第5話 紺色の手帳、夜のサウナ
七月の上旬、中標津の夜は、日中の爽やかな青空が嘘だったかのように、急速に冷え込んでいく。 この土地の夏は、太陽が沈んだ瞬間にその外套を脱ぎ捨てる。
夜の九時を回る頃には、ログハウスの周囲に広がる広大な牧草地は深い闇に完全に呑み込まれ、窓硝子の向こうからは、冷涼な風がカラマツの防風林をザワザワと激しく鳴らす音が、絶え間なく地響きのように届いていた。
私は一階のダイニングテーブルで、いつものティファニーのハート柄マグカップを両手で包み込み、温かいブラックコーヒーの熱を掌に覚えながら、静かにノートを開いていた。
一時間前、私は七尾さんから手渡された『容疑者Xの献身』を、二階の自室でついに読み終えた。 天才数学者が張り巡らせた、たった一人の女性を守るための、あまりにも冷徹で、あまりにも純粋な、自己犠牲のロジック。本を閉じた後も、私の頭の中では、その完璧な数式のような論理の美しさと、それがもたらした底なしの悲劇の余韻が、冷たい澱のように沈殿して離れなかった。
――残された人間にとっては、それこそ生涯消えない、重い『呪い』になってしまう。
自分が七尾さんに投げかけたその言葉の鋭さが、今になって自分の胸をじわじわと刺し返してくる。 七尾さんはあの時、「人間にはさ、そうするしか生きられない瞬間っていうのがあるんじゃない?」と、窓硝子に映る自分自身の姿を通して、十年前のあの雨の夜を見つめるように呟いていた。
コンコン、と、作業室の奥から、規則正しい、乾いた木片がぶつかるような音が聞こえた。
私はマグカップを置き、椅子から立ち上がって作業室へと続くキャットウォークのような通路へと足を向けた。 一階の作業室は、すでに一日の業務を終え、集塵機も木工旋盤もその硬い金属の身体を休めているはずだった。中央の大きな作業台の上だけ、吊り下げられた白熱灯の強い光が、直径一メートルほどの局所的な円を描いて、暗がりの床を白々と照らし出している。
そこに、七尾さんがいた。
いつものちゃらんぽらんな作業シャツの袖を乱雑に捲り上げ、作業台に敷かれた厚手のフェルトの上に、組み上げ途中の美しい木製の楽器を横たわらせている。 小ぶりなアコースティックギターのボディだった。
それは、今まで七尾さんが製作してきたギターとは、全く違うものだった。明らかに「密度」が違っていた。 トップ材には、驚くほど細かく、均一な冬目が通った最高級のスプルースが使われている。光の角度を変えると、シルクの布地のような繊浅な光沢が木肌の奥から浮かび上がり、その縁を飾るバインディングには、妖しくきらめくアバロンのインレイが、寸分の狂いもない正確さで埋め込まれていた。 まるで小柄な女性がその腕の中にすっぽりと抱え込むためにあつらえられたかのような、極めて緩やかで、愛らしいカーブを描くスタイルのボディ。バックとサイドに使われているマホガニーは、深い赤褐色を帯び、白熱灯の光を吸い込んで、濡れたような艶を放っている。
「……七尾さん。また、残業ですか」
私が静かに声をかけると、七尾さんはノミを握った手を止めることなく、ただ視線だけをわずかにこちらに動かした。その目の奥には、昼間の家具作りの時の「支配」の鋭さとも違う、どこか遠い過去の幻影を優しく指先でなぞるような、ひどく繊細な光が宿っていた。
「ああ、アユムさん。うるさかったかい?ごめんよ、個人事業主に残業なんて概念ないよ。もうちょいで完成なんだ」
「ちょっと小ぶりなんですか?普通のギターより少し小さい感じしますね」
私が作業台の端に手をかけ、覗き込むようにして問いかけると、七尾さんはノミを一度フェルトの上に置き、ポケットからアメリカンスピリットを取り出して、火をつけた。青白い煙が、削りたてのスプルースの、あの柑橘類に似た瑞々しく、どこかツンとした香りと混ざり合いながら、白熱灯の光の中に吸い込まれていく。
「これね、東京の古い友人に依頼されたやつなんだわ」
「東京の、ご友人」
私は、以前リビングでの会話を、瞬時に脳裏によみがえらせていた。 池袋のダーツバーの店長から送られてきたという、「殺し屋の営業術」。 読みやすいスピード感のあるミステリーで確かに面白かった。その頃の友人なのだろうか。
七尾さんは煙草を灰皿の縁に置き、愛おしそうにギターのマホガニーのネックの接合部を指先でなぞった。
「……今日はこんなもんだな。また明日だ」
「七尾さん。容疑者X、読み終えましたよ」
私の言葉に、「そうかい。どーだった?」とだけ答えた。
「見事なロジックでした。警察の目を欺くためのアリバイではなく、ただ、愛した人の平穏を守るためだけに、自分の人生のすべてを消し去る。……けれど、やはり私は、あの結末の哀しさを、肯定することはできません。自分のために誰かがすべてを犠牲にしたと知ったとき、残された人間が背負う罪悪感は、法律の罰なんかよりも、遥かに残酷な生涯の『呪い』になります。それは……救いとは呼べない」
私は、自分の理路整然とした言葉が、この静まり返った作業室の空気を硝子のように張り詰めさせていくのを感じていた。
七尾さんは、ゆっくりとギターを作業台に置いた。それから、煙草を灰皿に押し付け、深く、本当に深い溜息をひとつ、吐き出した。
「アユムさんはさ、正しいよ」
七尾さんはソファの方を振り返り、壁に立てかけられた、あのリボン柄のエレキベースに視線を向けた。
「残された側は、たまらないよな。重くて、苦しくて、前にも進めなくなる。石神のやったことはさ、エゴだよ。だけどね、アユムさん。人間には、そうするしか生きられない境界線があるのと同じように……その完璧なロジックの裏にある、本当にドロドロとした、醜い人間の心をさ、どうしても直視しなきゃいけない瞬間っていうのが、あるんじゃないかな。美しさだけじゃ、人間は救われないんだよ」
七尾さんは立ち上がり、白熱灯のスイッチを切った。作業室は一瞬にして、窓の外から差し込む月光と、中標津の深い夜の闇のグラデーションに包まれた。
「・・・やっぱ、こーゆーのは勢いが大事なのかもなぁ」
七尾さんの声は、いつになく低く、何か大きな決意を秘めているかのように張り詰めていた。
「一緒にあの手帳開ってみないか?」
―――あの手帳
私はすぐに理解した。 以前、伊吹さんの後輩にあたる長坂さんが、この工房まで届けてくれた「伊吹さんの紺色の手帳」のことだ。 深い、闇のような、紺色の手帳。
長坂さんによると『ナナオへ』と書かれているページがある。と。 七尾さんは机の引き出しから、ひょいと手帳を取り出した。
私は、その手帳を見た瞬間、肌の表面が総毛立つような強烈な感覚を覚えた。 今、私の目の前で、埃まみれの引き出しの奥から姿を現したのだ。
「……これがさ、長坂さんから手渡された、あいつの最後の遺品なんだよな」
七尾さんは、紺色の手帳を両手で包み込むようにして持ち、その表面を、そっと指先でなぞった。
「俺さ、これを開くのが、ずうっと怖かったんだよね。あいつが死んだ夜、かかってきた電話に、俺は出れなかった。もしあの時、電話に出ていれば、あいつはあの交差点を渡ることはなかった。事故に遭わずに済んだかもしれない。……この手帳にはさ、その電話の意味がかかれているかもしれないし、全く関係のない、ただの連絡事項かもしれないし。わからない。怖いよね」
七尾さんの声が、わずかに震えていた。普段の、朝に弱くて、納期の管理すらまともにできない、あのちゃらんぽらんな男の面影は、そこには微塵もなかった。ここにいるのは、十年間、たった一瞬の不作為という不条理な因果関係に縛り付けられ、自らを激しく責め続けてきた、一人の傷だらけの職人だった。
「さて、何が書いてあるかな?」
七尾さんはそう言うと、紺色の手帳を急にパラパラめくりだした。
古い紙が擦れ合う微かな音が、月明かりの届く静かな作業室に寂しく響く。 七尾さんの親指が、あるページでぴたりと止まった。そこには、長坂さんが言っていた通り、色褪せた黒いシャープペンシルの筆跡で、殴り書きのような、しかし見覚えのある実直な文字が残されていた。
『ナナオへ』
七尾さんは息をのんだ。私も、彼の肩越しにそのページを覗き込んだ。 日付が、最上段に小さく刻まれていた。十年前の、あの激しい雨が降った、まさに伊吹さんが亡くなったその日の日付だった。
「……読んで。アユムさん。怖っ」
「えっ!?」
七尾さんの口から漏れた、あまりにも素直で、あまりにも彼らしいその一言に、私は思わず声を上げてしまった。けれど、七尾さんの指先は確かに小さく震え、声は今にも千切れそうなほどに掠れていた。 私は手帳を受け取り、机の上の読書灯を点けた。小さな白熱灯が、十年前の文字を鮮明に浮かび上がらせる。
私は、声を震わせないように注意しながら、そこに遺された文字を一つずつ読み解き、声に出していった。
『夜八時。電話したけど、ナナオが出ない。どうせまたサウナにでも行ってんだろうな。携帯の意味がねぇ。まあいい、明日直接話す』
そこまで読んだとき、七尾さんの身体がびくっと大きく震えた。
「……え?」
七尾さんの口から、間の抜けた、しかし引き裂かれたような声が漏れた。私は構わず、その後に続く、伊吹敦という設計者が遺した本当の言葉を読み進めた。
『九鬼楽器を離れるタイミングで、お前に真っ先に伝えたくて電話してるんだが。俺たちで新しい工房を開こう。構想が、ようやく完璧な形になった。幾何学的ブレーシング配置。これなら、表板の振動の減衰を極限まで伸ばせる。木が本来持っている、響き続ける力を限界まで引き出す設計だ。 お前が製作、俺が図面引き、俺たちのギターは世界を変えられる。二人で新しいブランドを作ろう』
文字はそこで途切れていた。
作業室の中に、耳が痛くなるほどの静寂が戻ってきた。窓の外でカラマツがザワザワと鳴る音さえ、どこか遠いへ消え去ってしまったかのようだった。
「サウナ……」
七尾さんは、両手で頭を抱え込んだ。
伊吹さんは、電話に出ない七尾さんを怒るどころか、彼のサウナ好きを完全に見抜いて笑っていた。未来の夢を今すぐ話したかったが、伝えられなかったから、手帳に書き留め、最後に七尾さんを相棒として信頼しきっていたのだ。
「あいつ……わかってて電話したんだな。事故の電話じゃなかったんだ」
七尾さんの目から、堰を切ったように涙が溢れ落ちた。 大粒の涙が、作業台のフェルトの上に、そして使い込まれた紺色の手帳の上に、ポタポタと静かに吸い込まれていく。 十年もの間、彼を縛り付け、その身体を苛み続けてきた生涯の「呪い」が、たった数行の、親友のいつも通りのちゃらんぽらんな筆跡によって、音を立てて解けていくのがわかった。
それは、石神が組み立てた悲しい自己犠牲のロジックとはまったく違うものだった。 誰かを責めるためでも、自分を消し去るためでもない。ただ、未来を一緒に歩むために遺された、不完全で、けれど、どうしようもなく温かい、生きた人間の約束のロジックだった。
「待たせちゃったな」
七尾さんは、手帳を胸に強く抱きしめ、子供のように声を上げて泣いた。 私は何も言わず、ただ読書灯の明かりの下で、その静かな解呪の時間を共に見守っていた。
リビングに移動した私たちは、冷え切ったコーヒーをさっと飲み、新しくおかわりを淹れた。 七尾さんの目の周りは赤く腫れていたけれど、その表情は、私が中標津に来てから一度も見せなかったほど、驚くほど軽やかで、憑き物が落ちたように澄み切っていた。
ソファの背もたれの上では、茶トラのカンナがいつの間にか目を覚まし、琥珀色の瞳で七尾さんをじっと見つめていた。それから、にゃあ、と力なく、けれどすべてを許容するように一度だけ鳴くと、定位置であるソファの真ん中の、あの薄い伊吹さんの窪みの跡の上へと丸くなって、再び深く眠りについた。
「アユムさん。ありがとね」
七尾さんは、アメリカンスピリットに火をつけ、紫煙を細く吐き出しながら言った。
「俺さ、前へ進むのを拒否してたんだね」
私はマグカップを置き、ふっと微笑んでみせた。
七尾さんは、テーブルの上に置かれた紺色の手帳と、その横に並べられた、あのアコースティックギターの図面のファイルを交互に見つめた。
「伊吹が言ってたブレーシングの幾何学的な配置。俺、これなら削れるわ。たいしたことねーわ。完全に形にできる。……時間がかかるかもしれない。数年、あるいは一生かかるかもしれない。長坂さんと試作の2号機の話も詰めないとね」
私は静かに頷いた。 七尾拓哉という職人の、本当の時間が、十年の停止を経て、今、この中標津の静かなログハウスの中で、確かな音を立てて動き出そうとしていた。
私は自分の部屋に戻り、真鍮のランプの明かりの下でノートを開いた。 完璧なロジックの裏にある、不完全で、脆く、だからこそどうしようもなく愛おしい、人間の心。
物置の奥で眠っていた伊吹さんの重いファイルは、もうそこにはない。 七尾さんが、自分自身の指でそのページを開き、止まっていた時間を動かすための決定的な準備は、今夜、完全に完了したのだ。 私は、窓の外でサラサラと鳴る牧草の海の音を聞きながら、暗い部屋の中で、その新しい始まりを告げた、豊かな残響の予感を、強く、深く、胸に刻み込んでいた。




