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七尾工房、本日も開店休業中。  作者: 七尾 拓哉


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第4話 コンマ数ミリの支配、あるいは献身

 六月の終わり、中標津の夕暮れは驚くほど長い。 夜の八時を過ぎてもなお、地平線の彼方には、絵の具を溶かしたような深い群青色と、燃え残る炎のような淡い朱色のグラデーションが、いつまでも名残惜しそうに滲んでいる。 風は日中の熱をすっかり奪い去り、ログハウスの周囲に広がる広大な牧草地からは、夜露に濡れた草の新鮮な、どこか冷たい匂いが立ち上っていた。


 つい一時間前まで、作業室では激しい削り音と、集塵機が吐き出す重低音に満たされていた。 今日の七尾さんは、注文を受けているタモ材のダイニングテーブルの「吸付きすいつきざん」を加工する作業に没頭していた。天板の裏側に溝を彫り、そこに堅い木の桟を叩き込むことで、無垢材特有の「反り」や「ねじれ」を強引に抑え込む、伝統的な技法だ。 木は生きている。どれだけ乾燥させても、季節の湿度を吸って吐いて、必ず動こうとする。それを、職人の計算と正確な刃物の跡という「ロジック」によって統制する。コンマ数ミリの狂いも許されない。溝が緩ければ桟の意味をなさず、きつすぎれば天板が割れる。 七尾さんは、ノミを握る手に全神経を集中させ、狂気的なまでの精密さで木を削っていた。その横顔には、普段の締まりのない笑みなど微塵もなく、ただ「木を制する」という職人の執念だけが張り付いていた。


 しかし、機械の音を止め、道具をオイルで拭き上げて一日の仕事を終えた今の作業室は、ひんやりとした静寂に包まれている。乾燥室で出番を待つナラやチェリーの木材たちが、昼間の乾燥による歪みを微調整するように、パチ、と時折、微かに小さく爆ぜる音だけが、静かに、規則正しく響いていた。

 それは、昼と夜の境界線が曖昧に溶け合う、一日のうちで最も美しい、そして最も寂しい時間だった。 私が晩ご飯後の片付けと戸締まりを終え、リビングへ向かうと、そこには先ほどまでの職人の顔とはまったく違う、奇妙な、どこか張り詰めた光景が広がっていた。


「……七尾さん?」


 私が声をかけても、白い合皮ソファの左端に身を沈める七尾さんは、微動だにしなかった。 いつもなら、私の足音を聞いただけで、「あ、アユムさん、お腹減りません? 夜食なんか作る?」とか、「近くの温泉、そろそろ回数券切れるから買わなきゃね」とか、何かしら気の抜けた言葉を投げかけてくるはずの男だった。しかし、今の彼は完全に自分の世界、それも誰も立ち入ることのできない深い内省の底へと没頭していた。


 七尾さんは、看板猫である茶トラのカンナを膝の上に載せたまま、手元にある一冊の文庫本を、食い入るようにして見つめていた。その太く、先ほどまでノミを握り、タモの硬い木肌と格闘していた職人の指先は、ページをめくることすら忘れ、まるでそこに刻まれた活字のロジックを、頭の中で完璧に組み立て直そうとしているかのように、じっと静止していた。 灰皿に置かれたままのアメリカンスピリットからは、一本の細い煙が静かに立ち上り、薄暗い部屋の中に、青白い幻想的な筋を描いている。その煙すら、彼の周囲では流れるのを止めているかのように見えた。


 私は、その空間に満ちた繊細な空気に気圧されながらも、手にしたコーヒーカップを木製のローテーブルの上にそっと置き、彼の視線の先にある本の表紙を覗き込んだ。 背表紙に見えたのは、見覚えのある著者名と、どこか重々しいタイトル。東野圭吾の『容疑者Xの献身』だった。



 「七尾さん。そんなに怖い顔をして、一体何を読んでいるんですか。コーヒー、淹れましたよ」


 私の少し大きめの声に、七尾さんはハッと我に返ったように小さく肩を揺らした。それから、ひどくゆっくりとした動作で顔を上げた。 その目の奥には、普段のちゃらんぽらんな様子からはおよそ想像もつかないような、深く、あるいは昼間の作業中の鋭さとも違う、どうしようもない哀愁を帯びた光が宿っていた。私は一瞬、言葉を失う。


 「……ああ、アユムさん。全然気づかなかった。これね、本当に……凄い本だよ」

七尾さんは、煙草の煙で少し嗄れた声で、ぽつりと言った。 


「有名なミステリーだというのは知っていますが、私は読んだことがありません。どんなお話なんですか?」


私が問いかけると、七尾さんはその使い込まれて端が少し擦り切れた文庫本を、まるで壊れやすい工芸品でも扱うかのように、愛おしそうに両手で包み込んだ。


 「映画化もしてるんだよ?」


 「観たことないんです」


 七尾さんは大きな溜息をついた。


「アユムさん、人生の三分の一くらい損してるよ?天才数学者が主人公なんだ。ある日、その数学者が密かに想いを寄せる女性が、前夫を殺してしまう。突発的な、何の計画性もない犯行だ。普通ならすぐに捕まる。だけどね、その数学者は、彼女の犯した罪を隠蔽するために、自らの持つすべての頭脳と、圧倒的なロジックを駆使して、警察には絶対に解けない完璧なアリバイを作り出すんだよ」


「天才数学者のアリバイ、ですか。ミステリーの王道的な」


「違うんだよ、アユムさん」 七尾さんは首を横に振った。その声が、わずかに震える。


「全然王道じゃないんよ。この数学者が組み立てたロジックはさ、自分の頭の良さを世間に自慢するためでも、警察を小馬鹿にして欺くためでもないんだ。ただ、自分が心から守りたいと思った一人の人間のために……その人がこれから歩むはずの平穏な未来のために、自分の持っているすべての人生と、時間を投げ打って、組み立てられたものなんだよ。これっぽっちの、自分のためのエゴもない。ただ、相手の幸せだけを祈って、自らを完全に消し去るためなんだ……」


 七尾さんの言葉は、低く、静かだった。けれど、その一言一言が、私の胸の奥に、かつてないほどの質量を持って真っ直ぐに突き刺さってきた。 普段は、朝に弱くて、自分の身の回りの整理整頓すらまともにできず、納期の管理だって私が口を酸っぱくして言わなければ忘れてしまうようなこの人が、なぜこれほどまでに「誰かのためにすべてを捧げるロジック」に対して、強く、痛切に心を揺さぶられているのか。


その理由は、この工房で彼と共に過ごしてきた私には、痛いほどよくわかっていた。


 昼間、彼がタモの天板に施していた「吸付き桟」の加工が頭をよぎる。木の暴れを抑え、完璧な平面を保つための細工。それと同じように、七尾さんは自分自身の心の暴れを、ある「約束」というロジックで抑え込もうとしているのではないか。


 七尾拓哉というギター職人の胸の奥には、十年間、一日も欠かすことなく沈殿し続けている、暗い記憶がある。親友だった天才ギター設計者・伊吹敦さんの死だ。 十年前の、激しい雨が降る夜。伊吹は自転車での交通事故で、この世を去った。 七尾さんは、今でも自分を責め続けている。「あいつが死んだ夜、かかってきた電話に出れていれば、あいつは足止めを食らって、あの時間にあの交差点を渡ることはなかった。事故に遭わずに済んだかもしれない」と。 それは客観的に見れば不条理な因果関係であり、七尾さんに法的、あるいは道徳的な責任など微塵もない。しかし、彼は自ら生涯解けない呪いのように背負い続けているのだ。


リビングの隅には、伊吹さんの遺品である、リボン柄のエレキベースが置かれている。七尾さんは毎日、作業が終わるとそのベースを抱え、「木を呼吸させるため、鳴らす必要がある」と、アンプに繋ぎ、静かに弾き続けている。 今では、伊吹さんが遺した設計図のギターも毎晩弾いている。 七尾さんにとって、伊吹敦という存在は、まさにこの小説に出てくる数学者のように、自分の人生のすべてをかけてでも守り、伝承し、そしていつか完成させなければならなかった、完璧な「約束」そのものだった。


「アユムさん。これ、読んでみなよ。あまりしゃべり過ぎるとネタバレになっちゃうから」


 七尾さんは、本の中に挟まれていた薄いサクラの鉋屑かんなくずのしおりをそっと指でなぞり、位置を直し、文庫本を私の方へと差し出した。工房で削り出されたサクラの木肌から作られたそのしおりは、ほんのりと甘い、木の香りを放っている。


 「アユムさんみたいに理路整然とした、頭の硬い人なら、きっと、この数学者の気持ちが、理解できるはずだよ」


 「……私が頭が硬いのは否定しませんが」 私は、受け取った文庫本の心地よい重みを感じながら、少しだけ雰囲気を和らげようとおどけてみせた。 「ですが、私は自分の人生をすべて投げ打つような、そんな極端な真似はできませんよ。」


だが、手元から漂うサクラの甘い匂いは、私の指先を通じて、七尾さんの胸の奥にある、あの消えない「後悔」の温度を、そのまま伝えてくるかのようだった。その暖かさは、どこか熱病のようでもあった。


「七尾さん。一つだけ、読んだこともない私が言うのも生意気ですが」 私は文庫本を胸に抱え、静かに問いかけた。 「誰かのためにすべてを捧げるロジックというのは、一見すると美しく、崇高に見えます。けれど……残された人間にとっては、それこそ生涯消えない、重い『呪い』になってしまうこともあるのではないでしょうか。もしその女性が、数学者が自分のためにすべてを犠牲にしたと知ったら、彼女は一生、その罪悪感から逃れられなくなる。それは本当の救いと言えるのでしょうか」


 私の言葉に、七尾さんはすぐには答えなかった。


彼は、ソファの背もたれの上で丸くなっているカンナの背中を、節くれ立った細い指先でそっと撫でた。カンナは、眠たげに琥珀色の片目を開け、にゃあ、と力なく、けれどすべてを許容するように鳴いた。


 「ネタバレしちゃったかな」 七尾さんは、窓の外の、完全に日が落ちて深い群青色に染まった中標津の空を見つめた。

 地平線の朱色は、もう完全に消え去っていた。 「残された側も重くて、苦しくて、前にも進めなくなる。でもね、アユムさん。人間にはさ、そうするしか生きられない瞬間っていうのがあるんじゃない?確かに法律や理屈の外側にあるんだよ。損得じゃなくて、効率じゃなくてさ。そうしなければ、自分が自分でなくなってしまうような……これを超えたらもう人間じゃなくなるっていう、そういう絶対的な境界線が、誰の人生にだってあるんじゃないかな」


七尾さんの視線は、窓ガラスに映る自分自身の姿を通り越し、十年前のあの雨の夜を見つめているようだった。 彼にとって、伊吹さんの遺した設計図を形にしたこと、この工房を維持し続けることは、理屈を超えた「自分が自分であるための境界線」なのだ。たとえそれが、どれほど不合理で、経済的に困窮を極める原因になろうとも。昼間、彼がタモ材の繊維を寸分の狂いもなく読み解き、ノミを当てていたあの張り詰めた時間と同じ、逃れられない職人の「業」がそこにはあった。


 リビングには、外の広大な牧草地の上を吹き抜ける夜風が、古いログハウスの窓ガラスをかすかにガタガタと揺らす音だけが響いていた。


「……コーヒー、冷めちゃいますよ」 私が言うと、七尾さんは「おっと、ありがと」と、ようやくいつもの少し抜けた笑みを浮かべてカップを手に取った。張り詰めていた空気が、ゆっくりと弛緩していく。

私は、受け取った『容疑者Xの献身』を大切に抱え、二階の自分の部屋へと戻った。 机の上の小さな真鍮のランプを灯し、ベッドの端に腰掛けてページをめくる。

サクラの鉋屑のしおりが挟まれたページを開く。そこには、数学者が自らの論理を構築していく過程が、冷徹なまでに美しい文章で並んでいた。初めて触れるその物語の世界に、私はまたたく間に引き込まれていった。 しかし、その本を読み進め、指先が中標津の冷たい夜気の中で冷えていくにつれ、私は不思議な温かさを感じるようになっていた。


完璧なロジックの裏にある、不完全で、脆く、だからこそどうしようもなく愛おしい、人間の心。 作中の数学者は、数字という絶対の言語で完璧な世界を作ろうとした。そして私の目の前にいる七尾拓哉という男は、木という、気候によって歪み、湿度によって呼吸を変える、不確定な素材を相手にしながら、完璧な設計でギターを作り、そして「かつての約束」を果たそうとしている。


 私は、七尾さんがこの本を私に手渡した本当の意味を考えていた。 未読の私にこの本を貸したのには、きっと意味がある。彼は、自分自身の生き方を私に理解してほしかったのかもしれない。あるいは、自分がいつかその「完璧なロジック」の果てに、自分自身を壊してしまう予兆なのか、あるいは、静かな悲鳴だったのだろうか。

物置の奥で、ひっそりと眠り続けている、伊吹敦さんのあの「紺色の手帳」。 七尾さんが、いつか自分自身の指で、あの手帳のページを開くための、その静かで、けれど決定的な準備が、今、この中標津の静かな工房の中で、ゆっくりと始まっている。 私は、窓の外でサラサラと鳴る牧草の海の音を聞きながら、暗い部屋の中で、その止まっていた時間が動き出す予感を、強く、深く、胸に刻み込んでいた。



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