第6話 試作二号機
七月の半ばを過ぎると、中標津の夏はいよいよその短い本番を迎える。 道東の夏は一瞬だ。本州のコンクリートジャングルを蒸し焼きにするような、ねっとりとしたまとわりつく湿気はここには一切ない。ただ、ひたすらに乾いた大気をまっすぐに突き抜けてくる太陽の陽射しだけが、肌の表面をじりじりと刺すように強烈に降り注いでいた。それでも、ひとたび風が吹けば、根釧台地の無限の青草を渡ってきた冷涼な空気が、肌に浮いた汗を一瞬でさらっていく。窓を開け放したリビングには、刈り取られたばかりの青草の匂いと、はるか遠くの放牧地から響く牛たちののんびりとした鳴き声が、陽炎と一緒に滑り込んできていた。
朝、八時二十分。 私は一階のダイニングテーブルに腰掛け、ティファニーのハート柄マグカップを両手で包み込んで、冷たい風ですぐにぬるくなっていくブラックコーヒーを啜りながら、十分間だけの朝の読書を続けていた。 今朝読んでいるのは、小川洋子の『博士の愛した数式』だ。 八十分しか記憶が持たない天才数学者の博士と、彼の家政婦である「私」、そしてその息子の「ルート」が、数式という最も純粋で美しい言葉を介して、静かに、けれど奇跡のように心を通わせていく物語。 作中、博士は自分の服のあちこちに、忘れてはならない極めて重要な事柄を書き留めたメモを貼っている。記憶のクロークからこぼれ落ちてしまう大切な絆を、剥き出しの文字で繋ぎ止めるために。
「……おはよーございます……」
午前九時五十分を少し回った頃、階段を軋ませながら、ひどい寝癖を頭の左右に爆発させた七尾さんが、力なく降りてきた。 あの激しい夜を経ても、この人の朝の弱さとちゃらんぽらんな佇まいは、何一つ変わっていなかった。長袖の作業シャツの袖を乱暴に捲り上げ、まずはいつものように土間の椅子に深く腰掛けて、本日の一本目のアメリカンスピリットに火をつける。 青白い煙が、網戸を通り抜けていく乾いた夏風にさらわれて、あっけなく消えていった。
あの嵐のような涙の夜の後、伊吹さんの形見である深い闇のような紺色の手帳は、七尾さんの手によって、再び彼の作業机の引き出しの奥へと、静かに、大切にしまわれていた。 すべてを言葉にして毎日他人に晒す必要なんてないのだ。ただ、「サウナに行っていて物理的に出られなかっただけ」という、あまりにも間抜けで、優しい十年前の真実が、七尾さんの胸の底に確かな礎として沈殿しただけで、この工房の空気の「密度」は決定的に変わっていた。七尾さんは煙草を消すと、ダイニングテーブルの端に置かれた『博士の愛した数式』の表紙を指先で小さく弾き、悪戯っぽく笑った。
「ナイスチョイスだ。いい本だよね」
そう言ってキッチンへ向かう七尾さんの後ろ姿は、いつも通りの気楽さに満ちていたけれど、その足取りには、十年間前へ進むことを拒否していたあの重い足枷の気配は、もうどこにも見当たらなかった。
ジリリリ、と、リビングに据え置かれた電話が鳴り響いたのは、十一時を過ぎた頃だった。 私が受話器を取るより早く、作業台の前で鉋の刃を調整していた七尾さんが、長い手を伸ばしてひょいと受話器を耳に当てた。
「はい、七尾工房です。……ああ、長坂さん。お疲れ様です」
長野県松本市からの電話だった。 受話器の奥から、普段は切れ長な瞳の奥にプロの設計者としての冷徹な論理を秘めている長坂凛さんの、驚くほど弾んだ、そして本当に嬉しそうな高い声が、静かな作業室に小さく漏れ聞こえてきた。あの夜、手帳のすべての誤解が解けた直後に、七尾さんが彼女に送ったであろう短い連絡を受けてのコールなのだということは、横で見守る私にもすぐに理解できた。
「長坂さん、読んでたんだから、早く言ってくれりゃよかったのに」
七尾さんは、お気に入りの真鍮のライターを手のひらで転がしながら、受話器に向かって穏やかに微笑んでいた。電話の向こうの長坂さんは、一頻り笑い、それから急に声のトーンを一つ下げて、真摯な設計者の声に戻った。
『七尾さん。伊吹さんの図面、ただ十年前の通りに再現するんじゃ、怒られますよ。現代の新しい材の乾燥技術と、私たちがこの十年で培ってきた論理があれば、あの幾何学的ブレーシングはさらに進化させられます。……1号機の再現ではなく、七尾拓哉と長坂凛で作る、私たちの試作2号機の設計データを、今、新しくブラッシュアップして引いています。夕方にはそちらのパソコンに送れると思います』
「うん、了解。ありがとね、長坂さん。楽しみにしてるわ」
受話器を戻した七尾さんは、「ふぅ」と小さく息を吐くと、咥えていたアメリカンスピリットに火をつけ、いつものちゃらんぽらんな調子でふっと口元を緩めた。
「……たいしたことねーわ。今まで作ってきた寄木細工に比べりゃ、そこまで難しいもんじゃない」
相変わらずの、生意気なライバルに対する強がりだった。けれど、七尾さんは煙草を灰皿に置くと、迷いのない足取りで作業室の奥にある乾燥室の重い引き戸を開けた。 ひんやりとした乾燥室の中には、九鬼楽器から独立した際に持ち帰り、この中標津の厳しい寒暖差の中で十年間じっくりと寝かされてきた、シトカスプルースの表板と最高級のローズウッドの裏板が、出番を待って整然と並んでいる。
「アユムさん。デジタル水分計持ってきて。このスプルースとマホガニーの含水率、全部のパーツごとに細かく測定してノートに記録しといてくれる?作りかけのギター、今日には完成するから、 二号機のプロジェクト、明日から始めるからね」
「はい!」
私は、自分の声が弾むのを抑えられなかった。 言われた通りに測定器のピンを木の表面に当て、数値をエクセルに打ち込んでいく。七尾さんは、木肌にそっと耳を寄せ、指先でコンコンと叩きながら、その響きのわずかな違いを、まるで博士が素数の並びを愛おしむように、深い集中力で見つめていた。
㠪間もなく、長坂凛の論理と、七尾拓哉の技術が融合する、本当の「試作二号機」の歯車が動き出そうとしていた。
毎週木曜日の午前中は、週に一度のアルバイトであるあーちゃんの出勤日だ。 午後一時を少し回った頃、砂利道を走る車の音が聞こえ、いつも通り首に大きなヘッドフォンを引っ掛けたあーちゃんが、静かな足取りで引き戸を開けて入ってきた。前髪で目元を隠した彼女は、挨拶の代わりにぺこりと小さく頭を下げると、いつもの棚の定位置に、愛用のスケッチブックをその向きのまま整然と置いた。
けれど、その日のあーちゃんは、いつもならすぐに作業部屋へ向かうはずの足を、なぜか中央の作業台の前でぴたりと止めた。 作業台の厚手のフェルトの上には、七尾さんが組み上げていた、東京の友人のための、小ぶりなアコースティックギターのボディが横たわっている。 あーちゃんはヘッドフォンを首にかけたまま、前髪の隙間から、そのスプルースの白い木肌と深い赤褐色のマホガニーのカーブを、じっと、吸い込まれるように見つめていた。
「……かわいい」
あーちゃんが、本当に消え入りそうな声で、ぽつりと呟いた。
「違いのわかる女だね、あーちゃんは。アユムさんとは、また違った種類の目を持ってるね」
七尾さんはポケットからアメリカンスピリットを取り出して火をつけた。紫色の煙の向こうで、嬉しそうに目を細めて笑っている。
彼女はヘッドフォンを耳に当てて音楽の世界へと引きこもりながら、七尾さんの商品を梱包し始めた。
午後三時を過ぎる頃、七尾さんはアコギの、最終的な組み上げ作業に入った。 ネックとボディを接合し、トラスロッドの効きを確かめ、指板のフレットのレベリングをコンマ数ミリ単位で微調整していく。その張り詰めた、けれどどこか楽しそうな七尾さんの手元を一番近くで見守りながら、私は自分の胸の奥に、ある一つの小さな記憶が鮮烈に呼び起こされるのを感じていた。
私が初めてチェリーの端材を使って、この木工旋盤で削り出した、あの無垢のボールペンのことだ。 あの時、インターネットを通じて見知らぬ誰かのもとへと届けるために五本作った。自分で毎日使うための相棒として一本を残した。そして、「いつかこの一本を、どうしても手渡したいと思うような、そんな大切な瞬間がやってくる予感がして、理由もなく手元に残しておいた」最後の一本――七本目のボールペンが、今も私の2階の部屋の机の引き出しの奥に、静かに眠っている。
――そうか。そういうことだったのか。
私は自分の掌を見つめながら、コピーライター時代には決して辿り着けなかった、ものづくりの本当の意味に気づかされていた。
私が理由もなく手元に残したあの不器用な飴色のボールペンもまた、いつか、その一本をどうしても手渡さなければならない「誰か」に出会うための未来の約束として、あの引き出しの奥でじっとその瞬間を待っているのではないか。
ゼロにさえしなければ、物語は誠実に続いている。 ならば、見習い職人である私自身もまた、この中標津の乾いた風に吹かれながら、自分の作った「言葉と木工」を介して、まだ見ぬ誰かの未来の平穏に、深く、誠実に関わっていく覚悟を持たなければならない。
「図面、届いたみたいだ」
作業台から七尾さんの声が聞こえ、私はハッと我に返った。 見ると、机の上のノートパソコンの液晶画面に、松本の長坂さんからの新着メールの通知が、小さな電子音とともに点滅していた。
夕暮れ時、中標津の空がゆっくりと、ひどく鮮やかな橙色と静かな紫色のグラデーションに染まり始める頃。 私は長坂さんから届いた大容量の設計図データを、A3の真っ白な用紙に何枚もプリントアウトし、中央の大作業台の上に、大きな文鎮で端を押さえながら、七尾さんと二人で静かに広げた。
用紙の上には、十年前の伊吹敦の殴り書きのような図面をベースにしながら、長坂凛の現代的なCADによる極めて精緻で細分化された線が、新しい命となって美しく、整然と描き直されていた。 一般的なブレーシングの常識を覆す、独自の幾何学的な配置。木が本来持っている、響き続ける力を限界まで引き出すための、完璧な数式のような美しさを持つ、新しい「試作二号機」の設計図。
「……すごいね、長坂さん。俺の言いたいこと、全部図面の中で整理してくれてるわ。伊吹より優秀かもしれない」
七尾さんはアメリカンスピリットに火をつけ、白紙の上に描かれた無数の美しい線を、愛おしそうに指先でなぞっていた。その横顔には、もう過去の後悔に怯える気配は微塵もなく、これからの果てしない職人の旅路を前にした、純粋な静けさだけが宿っていた。
窓の外からは、夜に向かう冷涼で乾いた夏の風が、ログハウスを囲むカラマツの防風林の葉をさやさやと激しく揺らす音が、地響きのように優しく届いていた。
七尾さんの十年は、終わったわけじゃない。 伊吹さんが死んだ夜の不在着信という悲しい断片の隙間に、今、長坂さんの論理という新しくて綺麗な接着剤が、ゆっくりと、確実に流し込まれていく。
伊吹敦という一人の天才が遺した夢との、長く果てしない検証と対話の旅を、ここから新しく始めていくのだ。
「まぁ、仕事も混んでるから、時間見ながら徐々にだね」
七尾さんは嬉しそうに小さく鼻を鳴らし、アメリカンスピリットの煙を、新しく広げられた試作二号機の図面の真ん中へと、静かに、優しくくゆらせた。 中標津の、短くてどこまでもまばゆい夏風が、二つの並んだ看板の隙間を、音を立てて真っ直ぐに吹き抜けていった。




