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七尾工房、本日も開店休業中。  作者: 七尾 拓哉


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1/11

第1話 となりの弟子は、本日も準備中

 五月の終わり、中標津(なかしべつ)の風はまだ、どこか冷たい刃のような鋭さを残している。  本州ではそろそろ梅雨の気配がささやかれ、重たく湿った空気が街を覆い始める頃だろう。しかし、根釧台地を吹き抜ける空気はどこまでも乾いていて、肌に触れるたびに、去っていった冬の厳しい名残をかすかに思い出させた。  それでも、窓の外に広がる広大な牧草地は、日に日にその緑を深めている。冬の間、真っ白な雪に閉ざされていた大地が、まるで呼吸を取り戻したかのように、青々と、力強く萌え立っていた。地平線の境界線がくっきりと浮き立ち、遮るもののない大空には、ちぎれた綿雲が初夏の強い風に流されて、速い速度で影を牧草地の上に落としては去っていく。道東の、短くも鮮烈な夏の入り口が、すぐそこまで来ていた。


 そんな澄んだ光の中に、丸太を組み上げたログハウスの入り口には、ふたつの木製の看板が仲良く並んで立っている。


 ひとつは、長年の雨風に晒されて、すっかり渋い灰色を帯びたナラの無垢板。そこには、七尾さんの少し癖のある手書きの文字で、V字の彫刻刀の跡も生々しく『七尾工房』と彫られている。  そしてそのすぐ右隣に、先々月の終わりに並び立つことになった、もうひとつの看板があった。  まだ削り出されたばかりの、淡いピンク色を帯びたチェリーの無垢板。そこには、私の名前――『橋本工房』の文字が、端正な明朝体に近い書体で彫り込まれている。七尾さんが「アユムさんの門出祝い」と称して、乾燥室に眠っていた最高級のチェリー材から切り出し、七尾さんが一文字ずつ丁寧に彫り上げたものだった。


 ふたつの看板が並ぶ光景は、客観的に見れば、まるで木工の複合施設が中標津の片隅に誕生したかのように見えるかもしれない。  だが、現実はそれほど甘くはなかった。


 私は個人事業主としての届出を済ませ、自分の看板を掲げた。けれど、七尾さんとの雇用関係を切ったわけでもない。私の実態は、依然として「七尾工房の弟子・見習い」のままだった。  普段は七尾さんの仕事――家具の修理の手伝いや木製小物の製作、七尾さんの梱包発送業務をこなし、給料をもらっている。そして、万が一にでも「橋本工房」宛ての個別の仕事が舞い込んできたら、その時だけ主客を入れ替えて、自分の作業スペースで自分の仕事として責任を持って削る。  それが、私たちが合意した新しい、そして極めて不器用な独立のスタイルだった。  だが、その肝心の「自分の仕事」が、いつまで待ってもやってこない。私の看板は、ただの綺麗な飾り板として、五月の風に吹かれ続けていた。


     


 私の朝は、一枚のトーストを焼く音と、お湯が沸騰する静かな響きから始まる。  中標津に来てからすっかり習慣となった「十分間の朝の読書」のために、私はダイニングテーブルの端に座り、お気に入りのティファニーのハート柄マグカップに淹れたてのブラックコーヒーを満たした。  小さなハートがあしらわれたそのマグカップは、七尾工房に4つある。中標津の澄んだ朝光を反射して、静かに佇んでいる。東京にはない静かさだ。そのギャップが、私の今の暮らしの不思議な現実感を象徴しているようだった。


 今朝、私が開いたのは、赤いポップなイラストが描かれた『夜は短し、歩けよ乙女』の文庫本だった。  実はこの本、昨夜、七尾さんから手渡されたものだ。  七尾工房には、数えたわけではないが、本が五百冊ほどある。ログハウスのあちこちに本棚がある。文庫本やハードカバーが、特に整理されることもなくうず高くそこいらじゅうに積まれているのだ。七尾さんは根っからの読書家なのだが、日中は絶対に本を読まない。だが、夜になり、周囲の牧草地が完全な闇に包まれてログハウスの周囲が静まり返る頃になると、リビングで、お気に入りのアメリカンスピリットに火をつけ、ボロボロになった文庫本をひっそりと開いている。


「アユムさん、これ読んだことある? ちょっと読んでみなよ。文章が面白いよ」


 そう言って、本の間に「しおり」を挟んだまま、手渡してきたのだった。  そのしおりというのが、普通のものではなかった。  薄く、本当に向こう側が透けて見えるほどに極限まで薄く削り出された、幅二センチ、長さ十センチほどの、サクラの鉋屑かんなくずだった。  私には、こんなに薄く削ることができない。サクラ特有の、ほんのりと赤みを帯びた繊維が、本のページの白い紙の上で美しく透き通っている。光に当てると、木の導管がまるでレースの編み目のように繊細な模様を描いていた。本を開くたびに、サクラの葉を少し焦がしたような、ほんのりと甘くて香ばしい匂いが、朝の澄んだ空気の中に優しく広がっていく。


 「オシャレなしおりですね」


 「あぁ、その辺に落ちてたから」


 「職人の凄さを感じます」


 「アユムさんが鉋を覚え始めたからだよ。鉋使えない人なら、逆にこんなの見ても何とも思わないんじゃないかな?アユムさんももうすぐ出来るようになるよ」


 そんな話をした。


 私はコーヒーを一口すすり、サクラの匂いを鼻腔に感じながら、文庫本のページをめくった。  京都の奇妙で騒がしい夜を歩く、黒髪の乙女と、彼女を追いかける不器用な「先輩」。  言葉の一つひとつが美しく削り出され、まるでお祭りの夜の冷たいラムネを飲んでいるかのような、不思議な清涼感が胸に広がる。  十分間。時計の針が刻む音だけが響く静かなリビングで、私はその豊かな言葉の海に深く浸かった。


 東京にいた頃、広告代理店で分刻みのスケジュールに追われながら、満員電車の中でスマホの画面を睨みつけていた自分を思い出す。あの頃の私は本なんて年に1,2冊しか読んだ記憶がない。読書の習慣なんてなかった。目の前の情報を処理することだけに追われ、言葉はただ消費されるだけの記号だった。  だが、七尾工房にきて、七尾さんに「朝の十分間読書は習慣づけた方が良い」と言われ、愚直に続けるようになった。 「アユムさんはさ、ちょっと頭が硬いところがあるよね。朝のうちに、自分と関係ない誰かの言葉や人生を十秒でも十分でもいいから頭に流し込んでおくと、脳みその風通しが良くなるよ」  そんな風に言われて、私は毎朝、一冊の文庫本を開くようになったのだ。当の本人の七尾さんは、朝は絶対に本を読まず、ただ寝ぼけ眼でコーヒーをすするばかりなのだけれど。


 それでも、今、この中標津の静寂の中で、木の匂いのするしおりを挟んだ本を開く時間は、私の乱れた呼吸を均一に整えてくれる、何ものにも代えがたい「調律」の時間になっていた。  パタン、と静かに本を閉じる。  サクラの鉋屑をそっと元のページに挟み、私は小さく息を吐いた。  朝の十分間の贅沢な時間は終わり、そして、今日もまた、私にとっての「弟子の日常」が始まろうとしていた。


     


 午後二時。作業室は、初夏の温かい陽射しが窓から斜めに差し込んで、宙に舞う微細な鋸屑をきらきらと金色に輝かせていた。  作業台の上には、七尾さんが地元のカフェから依頼されたという、ナラの無垢材を使った重厚なローテーブルの天板が置かれている。  私の今日の仕事は、この天板の「裏面」を、ひたすらサンディングペーパーで平滑に磨き上げることだった。


「裏面だからって手を抜いちゃダメだよ。見えないところにこそ、職人の誠実さがでるから」


 七尾さんからそう言われ、私は電動サンダーを手に取り、細かい振動に耐えながら、木肌の凹凸を根気よく削り続けていた。  機械の振動が両腕に伝わり、じんわりと汗が滲む。サンダーから吐き出される、ナラ特有のどこか酸味のある渋い匂いが、マスク越しにもはっきりと伝わってきた。  これは七尾工房の仕事。私は今日も、七尾さんが作ったものの裏側を磨いている。  ふと、視線を窓の外にやると、チェリーの看板が所在なさげに風に揺れていた。  看板を掲げたからといって、私はまだ何者でもない。ただの、師匠の指示に従ってペーパーをかける、不器用な見習い弟子のままだ。その厳然たる事実に、胸の奥からじわじわと冷たい焦燥感が這い上がってくるのを止められなかった。


 キィィィン、という電動サンダーの音を止め、一度深くため息をついた。  作業室の奥、少し離れたリビングスペースに目を向けると、七尾さんが昼の長い休憩時間を過ごしているのが見えた。  七尾さんは、いつもの白い合皮ソファの左端に深く腰掛け、白いボディに赤いリボンが描かれたジャズベースを抱え、アンプから地を傷つけるような低い音を出している。七尾さんは、右手の指先で、弦を静かに爪弾いていた。それはどこか不規則で、しかし一定のリズムを持った、子守唄のような静かな低い響きだった。  七尾さんはベースを弾きながら、時折、灰皿の隣に置かれたブラックコーヒーのカップを引き寄せ、アメリカンスピリットを美味そうに燻らせている。  彼にとって、昼間のこの時間は、読書でもなく、ましてや作業でもなく、ただ「木を呼吸させるため」にベースを鳴らし、煙草を吸い、コーヒーを飲むための、不可侵な時間なのだ。


「……暇ですね」


 私は耐えかねて、マスクを外し、白紙のノートを広げたダイニングテーブルの前に座って呟いた。  ベースの弦がフレットに当たる音が、一瞬だけ止まった。  七尾さんは煙草の煙を天井に向けて細く吐き出し、ソファの背もたれに頭を預けたまま、私の方を横目で見た。


「暇なのがね、一番贅沢なんだよ、アユムさん」


「七尾さんは『七尾工房』という確立されたブランドがあるから、そう言えるんです。私はまだ、試運転すら始めていないんです」


「焦っちゃダメだよ。ほら、あーちゃんも『ん』って言ってるし」


 七尾さんが視線を向けた先、作業室へと繋がる通路の脇にある、いつものダイニングチェア。  そこには、首に大きなヘッドフォンを引っ掛け、前髪を目元まで伸ばしたバイトのあーちゃんが座っていた。今日は木曜日、彼女の週に一度の出勤日だ。  あーちゃんは私のぼやきに対しても、七尾さんの適当なパスに対しても、一切声を発しなかった。ただ、膝の上に広げたA5のスケッチブックに、鉛筆をサラサラと走らせている。  そっと覗き込んでみると、そこには、私の「所在なさげに白紙のノートの上で組まれた両手」が、驚くほど正確なデッサンで描き留められていた。私の焦りや不安、手持ち無沙汰な空気感までが、その細い鉛筆の線の中に、冷徹なほど見事に表現されている。


「あーちゃん。人の失敗や焦りを、そんなにドラマチックに描き留めなくていいから。なんだか、自分が歴史的な敗北者みたいに見えてきて、余計に悲しくなる」


 私が苦笑しながら言うと、あーちゃんは前髪の奥の黒い瞳を少しだけ動かし、それから「ん」とだけ小さく鳴くように答えた。その「ん」が、肯定なのか、あるいは「静かにしていて」という意味なのかは、未だに完全には判別できなかった。


 私は小さくため息をつき、頭を抱えた。


「実は……看板のことで悩んでいたんです」


「看板? いい出来でしょう。俺が完璧に仕上げてあげたんだから」


 七尾さんは、ベースのネックを優しく撫でながら言った。


「技術的な話ではなくて、その、塗装のことです。元コピーライターというか、広告に携わっていた人間としての職業病なんです。あの看板を、このまま無塗装のままにしておくべきか、それとも、私の『ブランド』を表現するような、鮮やかな色で塗装するべきか、決めかねていて。たとえば、東京の洗練されたデザインオフィスのように、黒の漆塗りのようなシックな色にするか。あるいは、派手な差し色を入れるか。どうすれば、通りかかる酪農家の人たちや、観光客の人たちの目に留まり、私の『仕事』を正しく発信できるのか……。それを考え出すと、ロゴの配置や、書体のバランスまで気になってしまって、一歩も前に進めなくなってしまったんです」


 私が一気にまくしたてると、七尾さんはベースをソファの隣にそっと立てかけ、アメリカンスピリットの灰を灰皿に落とした。


「アユムさん、頭が硬いなあ」


「真剣に悩んでいるんです」


「あのね、アユムさん。看板っていうのは、人間が『俺はここにいるぞ』って主張するために無理やり立てた、ただの木の板なんよ。でも、木はね、そんな人間の都合なんてこれっぽっちも気にしてないんだよ」


 七尾さんは、冷めたコーヒーの入ったマグカップを手に取り、静かに続けた。


「その板が、中標津の風に吹かれて、夏の強烈な西陽を浴びて、冬の零下二十度の吹雪に晒される。そうしていくうちに、木は自分で自分の色を決めていくんです。削りたての淡いピンク色から、少しずつ, 少しずつ、深い飴色に。それは、誰にもコントロールできない、木という生き物自身の変化です。それをさ、人間が最初から『黒がいい』とか『黄色がいい』って決めつけてペンキで塗り潰しちゃったら、チェリーがせっかくここで生きて、変わっていこうとする時間を、全部台無しにしちゃうじゃん」


 七尾さんの言葉は、相変わらず技術的な理屈を超えて、どこか哲学的だった。  私は言葉を失い、窓の外のチェリーの看板をもう一度見つめた。  無塗装の、まだ白い、生まれたばかりの看板。  そこには、これから中標津で私が重ねていくはずの、不器用で、泥臭い時間のすべてが、そのまま木肌の色の変化となって刻まれていくはずなのだ。それを、元コピーライターの見栄や、安易な「セルフプロデュース」の言葉で塗り潰してしまおうとしていた自分の浅はかさが、急に恥ずかしく思えてきた。


「……無塗装のまま、中標津の風に晒しておくのが、正しいんですね」


「最初なんてそれでいいんだよ。俺の看板も『とりあえず看板でも作っておくか?』みたいなノリで作って、そのまま10年経っちゃっただけよ?それが、ここで生きるってことだから。白黒はっきりつけずに、木が色を決めるのを、のんびりと待てばいい」


 七尾さんはそう言うと、再びジャズベースを抱え直し、静かに音を鳴らし始めた。その指先は驚くほど軽やかで、彼がかつて、長野の九鬼楽器で培ってきた圧倒的な技術の片鱗を、その生音の中にも確かに感じさせられた。


     


 その時、工房の入り口の方から、ガチャッと戸が開く音が響いた。  砂利を踏みしめる、重い長靴の音。


「ごめんください。七尾くん、いるかい」


 太くて、よく通る温かい声だった。  近くで大規模な酪農牧場を営んでいる、井上さんだった。いつも搾りたての牛乳を、大きな瓶に入れて持ってきてくれたり、奥さんが焼いた素朴なプレーンクッキーを差し入れしてくれたりする、この工房の古い常連であり、良き理解者だ。


 私は慌てて立ち上がり、向かった。七尾さんも、ベースをソファに置いて、頭を掻きながらその後ろをついてくる。あーちゃんも、スケッチブックを小脇に抱えて、静かに後に続いた。


 作業室の入り口には、まだ乾ききっていない泥のついたワークパンツを履き、日に焼けた丸い顔に柔らかな笑みを浮かべた井上さんが立っていた。


「いやあ、仕事の途中にちょっと通りかかったらさ、入り口のところに、新しい看板が増えてるのに気づいてね」


 井上さんは、窓の外にある『橋本工房』の看板を指差した。


「橋本さん、ついに自分の工房を始めたんだね。おめでとう。これで七尾くんのちゃらんぽらんな仕事ぶりを、少しは引き締められるかい?」


「あ、ありがとうございます。まだ、届け出を出しただけで、実質は何も動いていないのですが……。普段は相変わらず、七尾さんの仕事を手伝ってる毎日です。七尾さんを引き締めるのは、国家予算を動かすより難しいと思います」


 私が苦笑しながら言うと、井上さんは「ははは、確かにその通りだ」と大声を上げて笑った。


 井上さんは、持ってきた牛乳の瓶を作業台の上にそっと置くと、今度は軽トラの助手席から持ってきたと思われる、古い、使い込まれた木製の道具箱をテーブルの上に載せた。  その瞬間、作業室の中に、泥と古い油、そして何何十年もの歳月が染み込んだ「古い木」の独特な匂いが、ふわりと広がった。


「実はさ、これ。うちの親父が昔、昭和の開拓期に自作して使っていた、ハルニレの道具箱なんだけどね」


 井上さんは、細く皺の刻まれた手で、その無骨な箱の表面をそっと撫でた。  箱は全体的に黒ずんでおり、長年の使用によって角が丸くなっていた。そして何より、持ち手の部分が、経年劣化によって完全に真っ二つに割れてしまっていた。割れた部分は、無骨な太い針金でぐるぐると縛られており、なんとか形を保っている状態だった。


「持ち手のところがさ、こないだついに完全に割れちゃってね。七尾くんに直してもらおうかと思ったんだけど、入り口のあの綺麗な『橋本工房』の看板を見たらさ……。なんだか、この新しい一歩を踏み出したばかりの橋本さんに、うちの親父の古い一歩を、直してもらいたいなと思ったんだよ。これは、橋本さん個人への、仕事の依頼だ」


 井上さんは、私の目を真っ直ぐに見つめ、その道具箱を私の前にそっと差し出した。


「……私に、ですか」


 私は、自分の喉が急に乾くのを感じた。


「そう、橋本さんに。これは家具じゃなくて、ただの頑丈な道具箱だからさ。傷だらけだし、不格好だけど、これからもずっと、うちの牛舎で使っていきたいんだ。橋本さんの丁寧な仕事ぶりなら、きっとこの箱も喜ぶと思ってね。どうだい、引き受けてくれるかい?」


 私は、差し出された道具箱を見つめた。  ハルニレという木は、非常に頑丈で、かつて北海道の開拓期には家屋の梁や、こうして頑丈さを求められる道具に好んで使われていた。だが、水分を多く含むため、乾燥や加工が極めて難しく、職人の間では「暴れ木」として知られている。  この道具箱も、五十年の歳月を経て、木肌が乾燥と湿潤を繰り返し、繊維が限界まで引っ張り合った結果、最も負荷のかかる持ち手部分が悲鳴を上げて割れてしまったのだろう。


 その箱の重みと、そこに刻まれた時間の長さを感じた瞬間、私の胸の奥に、あの心地よい、冷たい「怖さ」が、静かに湧き上がってくるのを感じた。  私が削り出す技術で、この井上さんの、お父様との大切な思い出を、未来へと繋ぎ止めることができるのだろうか。もし失敗して、この貴重なハルニレの木を台無しにしてしまったら。


 だが、私の隣で、七尾さんが静かに言った。


「いいじゃないですか、アユムさん。ハルニレは暴れ木だけど、五十年も経てば、もう十分にこの中標津の空気に馴染んで、落ち着いている。アユムさんが誠実に向き合えば、木はちゃんと応えてくれるよ。七尾工房の手伝いは一時休止にして、全力でそっちに取り組みな」


 七尾さんの言葉が、私の背中を優しく、しかし力強く押してくれた。  私は一度、深く呼吸をし、肩の力を抜いた。


「……はい。喜んで、引き受けさせていただきます。大切に修理させていただきます」


 私は、両手でしっかりと、そのハルニレの道具箱を受け取った。ずっしりとした、確かな信頼の重みが、私の手のひらを伝って、胸の奥へと染み渡っていくようだった。  自分の看板の下で、自分の責任で、この木と向き合う。その覚悟が、私の胸を静かに満たしていった。


「そうかい、よかった。それじゃあ、よろしく頼むよ、橋本さん」


 井上さんは、本当に嬉しそうに目を細め、私の肩をポンと叩いた。  あーちゃんは、私の隣で、そのハルニレの道具箱と、それを抱える私の少し緊張した表情を、いつの間にかスケッチブックの新しいページに、静かに描き始めていた。鉛筆が紙を擦るシュッ、シュッという音が、作業室の静かな空気の中に、心地よく響いていた。


     


 その夜。作業室の明かりを落とし、私はリビングで、一人静かにコーヒーを飲んでいた。  七尾さんは、ソファで文庫本を開いている。アメリカンスピリットの香ばしい煙が、小さな読書灯の光に照らされて、ゆっくりと天井へと上っていった。


 私は、テーブルの上に置かれた『夜は短し、歩けよ乙女』を、もう一度手に取った。  サクラの鉋屑のしおりが挟まれたページを開くたびに、静かな部屋に、ほんのりと香ばしい木の匂いが広がる。  小説の中で、黒髪の乙女は、京都の摩訶不思議な夜を、自分の足で一歩一歩、好奇心に満ちた瞳で歩み進めていく。その不器用で、けれど真っ直ぐな歩みは、まるでこれからこの中標津で、不格好な道具箱の修理から自分の「職人」としての人生を始めていく、私自身の未来の歩みと、どこかで静かに重なり合っているようだった。


 窓の外を見上げると、月明かりに照らされた『橋本工房』のチェリーの看板が、中標津の冷たい風に吹かれながら、静かに、けれど確かに、これからの長い時間に向かって、最初の呼吸を始めているのが見えた。


 それはまだ、何の塗装も施されていない、無垢のままの白い板だ。  だが、これからこの地で重ねていく、不器用で誠実な手仕事の時間が、その表面を少しずつ、美しい飴色へと染め上げていくのだろう。  私は、自分のつくる「言葉」と「木工」が、この中標津の厳しい、けれど温かい自然の中で、ようやく確かな一歩を踏み出したことを、静かな夜の闇の中で、深く、強く、実感していた。

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