第19話 橋本工房、本日も準備中
年が明け、一月の中標津は、世界が完全に凍結したような深い白銀の静寂に包まれていた。
根釧台地を吹き抜ける風は、もはや冷たいという領域を通り越し、肌に触れた瞬間に感覚を奪い去る痛烈な拒絶の響きを持っている。ログハウスの周囲に植えられたルピナスの枯れ枝は厚い雪の下に眠り、カラマツの防風林だけが、霧氷をその細い葉にまとわせて、冬の低い太陽の光を浴びてきらきらとダイヤモンドのように輝いていた。
朝、八時二十分。
私は一階のダイニングテーブルの定位置に腰掛け、ティファニーのハート柄マグカップを両手で包み込んでいた。淹れたてのブラックコーヒーの熱が、かじかんだ指先をじんわりと解きほぐしていく。
今朝、私が開いていたのは、辻村深月さんの『ツナグ』の文庫本だった。
一生に一度だけ、死者との再会を仲介してくれる「ツナグ」という案内人の少年と、それぞれの未練を抱えた依頼人たちのオムニバス。
パタン、と静かに本を閉じる。
昨夜、七尾さんから手渡されたその本のページの間には、やはり、極限まで薄く削り出されたサクラの|鉋屑のしおりが挟まれていた。本を開くたびに、朝の澄んだ空気の中にほんのりと甘くて香ばしい匂いが広がる。
届かなかったと思っていた想いが、時間を超えて、生きている人間の元へとちゃんと届く――その物語の残響が、胸の奥に冷たい澱ではなく、温かい灯火のようにじんわりと広がっていくのを感じていた。
「……おはよーございます……」
午前九時五十分を回った頃、お約束通りのひどい寝癖を頭の左右に爆発させた七尾さんが、力なく階段を降りてきた。長袖の作業シャツの袖を乱暴に捲り上げ、土間の椅子に深く腰掛けて、本日の一本目のアメリカンスピリットに火をつける。
「お、ツナグ終わった? あれさ、最後の歩美くんの葛藤が良いんだよねえ。自分のやってる仕事が、本当に誰かのためになってるのかって悩むあたり。アユムさんみたいじゃん」
「私は死者の仲介人ではありません。一応、個人事業主の木工職人です」
「はいはい。でもさ、今日の仕事は、まさにそのツナグみたいな仕事だよ」
七尾さんが紫煙の向こうで悪戯っぽく笑った、まさにその瞬間だった。工房の正面の引き戸が、ガラガラと大きな音を立てて勢いよく開いた。
「ごめんください! 橋本さん、いるかい」
入ってきたのは、近くで大規模な酪農牧場を営んでいる井上さんだった。
ワークパンツの膝に雪をつけた井上さんは、軽トラの荷台から、ブルーシートに包まれた古い大きな家具を、息を白く切らしながら運び込んできた。
「実はさ、これ、うちの親戚の古い家を解体することになってね。そこから出てきた、昭和の頃の食器棚なんだよ」
ブルーシートが剥がされると、作業室の真ん中に、高さ一メートルほどの古びた食器棚が現れた。
全体に埃を被り、格子の硝子戸は油染みで曇っている。ナラ材で作られた外枠は長年の使用で角が丸く摩耗し、何より、中段の引き出しが湿気と歪みで完全に固着してしまっていた。
「じいちゃんが昔、大切に使ってた棚なんだけどさ。不格好だし、傷だらけだけど、捨てるには忍びなくてね。……橋本さん。これは『七尾工房』じゃなくて、あの綺麗なチェリーの看板を掲げた『橋本工房』の橋本歩個人への、仕事の依頼だ。直して、またうちの台所で使わせておくれよ」
井上さんは、私の目を真っ直ぐに見つめ、その古い棚を私の前に差し出した。
「……私に、ですか」
胸の奥が、どくんと小さく跳ねる。
普段は七尾さんの仕事――試作二号機の含水率管理や、CNCマシンのPR案件対応、天板の裏面磨きといった業務をこなしているが、これは正真正銘、私の看板宛てに舞い込んできた仕事だった。
「アユムさん、橋本工房の仕事始めだね。七尾工房の手伝いは一時休止にして、全力でそっちに取り組みな」
隣で七尾さんが、ジャズベースのネックを優しく撫でながら、静かに背中を押してくれた。
私は一度、深く呼吸をし、肩の力を抜いた。
「……はい。喜んで、引き受けさせていただきます」
私は、手のひらに収まるほどの小さな仕上鉋と、研ぎ澄まされたノミを手道具の引き出しから取り出した。
作業は、その日の午後から数日間に及んだ。
噛み合って固くなっている引き出しを、外枠を傷つけないようにドライヤーの微風で収縮させ、ゆっくりと引き抜く。擦れて黒くなっている干渉部分を、ノミとサンドペーパーでコンマ数ミリずつ慎重に削り落としていく。旭川の「立花工芸」で十人のプロの職人たちの規律正しい呼吸を見てきた経験が、私の指先に確かな論理と落ち着きを与えていた。
異変に気づいたのは、三日目の夕方、引き出しの「底板」の裏側を乾いた布で拭き上げていた時だった。
長年の埃と油染みを綺麗に取り除いたナラ材の裏面に、薄く色褪せた、けれど力強い黒い鉛筆書きの筆跡が残されているのを見つけたのだ。
「昭和四十二年 八月 棚板増設 センの木にて」
それは、メーカーの製造刻印などではなかった。かつてこの棚を使っていた井上さんの祖父か、あるいは地元の名もなき器用な大工が、壊れた棚を直した際に書き残した、個人的な「修理の記録」だった。
よく見ると、増設された棚板だけは、外枠のナラ材とは違う、北海道の開拓期に好んで使われた、どこか白っぽくて手触りの荒々しい「セン(針桐)」の木が使われていた。
「……センの木か」
私は、その不器用な鉛筆の文字を、指先でそっとなぞった。
かつてこの場所で、大切な家族の生活を守るために、手持ちのセンの木を削り、汗を流して棚を直した人間の息遣いが、五十年の時を超えて、今、私の手のひらに真っ直ぐに伝わってくるようだった。
「元コピーライターの職業病なら、そこ、サンダーで綺麗に削り落として『完璧なリペア』にしちゃうところだよね」
いつの間にか私の後ろに立っていた七尾さんが、冷めたコーヒーの入ったマグカップを手に、ニヤニヤしながら覗き込んできた。
「……消しませんよ」
私は、ノミを持った手をそっと下ろした。
「この文字も、センの木の棚板も、この家具が五十年かけて紡いできた『時間』そのものです。これを綺麗に消し去ってしまったら、それはただの綺麗な箱になってしまう。タエさんの裁縫箱の時もそうでした。木を直すということは、時間を力ずくで削り落とすことじゃない。前の持ち主の想いを、次の世代へと届けることですから」
七尾さんは、私の回答を聞くと、驚いたように少しだけ目を見開き、それから嬉しそうに小さく鼻を鳴らした。
「アユムさん、頭の硬いコピーライターの癖に、言うようになったじゃん」
「サッ、サッ、サッ……」
作業室の対角線上、窓際の作業台では、あーちゃんが物言わず、いつものように自分の丸椅子に腰掛けていた。
しかし、今日の彼女は、いつもの小さな熊やアザラシの彫刻を削っていなかった。彼女の前には、これまでに見たこともないほど大きな、横幅が五十センチを超える、うねるような曲線を持つチェリーの巨大な塊が置かれていた。
首にでっかい黒いヘッドフォンを掛けたまま、彼女は彫刻刀を握り、その塊の表面を凄まじい集中力で削り進めている。
ふと、彼女の手元にあるA5のスケッチブックに目をやると、いつもなら数ページしか埋まらないはずの白い紙が、すでに何十ページも鉛筆の線で真っ黒に埋め尽くされていた。
そこに描かれていたのは、流木のような荒々しい「獣の身体」と、素焼きの陶器のような「白い翼」が融合した、奇妙で、けれどどうしようもなく美しい造形のデッサンだった。
「あーちゃん。それ、次の作品?」
私が声をかけると、あーちゃんは前髪の奥の黒い瞳を少しだけ動かし、それから無言でスケッチブックをバタンと胸に抱え込んだ。何を作っているのかは、今日も教えてくれない。
けれど、その埋め尽くされたページの量と、彼女のノミを握る指先の強さは、来たるべき春への、静かで雄大な前触れのように、工房の空気を心地よく震わせていた。
その夜。すべての修理工程を終え、硝子戸の曇りも綺麗に拭き上げられた昭和の食器棚が、作業室の真ん中に静かに佇んでいた。
固着していた引き出しに指をかけ、手前に引いてみる。
シューポッ。
あの、完璧な気圧の抜けるような、一点の引っかかりもない滑らかな音とともに、引き出しは吸い込まれるようにして開閉した。引き出しの裏側には、あの「昭和四十二年」の鉛筆書きのメモが、一点の傷もつけられないまま、元の場所に静かに収まっている。
七尾さんは、温かいコーヒーの入ったハート柄のマグカップをテーブルに置き、その食器棚の前に立った。
いつもなら「いいじゃん、完璧じゃん」と気楽に言うはずの男が、しばらくの間、引き出しの木口や格子の真鍮金具を、じっと無言で見つめていた。
アメリカンスピリットに火をつけ、紫煙を細く吐き出す。
「……アユムさん」
「何ですか、七尾さん」
「ちゃんと、アユムさんの仕事になってるよ」
七尾さんは、それだけ言った。
お世辞も、大袈裟な絶賛もない、ただ事実だけを置くような、低い、静かな声。
長野の病室で、源蔵社長にギターの音を届けたあの時の、短い、けれど圧倒的に誠実な職人の響きが、その一言には宿っていた。
「……ありがとうございます」
私はマグカップを両手で包み込み、深く、強く、胸の奥でその言葉を受け止めた。
個人事業主としての届出を出してから半年。私はずっと「七尾工房の弟子」という居心地の良いまどろみの中にいたのかもしれない。けれど今、私の目の前にあるこの棚は、七尾さんの真似でもなく、安易なセルフプロデュースの言葉でもない、私自身の誠実さが削り出した、最初の「橋本工房」の結晶だった。
夜の十一時。
私はコートを羽織り、ログハウスの外へと出た。
中標津の夜空には、凍てつくような満天の星々が、刺すような白光を放って瞬いている。冷涼な風がカラマツの防風林を揺らし、足元の新雪がキュッ、キュッと小気味よい音を立てた。
振り返ると、ログハウスの入り口に仲良く並んだ、ふたつの木製の看板が見えた。
七尾さんの渋い灰色のナラ板の隣で、私の『橋本工房』のチェリー板は、この半年の激しい夏の西陽と冬の吹雪を浴びて、削りたての淡いピンク色から、驚くほど深く、美しい飴色へとその身を染め上げていた。無塗装のまま、中標津の風に晒しておいたからこそ、木が自分で決めた、本物の時間の色だった。
私は、その看板を見上げながら、ふと、東京にいた頃の自分を思い出していた。
目白のワンルームマンションで、分刻みのスケジュールに追われ、徹夜明けの重い体で満員電車に揺られていた日々。クライアントの数字とアルゴリズムに消費され、自分が何のために言葉を書いているのか分からなくなっていた、あの頃の自分。
あの頃の自分に、今、中標津の星空の下で、自分の名前の看板を見上げてここに立っているこの景色を、見せてやりたい――一瞬、そんな感傷が頭をよぎったが、私はすぐに小さく首を横に振り、ふっと微笑んだ。
いや。見せてやる必要なんて、ない。
あの息もできないほどにすり減っていた東京の日々があったからこそ、私はあの深夜の会社で七尾さんの動画に出会い、すべてを捨ててこの中標津へと導かれたのだ。あの苦しい遠回りこそが、私をこの場所に立たせるための、必要不可欠な道筋だった。
遠回りくらい、どうってことない。
ゼロにさえしなければ、物語はちゃんとここに繋がっている。
私はチェリーの看板にそっと指先を触れ、その冷たくも確かな手応えを確かめてから、温かいストーブの待つログハウスの引き戸を開けた。
リビングのソファの真ん中では、茶トラのカンナが丸くなって深く眠り、私のデスクの上では、あーちゃんから贈られたペンスタンドが、静かに新しい春の音を待っていた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
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この物語を一緒に削り出していただけると嬉しいです。
七尾工房のストーブを温めて、また次の夜にお待ちしています。




