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七尾工房、本日も開店休業中。  作者: 七尾 拓哉


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2/12

第2話 職人の境界線

 六月に入ると、中標津の空気は急にその密度を変える。

 どこまでも平坦に広がる牧草地を撫でていく風は、初夏の青々とした匂いを強く孕み、天を衝くように聳え立つカラマツの防風林が、太陽の光を浴びてきらきらと細い葉を揺らしていた。ログハウスの周囲に植えられたルピナスが、紫やピンクの尖った花穂をいっせいに伸ばし始め、道東の短い夏の本格的な幕開けを告げている。

 この地での夏は、本当に一瞬だ。だからこそ、植物たちも生き急ぐように、その生命力を一気に爆発させる。からりと乾いた大気が、きらきらとした強烈な陽射しを遮ることなく地面へと届かせ、日中の作業室は、暖房を入れずとも心地よい温もりに満たされるのだった。


 新しく掲げられた『橋本工房』のチェリーの看板は、中標津の強い陽射しを浴びて、ほんのわずかだけれど、削りたての淡いピンク色から落ち着いた黄みを帯び始め、風雨に晒される準備を静かに整えていた。毎日、朝の作業を始める前にその看板を見上げるのが、私の密かな日課であり、誇らしさと、そして微かな背徳感を同時に呼び起こす儀式でもあった。


 だが、看板がいくら呼吸を始めても、私の仕事部屋である一階の片隅には、依然として静寂だけが横たわっていた。

 井上さんから預かったハルニレの道具箱は、丁寧に採寸を済ませ、割れた持ち手部分の修復プランを練り終えていた。ハルニレという「暴れ木」が、これ以上乾燥や湿気で動かないよう、割れ目に差し込む補強用の「雇いやといざね」に使うナラ材を切り出し、接着剤を塗布して固定する。

 だが、木工の仕事というのは、手を動かしている時間と同じくらい、あるいはそれ以上に「木を待つ時間」が長い。

 接着剤が木材の繊維の奥深くまで浸透し、完全に分子レベルで結合して強固に硬化するまでには、丸一日は触らずに放置しておかなければならないのだ。焦って次の工程に進めば、ハルニレの強力な復元力に接着面が負けて、再び割れ目が開いてしまう。

 「待つのも仕事のうちだよ」と七尾さんはよく言うが、その「待つ時間」に耐えるだけの図太さを、私はまだ持ち合わせていなかった。作業が止まっている間、私はただじっと、白紙のノートと、目の前にある静まり返った木工旋盤の前に立ち尽くすことしかできなかった。


 じっとしていると、胸の奥から澱のような焦りがじわじわと這い上がってくる。それを誤魔化すように、私は木工旋盤の主軸のロックを解除し、新しいチェリーの端材をセットした。


 キィィィン、という、耳の奥を刺激する甲高い金属音が、静かな作業室に響き渡る。

 高速で回転を始めたモーターの音が、コンクリートの床を伝って私の足の裏を小刻みに震わせた。私は、旋盤のチャックに固定したチェリーの四角い端材に、荒削り用のラフィングガウジ(丸チゼル)を押し当てていた。

 橋本工房としての最初の作品となり、インターネットを通じて見知らぬ人々に買ってもらった、あの「六千円のボールペン」。完売したからといって、そこで満足しているわけにはいかない。あの時は、ビギナーズラックのような幸運が味方しただけかもしれないのだ。

 私は自身の技術のブレをなくし、いつでも完璧な一品を削り出せるよう、暇さえあればこうして旋盤に向かい、ペン軸の試作を繰り返していた。チェリーの硬さ、刃物が木肌に食い込む角度、指先に伝わる繊維の抵抗。それらを身体に叩き込もうと、必死にチゼルを握りしめる。


 だが、焦れば焦るほど、刃先のコントロールは微妙に狂う。

 シュルシュルと気持ちよく途切れずに吐き出されていたはずの美しい木屑が、ふとした瞬間に、パチパチと不規則な破片となって飛び散り、私のエプロンや顔を容赦なく叩いた。

 「あっ」と思ったときには、もう遅い。

 主軸の回転を止めると、そこには、均一な円柱になるはずだった木肌に、チゼルが深く食い込んでできた痛々しい、ささくれ立った段差が残されていた。一カ所でもこのような抉れができれば、もうその端材から細いペン軸を削り出すことはできない。また、ボツ作がひとつ、増えてしまった。


 「……はぁ」


 私が思わず漏らしたため息は、モーターの回転が止まった静寂の中に、驚くほど大きく響いた。

 エプロンについた細かな木屑を手で払い落としていると、すぐ斜め後ろから、サラサラ、と衣服が擦れるような音が聞こえた。誰かがそこに立っている気配。


 振り返ると、あーちゃんがいつの間にか、作業台の脇にあるいつもの丸椅子に腰掛けていた。

 首には例のでっかい黒いヘッドフォンを掛け、目元まで伸びた長い前髪の隙間から、じっと私の手元を見つめている。彼女の膝の上には、すでに開かれたA5のスケッチブックがあった。

 白い紙の上には、先ほど私が失敗して、段差ができてしまったチェリーのボツ軸のスケッチが、驚くほどの立体感をもって描かれていた。チゼルが食い込んで裂けてしまった木肌の痛々しい繊維の質感や、そこに落ちる歪な影の付き方まで、鉛筆のグラデーションで恐ろしいほど正確に表現されている。


「あーちゃん。人の失敗を、そんなにドラマチックに描き留めなくていいから。なんだか、芸術的なオブジェみたいに見えてきて、余計に悲しくなるんだけど」


 私が抗議するように言うと、あーちゃんは前髪の奥の黒い瞳を小さく揺らし、それから無言でスケッチブックのページをめくった。

 そこに描かれていたのは、失敗作ではなく、今度は私の、旋盤に向かう背中のスケッチだった。

 肩のラインが不自然に強張り、右肘が不自然に上がっている、私の「焦りのフォーム」が、冷徹なまでに客観的に描き写されている。スケッチの中の私は、まるで見えない敵と格闘でもしているかのように、必死な形相をしていた。


「……肘」


 あーちゃんが、前髪の隙間から覗く唇をわずかに動かし、本当に小さな声で呟いた。


「え? 肘がどうかした?」


「……上がってる。力が入ると、刃物が木を噛む。だから、失敗する」


 それだけ言うと、あーちゃんは再びスケッチブックに視線を落とし、鉛筆を細かく動かし始めた。

 私は、言われた通りに自分の右肘を意識的に下げ、脇をそっと締めるようにして構え直してみた。驚いたことに、たったそれだけで、肩の無駄な緊張がすっと抜けて、旋盤のツールレスト(刃物台)に乗せた左手の手元が、ぴたりと安定していくのがわかった。

 言葉数は極端に少ないが、彼女の視覚的な観察眼と、ものづくりの本質を見抜く力には、いつもこうして驚かされ、そして静かに助けられるのだった。私は「ありがとう」と小さく頭を下げ、もう一度、新しい端材をセットしようとした。


「アユムさん、ちょっといいかい」


 リビングから、七尾さんの大声が降ってきた。

珍しく、少しだけ引き締まった、けれどどこか楽しそうな、おもちゃを見つけた子供のような声だ。私は旋盤のコンセントを抜き、作業用エプロンを脱ぎながら、あーちゃんを視線で誘って階段を上った。


リビングに入ると、七尾さんはいつもの白い合皮ソファの左端に腰掛け、テーブルの上に小奇麗なハードカバーの本をぽんと置いた。


『殺し屋の営業術』


何とも物々しく、いかがわしいタイトルが、カバーの上に太いフォントで躍っている。ビジネス書なのか、あるいは一昔前のマイナーなノワール小説なのか、一目見ただけでは判別がつかない。


「七尾さん。何ですか、その怪しげな本は」


「失礼だなあ、アユムさん。これね、ついこないだ出たばかりの、今ネットとか本屋さんでものすごく話題になってる新刊なんだよ」


七尾さんは、お気に入りのアメリカンスピリットに火をつけながら、さも大真面目といった様子で言った。


「話題の新刊……。それがなぜ、七尾さんの手元にあるんですか。七尾さんが本屋でビジネス書の新刊コーナーを物色している姿なんて、想像できませんけど」


「失敬だなー、意外と新刊のビジネス書も読むんだけどね。いやね、俺が買ってきたわけじゃないの。こないださ、昔、東京にいた頃の知り合いから送られてきたんだよね。『この本、今すごい売れてて面白いから』って手紙が添えられててさ」


「東京の……知り合いですか?」


私はますます困惑して首を傾げた。七尾さんの口から「東京」という、かつて私が身を置いていた大都会の響きが出るだけで、妙な違和感があった。


「その人、昔から本好きでさ。俺と話が合ったんだ。今でも池袋で店をやりながら、毎月何十冊って読んでる。で、この本を読んで、久々にヒットだったらしく、送ってきたみたい」


「殺し屋の営業術……。私は一応、東京の広告代理店で、本物のプロの営業マンたちや、大企業のクライアントと何年も仕事をしてきたつもりなのですが。こんな、タイトルからしてふざけた本から学ぶべきことなんて、あるとは思えません。だいたい、殺し屋って」


「池袋か……」七尾さんは、私の反論を聞き流すように、紫煙の向こうで少しだけ遠い目をした。

 「懐かしいねえ。俺さ、二十歳くらいの頃、あの辺りの治安の悪い路地裏にある、日当たりの悪い四畳半のアパートに住んでてさ。毎日、夜中までキューを握ったり、ダーツを投げたりして、掛け持ちでバイトしてたんだよね。あの頃はさ、とにかく毎日、指先の感覚を研ぎ澄ますことばかり考えてた。ダーツを投げるリリースの一瞬の指の離し方と、木を鉋で削る刃先のコントロールって、驚くほど似てるんだよ」


七尾さんは、自分の細い指先を見つめながら、懐かしそうに目を細めた。

池袋。その地名は、東京で暮らしていた私にとっても馴染み深いものだった。けれど、私は中標津に来る直前まで自分が住んでいた「目白」という、池袋のすぐ隣にある静かな学生街の記憶を、なぜかここでは口にしなかった。かつて自分がすり減るまで働いていた東京の記憶を、この中標津の静謐な空気に混ぜ合わせるのが、どこか躊躇われたからかもしれない。


ただ、七尾さんの口から出た若き日の断片は、私の胸に小さく引っかかっていた。あの飄々とした技術の土台は、池袋の夜の、あの狂おしいほどの指先の集中の中で磨かれたものだったのだ。


「で、その最近出たばかりの『殺し屋』が、私にどう関係あるんですか」


私は、胸のざわつきから少し引き戻され、テーブルの上の本を指差した。


「アユムさん、さっき下で『暇ですね』ってぼやいてたでしょう。仕事が来ないって。それはね、アユムさんが『良いものを作っていれば、いつか誰かが見つけてくれる』っていう、職人の悪い病気にかかり始めてるからよ。この本にね、そういう一節があるんよ」


七尾さんは、本の中に挟まれていた、お馴染みの薄いサクラの鉋屑かんなくずのしおりのページを開き、太い指先で文字をなぞった。


「『宣伝のない技術は、存在しないのと同じである』……ってさ。これ、名言じゃね?」


「殺し屋と職人を同列に語るのは、いささか物騒が過ぎますが……」私は苦笑しつつも、その言葉の核心にある真理を否定できなかった。「確かに、コピーライターをしていた私自身が、一番『伝えること』の重要性を知っているはずでした。それなのに、いざ自分が作る側になると、急に口を閉ざして、誰かがドアを叩いてくれるのを待ってしまう。不思議なものですね。他人の作ったものを売るための言葉はいくらでも出てきたのに、自分の作ったものを売るための言葉となると、急に喉に何かがつかえたように、何も言えなくなってしまう」


「そう。伝えるプロのアユムさんが、木を持った瞬間に黙り込んじゃうのは、もったいないよ。自分を売り込むっていうのは、安売りすることじゃない。私はこういう覚悟で、こういうものを作って、ここに立っていますって、その境界線をちゃんと外に示すことなんよ。だから、この本、読んでみなよ。いい機会だよ」


七尾さんはそう言うと、いつものの確立されたブランドの顔ではなく、どこか昔の池袋の夜を引きずったような少年の笑みを浮かべて、本を私の胸元に押し付けた。


受け取った本の角から、ほんのりと香るサクラの甘い匂い。それは、つい最近出版され、東京のトレンドを駆け抜け、そして池袋のダーツバーの店長の手を経て、この中標津まで運ばれてきた、不思議な旅をしてきた本だった。


「……あーちゃん。この本、どう思う?」


 私が隣のあーちゃんに話を振ると、彼女はしばらくその怪しげな表紙をじっと見つめ、それからスケッチブックの隅に、小さな「ダーツの矢」と、それに射抜かれた私のハートのマークを、無言で描き加えた。


「射抜かれてないから。私はまだ、営業方針に悩んでいるだけだからね」


 私のツッコミに、リビングは小さく揺れるような笑い声に包まれた。

 窓の外からは、初夏の風が牧草地をサワサワと揺らす音が、心地よいリズムとなって流れ込んでくる。私は手の中の新しい本をしっかりと握りしめ、自分という職人の「境界線」をどうやって外の世界に示していくべきか、その新しい問いと、静かに向き合い始めていた。



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