第3話 甘い雨、チェリーの裁縫箱
六月の半ばを過ぎると、中標津には時折、地平線の彼方から湿った重い雲が lapping するようにして流れ込み、音もなく静かな雨を降らせることがある。 本州の、アスファルトを激しく叩きつけるような夕立や、生温い湿気がまとわりつく梅雨の長雨とは、その質がまったく違っていた。道東に降る雨は、どこまでも細やかで、冷たい。針の先のように細かな雨粒が、根釧台地の遮るもののない大空から、静かに、そして絶え間なく降り注ぐ。 気がつけば、窓の外に広がる広大な牧草地全体が、うっすらとした白い霧の海に包まれていく。天を衝くように立っていたカラマツの防風林も、霧の向こうへとぼんやり融けていき、まるで世界の境界線がすべて曖昧になってしまったかのような錯覚を覚える。 ログハウスの窓ガラスには、無数の小さな水滴が、まるで誰かが手作業で並べた宝石のように、美しく、等間隔に張り付いていく。 そんな雨の日は、外を走るトラクターの音も、遠くの鳥のさえずりも、すべて湿った重い空気に吸い込まれてしまう。ログハウスの内部は、いつも以上に深い静寂に満たされ、まるで古い深い森の底にひっそりと沈んでしまったかのような、不思議な安堵感に支配されるのだった。
そんな、しっとりとした雨が世界を濡らす、木曜日の午後。 『橋本工房』の本格的な仕事として、私は作業台の上で、ひとつの古い木製の裁縫箱と静かに向き合っていた。
その裁縫箱が持ち込まれたのは、数日前のことだった。 お馴染みの常連である井上さんが、「橋本さん、ちょっと紹介したい人がいるんだ」と連れてきてくれたのは、近くに住むタエさんという、品の良いおばあちゃんだった。 タエさんは、小柄で、背筋がすっと伸びており、仕立ての良さそうな古いウールのカーディガンを羽織っていた。彼女は、丁寧に風呂敷に包まれた小さな箱を、壊れやすいガラス細工でも扱うかのように、両手で大切に抱えていた。
「これね、夫が、結婚した当初になけなしのお小遣いをはたいて買ってくれた、チェリー材の裁縫箱なんです」
ログハウスのダイニングテーブルに風呂敷を広げ、中から現れた裁縫箱を、タエさんは細く、美しい皺の刻まれた指先で愛おしそうに撫でながら、私にそう話してくれた。 箱は、横幅が三十センチ、奥行きが二十センチほどの、コンパクトな二段引き出しの構造をしていた。 長年、彼女の針仕事を支えてきたのだろう。角の部分は丸く摩耗し、ところどころに小さな傷や、ミシンの油と思われる古い染みが残っていた。けれど、その表面は、持ち主が毎日乾いた布で拭き上げてきたことが一目でわかるほど、静かで深い飴色の美しい艶を放っていた。チェリー材が、五十年の歳月をかけて、ゆっくりと、しかし確実にその身に蓄えてきた「時間」の色だった。
「とても気に入って、五十年近く、毎日これを使って針仕事をしてきたんですけれどね。不思議なことに、雨の日になると、どうしても引き出しが固くなってしまって、びくとも開かなくなってしまうんです。力いっぱい引こうとしても、爪を引っかける隙間もないくらいにピチッと。……でもね、不思議なのはそこからなんです。そうやって引き出しが完全に開かなくなった雨の日に限って、この箱の周りから、なんだか昔、夫と一緒に上野公園に行った、あの満開のサクラのお花見のときのような、ほんのりと甘い、懐かしい匂いが漂ってくるんですよ」
タエさんは少し困ったように、けれどどこか遠い春の日を思い出すように、優しく微笑んでいた。
「もう夫が亡くなってから、十年以上が経ちますから。私の鼻が、夫との古い思い出のせいで、幻の匂いを嗅えているのかもしれませんけれどね。もし直せるなら、また雨の日でも、あの人の遺してくれたこの箱を使って、針仕事を続けたいと思いまして。橋本さん、こんな古い箱でも、見ていただけますでしょうか」
私は、その時のタエさんの、静かで、祈るような眼差しを思い出しながら、目の前にある裁縫箱の側面にそっと指を当てた。
今日の中標津は、朝から湿度八十五パーセントを超える、深い雨に包まれている。 確かに、引き出しの取っ手を指先で引っ張り、手前に引こうとしてみるが、驚くほど固く噛み合っていて、びくとも動かない。コンマ一ミリの隙間すら拒絶するように、引き出しの木材が、外枠の木材と一体化してしまっているかのようだった。 だが、箱のコーナー部分や、引き出しの摺り合わせ部分のわずかな継ぎ目に鼻を近づけてみると、タエさんが言っていた通り、微かではあるけれど、確かにサクラの葉を少し焦がしたような、ほんのりと甘酸っぱい、独特の樹木の芳香が、湿った空気の中に優しく漂っているのがわかった。
「……不思議だな。本当に、サクラの匂いがする」
私は、目の前のチェリーの木肌を見つめながら、ぽつりと呟いた。 チェリー材がサクラの仲間であることは知っている。けれど、加工されてから五十年も経った木製の家具が、雨の日だけに、これほどはっきりと甘い匂いを発するものなのだろうか。その物理的なメカニズムが、当時の私の浅い知識ではすぐには結びつかなかった。
「アユムさん、これ読んだことある? ちょうど、そういう『目に見えない自然の営み』のお話だから」
いつの間にか、作業室にきていた七尾さんが、私の隣の作業台に腰掛け、一冊の薄い文庫本を差し出してきた。 梨木香歩の『西の魔女が死んだ』だった。 ボロボロに読み込まれたそのカバーの隙間からは、やはり、あの極限まで薄く削り出されたサクラの鉋屑のしおりが、ひらひらと顔を覗かせている。
「西の魔女、ですか。これも七尾さんの愛読書なんですか」
「大好きだね。おばあちゃんと少女が、森の中の古い家で、ジャムを作ったり、野いちごを摘んだりしながら暮らす話。しっとり染みるんだよ」
七尾さんは、アメリカンスピリットに火をつけ、静かに煙を吐きながら言った。 紫煙が、雨で少し薄暗くなった作業室の中に、青白く、ゆっくりと広がっていく。
「タエさんが言ってた、雨の日の甘い匂いのことだけどさ。あれ、おばあちゃんの幻覚でもなんでもないんよ。ちゃんと物理的な理由があるんだ」
七尾さんは煙草を灰皿の縁に置き、私の手元にある裁縫箱を指先で軽く叩いた。
「チェリーっていうのはさ、乾燥している時期と湿度高い時期でかなり動くからね」
「それは理解できます。でも、あの甘い匂いは?」
「サクラの木にはね、クマリンっていう精油成分が、木の細胞の中に眠ってるんよ。桜餅のあの独特の甘い匂いと同じ成分。チェリー材もその仲間だから、もちろんクマリンを持ってる。普段は乾いてるから匂わないんだけど、雨の日に湿気を吸い込むと、木肌の中でその成分が水分と一緒にゆっくりと気化して、表面の気孔から蒸発するんだよね」
七尾さんは、冷めたコーヒーを一口すすり、穏やかに微笑んだ。
「つまりさ、ボケてるわけじゃないんだ」
七尾さんのその言葉は、私の胸の奥にしまった。
「だからさ、木を直すっていうのは、その五十年の時間を力ずくで削り落とすことじゃない。木がこれからも、タエさんの隣で、呼吸を続けながら生きていけるように、ほんの少しだけ、風の通り道を作ってあげることなんよ」
七尾さんは、私に手渡した本をもう一度指差した。
「焦ってサンダーで一気に削っちゃダメよ。天板を磨くのとは、わけが違うから。刃物で少しずつ調整しながらだね」
私は、七尾さんから渡された本を手に取り、その表紙を撫でた。 本のページからは、お馴染みのサクラの鉋屑の匂いと、どこか深い森の奥の、湿った土と緑の匂いが混ざり合ったような、優しい香りが漂ってきた。
「……わかりました。やってみます」
私は、木工旋盤のコンセントを抜き、モーターの作動音が消えた静寂の中で、手道具の引き出しを開けた。 そこから、研ぎ澄まされた小さな「仕上鉋」と、目の細かいサンドペーパーを番手ごとに取り出した。 隣の作業台では、週に一度のアルバイトであるあーちゃんが、物言わず、私の作業を見守るように座っていた。 彼女は首のヘッドフォンから微かに漏れる音楽――それはどこか静かで、雨の音に溶けるような、単調で美しいピアノの旋律だった――に耳を傾けながら、A5のスケッチブックを開いた。 白いページの上に、タエさんの古い裁縫箱の、長年使い込まれて丸くなった角や、真鍮の小さな取っ手が、恐ろしいほどの密度でスケッチされていく。あーちゃんの鉛筆の先は、木肌の傷ひとつ、油染みのひとつすら見逃さず、そこに刻まれた五十年の「時間」を、紙の上に愛おしそうに描き写していた。
私はまず、噛み合って固くなっている引き出しを、箱全体を傷つけずに取り外す作業に取りかかった。 そのためには、一度、木材の水分を適度に逃がして収縮させる必要がある。 私は、作業室の片隅にあるストーブ(火は入っていないが、ログハウス全体を温めるための予熱がわずかに残っていた)の近くに、箱を少しの間、間接的に置いて空気を乾燥させた。さらに、引き出しの隙間に、ドライヤーの微風を、木肌を焦がさないように細心の注意を払いながら当てていく。 「焦るな、ゆっくりだ」 心の中で自分に言い聞かせる。 やがて、わずかに隙間が生まれた瞬間を見逃さず、真鍮の取っ手に指をかけ、真っ直ぐに、ゆっくりと引き出した。 ズッ, という、少し抵抗感のある重い音とともに、ついに二段の引き出しが、その姿を現した。
引き出しを取り外した瞬間、作業台の上に、さらに濃厚なサクラの甘い匂いが立ち上った。 私は、引き出しの側面と底、配置される外枠の内側をじっくりと観察した。 擦れて黒くなっている部分が、干渉している場所だ。 私は、手のひらに収まるほどの小さな仕上鉋を握りしめ、その刃先をチェリーの木肌に当てた。 シュッ。
耳に心地よい、湿った、けれど極めて精密な木の擦れる音が、雨の作業室に響き渡る。 極限まで研ぎ澄まされた鉋の刃が、チェリーの木肌を、絹糸のような、あるいは極薄のレースのような細さで削り出していく。 削りすぎれば、冬になったときに引き出しがスカスカになってしまい、隙間風が通って大事な糸や針を湿気から守れなくなる。 削らなすぎれば、また次の雨の日に、タエさんは引き出しを開けられなくなってしまう。 「一ミクロンの、境界線」 私は一度鉋を引くたびに、削り出された薄い鉋屑を指先で取り除き、引き出しを箱に戻して、そのスライドの手応えを確かめた。
まだ、少し重い。 もう一度取り外し、今度はサンドペーパーの四百番を、平らな木切れに巻き付け、優しく、円を描くように木肌を撫でる。 木肌を触る私の指先は、いつの間にか、木のわずかな凸凹や、湿度の変化を敏感に感じ取れるようになっていた。 あーちゃんの鉛筆の音が、私の鉋を引く音と、サンドペーパーをかける音の合間に、優しく響いている。彼女の描く線は、私の手の不器用な動き、焦り、そして少しずつ木と対話が噛み合っていく過程のすべてを、無言で肯定してくれているかのようだった。
作業は、数時間に及んだ。 気がつけば、雨はいつの間にか上がり、窓の外の牧草地には、雲の切れ間から初夏の夕暮れの、柔らかい橙色の光が斜めに差し込み始めていた。 湿った空気が、開け放たれた窓から流れ込んでくる乾いた風へと、ゆっくりと入れ替わっていく。
「……できた」
私は、最後のサンディングを終え、引き出しの表面を乾いた布で丁寧に拭き上げてから、箱の中へと滑り込ませた。
シュポッ。
あの、完璧な気圧の抜けるような、心地よい音とともに、引き出しは一点の引っかかりもなく、吸い込まれるようにして定位置へと収まった。 指先で取っ手を引き寄せてみる。 軽やかで、けれど安っぽく滑るのではない、チェリー特有の、確かな重みを持った手応え。 雨を含んで膨らんだはずのチェリーは、私の削り出した「隙間」の中で、まるであつらえたかのように快適そうに収まっていた。
「いいんじゃない」
背後から、七尾さんのいつもの声が聞こえた。 彼はいつの間にか、温かいコーヒーを淹れて、私のためにテーブルに置いてくれていた。
「木もね、アユムさんの丁寧な仕事に応えてくれたみたいだ。これで雨の日も、糸を取り出せるね」
「ありがとうございます」
「仕上げにね、引き出しの底と横の擦れるところを蝋引き《ろうびき》してあげると良いよ」
七尾さんはそう言うと、作業シャツのポケットから、小さなガラス瓶に入った、自家製の「蜜蝋」を取り出して、私に差し出した。 中には、うっすらと黄色がかった、固形の天然ワックスが入っていた。
「どうすればいいんですか」
「さっと塗るだけでいいんだ」
七尾さんは私の手から引き出しを受け取ると、手際よく、蜜蝋の固まりを引き出しの摺り合わせ部分に薄く擦り付けた。それから、乾いたウエスの布を使って、摩擦熱を起こすように素早くキュッ、キュッと磨き上げていく。 蜜蝋が木肌の微細な導管に染み込み、チェリーの表面が、濡れたような美しい艶を帯びていく。
「はい、引いてみて」
七尾さんから戻された引き出しに指をかけ、手前に引いた瞬間、私は思わず「あ」と声を上げてしまった。
引き出しが、驚くほど軽くなっていた。 それまで感じていた、木と木が擦れ合う微かな「ザラつき」が完全に消え去り、まるで絹の上を滑らせているかのような、滑らかで、滑るような開閉感へと劇的に変化していたのだ。
「すごいです……。たったこれだけで、こんなに変わるんですね」
「そう。蜜蝋はね、滑りを良くするだけじゃなくて、木肌をコーティングして、これ以上の急激な湿気の吸い込みを防いでくれる効果もあるんよ。これで次の雨の日も、タエさんの指先に、余計な負担はかからないよ」
七尾さんは、冷めたコーヒーをすすりながら、嬉しそうに目を細めた。
私がその劇的な変化に驚いていると、あーちゃんが私の前に、出来上がったばかりのスケッチブックを差し出してきた。 そこには、修理が完了し、夕暮れの光を浴びて静かに佇むチェリーの裁縫箱と、そのすぐ隣に、私が削り出したサクラの極薄の鉋屑が、風に揺れるリボンのように美しく描かれていた。 あーちゃんは、私の顔をじっと見つめ、それから本当に嬉しそうに、小さく「ん」と頷いた。
私は、自分の手仕事が、タエさんという一人の人間の思い出を未来へと繋ぐことができたのだという、静かで確かな達成感に満たされていた。 『西の魔女が死んだ』の中で、おばあちゃんが遺した「いつでもあなたのことを見守っています」というメッセージのように、この裁縫箱もまた、タエさんの隣で、雨の日も晴れの日も、静かに呼吸を続けながら、温かい時間を刻み続けていくのだろう。 私は、自分のつくる「言葉」と「木工」が、中標津の厳しい、けれど美しい自然の中で、ようやくひとつの確かな形になり始めたことを、静かに、実感していた。




