あーちゃんは、削りたてのチェリーのパンフレット立てを両手でそっと大事そうに抱え込み、静かに首を横に振った。
「……これは、梱包しない」
「え?」
「……明日、私バイト入ってるから持ってく。……だから、梱包は、しないです」
その言葉を聞いた瞬間、私の胸の奥に、言葉にならない温かい熱が一気に広がっていった。
自分で作ったものに、自分の名前で責任を持って、大切な誰かのもとへと自らの手で直接差し出すこと。
それは、私がはじめて自分の作ったボールペンを売った時に感じた、あの心地よい怖さと誠実さであり、七尾さんが二十年という気の遠くなるような歳月を経て、東京の友人のために、ギターを作り上げている意味そのものだったのだ。
「……そうだね。それが一番いいや。美香さん、絶対に喜ぶよ」
私があーちゃんの本気に寄り添うようにして笑うと、彼女は少し照れくさそうにヘッドフォンを耳へと戻し、いつものようにスケッチブックを脇に抱えて、夏の終わりの乾いた夕暮れの中へと、静かな足取りで帰っていった。
夜の九時を過ぎる頃、私は二階の自室に戻り、机の上の小さな真鍮のランプに明かりを灯した。
手元には、いつものノートが開かれている。
机の引き出しの奥には、私が理由もなく手元に残しておいた、あの最後の七本目のチェリーのボールペンが、今も眠っている。
――形を変えても、ゼロにさえしなければ、物語は誠実に続いている。
いつも耳を塞いでいたあーちゃんのヘッドフォンの外された耳には、美香さんの旅館のロビーを彩る、新しい命の残響と、七尾さんがアコギでかき鳴らした、あの少し泥臭くて艶っぽい林檎の旋律が、確かに優しく響いているはずなのだ。
私は、窓の外で夜に向かって冷たく、激しく防風林を揺らす中標津の夏風の音を聞きながら、自分の作った「言葉と木工」を介して、まだ見ぬ誰かの未来の平穏に深く関わっていく覚悟を、新しくインクの文字にしてノートに書き留めていた。
「アユムさん、明日からはちょっと地味で、気の遠くなるような二号機の検証が始まるよー」
作業室から、七尾さんのいつもの飄々とした、けれどどこか楽しそうな笑い声が聞こえてきた気がして、私はマグカップを置き、ふっと口元を緩めた。
地味な仕事が、一番好きだ。そういうことに、ここへ来てようやく気がついた。
中標津の、短くてどこまでもまばゆい夏風が、二つの並んだ看板の隙間を、明日への約束を運ぶように、音を立てて真っ直ぐに吹き抜けていった。




