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七尾工房、本日も開店休業中。  作者: 七尾 拓哉


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20/20

第20話 ふたつの看板、本日も開店休業中

 二月の中標津は、一年の中で最も深い白銀の底に沈む。


 地平線を覆う大雪原からは、巻き上げられた地吹雪が真っ白な壁となって視界を遮り、天を衝くカラマツの防風林は、凍てつく風にその梢を激しく軋ませていた。外に出るだけで呼吸が凍りつくような、零下二十度の極寒の世界。ログハウスの入り口に並ぶふたつの木製の看板も、今は半分ほど雪に埋もれながら、中標津の厳しい寒気にじっと耐えている。

 しかし、七尾工房の薪ストーブのガラス窓の向こうでは、白樺の太い薪が、まるで生き物のように真っ赤な炎を上げてパチパチと爆ぜていた。リビング全体を包み込むその温かい熱気は、外の荒涼とした凍結世界を完全に忘れさせるほどの、深い安堵感をもたらしている。

 作業室の奥では、試作二号機の製作が、亀の歩みのように少しずつ、けれど確実に進められていた。


 長坂さんから届いた幾何学的ブレーシングの配置図を元に、最高級のスプルースの表板が、大作業台のフェルトの上に静かに横たわっている。完成までは、まだ数ヶ月、あるいは数年かかるかもしれない。それでも、七尾さんは毎晩、一日のすべての業務を終えた後に白熱灯を灯し、

「……まあ、たいしたことねーわ。伊吹のロジックなんて、俺のこの指先の感覚にかかりゃ一発よ」

 などと、いつもの強がりをぶっきらぼうに呟きながら、小さな仕上鉋やノミを使って、コンマ数ミリの厚みを静かに、丁寧に削り落としていた。その横顔には、かつて十年の呪縛に怯えていた面影はもうどこにもなく、ただ純粋な響きを追い求める職人の、静かな執念だけが宿っていた。

     

 朝、九時五十分。


 お約束通りのひどい寝癖を頭の左右に爆発させた七尾さんが、のそのそと階段を降りてきた。長袖の作業シャツの袖を乱暴に捲り上げ、土間の椅子に深く腰掛けて、本日の一本目のアメリカンスピリットに火をつける。

「おはよーございます、アユムさん……。いやあ、昨夜のサウナの後の外気浴は、マジで体から蒸気が立ち上って、自分が半分あの世に行きかけたわ。中標津の二月の風は、魂まで調律されるね」

「調律される前に風邪をひきますから、本当にやめてください」

 私はため息をつきながら、お気に入りのティファニーのハート柄マグカップをダイニングテーブルの端に置いた。


 すると、七尾さんは冷めたコーヒーを一口すすり、ポケットから一冊の、赤いポップなイラストが描かれた文庫本を取り出して、私の前にぽんと差し出してきた。

 『夜は短し、歩けよ乙女』だった。

 本のページの間からは、やはり、あの極限まで薄く削り出されたサクラの鉋屑のしおりが、ひらひらと顔を覗かせ、朝の澄んだ空気の中にほんのりと甘くて香ばしい匂いを届けていた。

「アユムさん、これ、もう読んだっけ? ちょっと読んでみなよ。文章が面白くてさ」

 七尾さんは、本気で忘れているのか、あるいはわざとなのか、いつもの飄々とした顔でそう言った。私は思わず苦笑して、その文庫本を手に取った。

「七尾さん。これ、もう読みましたよ。橋本工房の看板を掲げたばかりの頃に」

「あ、そうだっけ? じゃあ、また読んでみなよ。あれから一年近く経ってさ、アユムさんもいろいろ遠回りしてきたんだから。今再読すると、きっと全然違う感じがするからさ」

 七尾さんはそう言うと、アメリカンスピリットの灰を灰皿に落とし、嬉しそうに小さく鼻を鳴らした。

 私は手の中で、その使い込まれた文庫本の重みを感じていた。


 言われた通りにページをめくると、京都の奇妙な夜を真っ直ぐに歩く「黒髪の乙女」と、不器用な「先輩」の言葉が、私の目の中に滑り込んでくる。

 不思議だった。一年前、広告代理店を辞めたばかりの私が満身創痍で読んだときは、ただその言葉の清涼感に救われるだけだった。けれど今、この中標津の二月の静寂の中で読むその物語は、言葉の一つひとつがまるで研ぎ澄まされた鉋屑のように美しく削り出され、登場人物たちの泥臭くも愛おしい遠回りそのものが、私たちがこの工房で重ねてきた不器用な時間のすべてを、優しく肯定してくれているかのように、胸の奥へと深く染み渡ってきた。

「……本当ですね。全然、違う本みたいに聴こえます」

「でしょ? 木も本もさ、人間の側が変われば、返す響きが変わるんよ」

 七尾さんはそう言うと、満足そうに立ち上がり、作業室の奥へと迷いのない足取りで向かっていった。

     

「サッ、サッ、サッ……」

 作業室の窓際からは、週に一度のアルバイトであるあーちゃんの、規則正しいやすりの音が心地よいリズムとなって流れ込んでいた。


 今日の彼女の前には、先月から彼女が一人で向き合い続けている、チェリーの巨大な塊が置かれていた。

 首にでっかい黒いヘッドフォンを掛けたまま、彼女の細い指先は、流木のような荒々しい造形の輪郭を、さらに深く、さらに繊細に削り出している。


 テーブルの上のA5のスケッチブックのページは、いつもより多く、真っ黒な鉛筆の線で埋め尽くされていた。何を作っているのか、彼女は今日も言葉では教えてくれない。

 けれど、その削り出されたチェリーの木肌からは、微かに、あの雨の日にタエさんの裁縫箱から漂ったような、サクラ特有のほんのりと甘い、春の予感のような芳香が、冬の作業室の中に優しく広がっていた。


 あーちゃんは何も語らない。けれど、彼女の手元にあるその未完成の形は、来たるべき春への、これ以上ないほど雄弁な約束だった。

     

 夜の十時半を回る頃、ログハウスの内部は、いつも以上に深い、まどろむような静寂に満たされていた。

 私はダイニングテーブルの前で、二つのノートを並べて開いていた。


 ひとつは、七尾さんから毎朝頼まれている、試作二号機のスプルースやマホガニーの「含水率の管理データ」。そしてもうひとつは、私が中標津に来たあの日から、自分の不器用な日々を嘘のない言葉で書き留め続けてきた「暮らしの日誌」だった。

 黒いインクで、今日の数値を書き込んでいく。


「スプルース:11.0%(安定)。外気浴の後、七尾さんが少し微笑んでいたこと。あーちゃんのチェリーの塊が、ほんのりと甘い匂いを発し始めたこと――」

「アユムさん」

 背後から、七尾さんの静かな声が降ってきた。


 振り返ると、七尾さんはいつもの白い合皮ソファの左端に深く腰掛け、膝の上で丸くなっているカンナの背中を、節くれ立った細い指先でそっと撫でていた。

「そのアユムさんのノートさ。一話からずっと、俺たちのこと、中標津のこと、全部正確に書き留めてるじゃん。……それさ、そのうち一冊の本になるんじゃない?」

 七尾さんは、煙の向こうから、いつもより少しだけ静かな目で私を見た。

「……なりませんよ。ただの、弟子の日誌であり、業務日報です。こんなちゃらんぽらんな師匠と、物言わぬアルバイトと、世界の片隅で開店休業している工房の記録なんて、誰も読みたがりません」

 私が少し意地悪く笑って言うと、七尾さんはソファの背もたれに頭を預け、クスクスと悪戯っぽく笑った。

「なるかもよ? 遠回りしてきた人間たちの言葉っていうのはさ、案外、どこか遠い街で、同じようにすり減って立ち止まってる誰かの胸に、ちゃんとした調律の音として届くもんだからさ」

 その言葉を聞いた瞬間、私のペンを持つ手が、ノートの上で少しだけ止まった。

     

 リビングのソファ。


 左端には七尾さんが座り、真ん中の一番使い込まれて薄くなった窪みの跡では、茶トラのカンナがいつの間にか目を覚まし、琥珀色の瞳で私たちをじっと見つめていた。それから、にゃあ、と力なく、けれどすべてを許容するように一度だけ鳴くと、再び定位置で深く丸くなって眠りについた。

 壁の隅には、伊吹さんの形見である、白いボディに赤いリボンが描かれたジャズベースが、冬の静かな光を浴びて、ただ黙って佇んでいる。


 七尾さんは、手元の文庫本から顔を上げずに、ぽつりと言った。

「来年、長野また行くかな」

 私は、含水率のノートを静かに閉じ、ふっと口元を緩めた。

「ええ。源蔵社長が元気になって、替え玉を三回頼めるくらいになったら、いつでも付き合いますよ。その代わり、今度は大塚のカプセルホテルじゃなくて、ちゃんとした諏訪の温泉宿を私が予約しますからね」

「カプセルホテルも嫌いじゃないけどなー。まぁ任せるわ、進行管理さん」

 七尾さんは嬉しそうに目を細め、二本目のアメリカンスピリットに手を伸ばした。

 薪ストーブの中で、白樺の薪が、ぱちん、と一度だけ高く鳴り響いた。その心地よい残響が、ログハウスの梁へ、道具棚へ、あーちゃんの残していったチェリーの木片へ、そして試作二号機の白い肌へと、薄く触れてから、静かに消えていった。

 窓の外では、根釧台地の無限の雪原を渡ってきた冬の激しい風が、二つの並んだ木製の看板の間を、音を立てて真っ直ぐに吹き抜けていた。


 長年の雨風に晒された七尾さんのナラ材の看板は、渋い灰色のまま、そこにある。


 そして、そのすぐ右隣に立つ私の『橋本工房』のチェリー材の看板は、激しい季節を重ねるたびに、生まれたての白い肌から、驚くほど深く、美しい飴色へと、確かにその身を深め続けていた。

 ゼロにさえしなければ、物語はちゃんと、ここで続いている。

 この不器用な工房で、私が木と言葉から教わったその言葉が、来年も、その先も、中標津の厳しい、けれどどこまでも愛おしい風の中で、静かに、豊かに、積み重なっていく気がした。




あとがき

 二月の終わり、中標津にはまだ、根雪が残っていた。

 工房のストーブが、今日も白樺の薪を静かに食べている。私はダイニングテーブルの前に座り、第二十話のファイルを閉じたばかりだった。画面には「保存しました」の小さな文字だけが残っていた。

 七尾さんは、いつものように白い合皮のソファの左端に深く沈み込み、アメリカンスピリットに火をつけていた。

「七尾さん。第二十話まで、書き終わりましたよ」

「おお。お疲れ様でした」

 それだけだった。コーヒーをひとくち飲んで、煙を細く吐いて。二十話分の物語が終わったとは、とても思えない反応だった。

「感想は、ないんですか」

「感想か。……正確に書いてくれた、とは思う」

「上巻のあとがきでも、まったく同じことを言いましたよね」

「そう? 俺、いつも正確に書いてくれてると思ってるから。変わらないよ」

 私は苦笑して、画面から目を離した。窓の外では、カラマツの防風林が、春を待つように静かに揺れていた。

   

「色々ありましたね」

「そうかなあ。俺はわりと、いつも通りだった気がするけど」

「いつも通りに見えているのは七尾さんだけですよ。YouTubeがバズって、世界中から注文が来て、台湾のメーカーから機械が届いて、あーちゃんが個展を開いて、長野にまで行ったんですよ」

「……まあ、確かにちょっと忙しかったかな」

「ちょっとじゃありません」

 七尾さんは煙草を灰皿の縁に置いて、少しだけ窓の外を見た。

「あーちゃんの展示会、良かったよね」

「良かったですね。あーちゃんが、初日に前髪を払って私を見た顔、忘れられません」

「俺も。あの子、ずっと持ってたんだよ、ああいう顔を。ただ、出す場所がなかっただけで」

「アユムさんが、その場所を作ったんでしょ」

「言葉を届けただけです。作ったのはあーちゃんです」

「それが、アユムさんの仕事だから」

 七尾さんは短くそう言って、コーヒーを一口飲んだ。

   

「長野のことも、書きました」

「うん」

 七尾さんは、すぐには続けなかった。煙草の煙が、静かに天井へ昇っていく。

「源蔵社長の前でギターを弾いた時、怖かったですか」

「怖かったよ。あの人、耳だけは嘘が通じないから。意識が混濁してても」

「でも、弾きましたね」

「弾くしかなかったから。……社長の指がリズムを刻んでた。それだけで、十分だったよ」

 私は何も言わなかった。それで十分だった。

「九鬼楽器の、あの古い作業場に連れて行ってくれましたよね。伊吹さんのメモが、まだ棚に貼ってあって」

「コンマ〇二ミリ、トップ板厚み薄く、だっけ」

「七尾さんが、持って帰らなかったのが印象的でした」

「ここにあっていいんだよ。あいつの場所だから」

 七尾さんはそれだけ言って、また煙草を口に運んだ。

   

「Zoomの取材のこと、書きましたか」

「書きましたよ。学生さんたちへの、七尾さんの答えが好きでした」

「どのへんが」

「『追いつかれないっていう絶対的な自信があるから、全部見せられる』というところです」

「そりゃそうだよ。教えたくらいで追いつかれるなら、俺の腕が大したことないってことだから」

「威張るところじゃないんですけど、妙に説得力があるんですよね、七尾さんが言うと」

 七尾さんは「あはは」と笑って、煙草を灰皿に押しつけた。

   

「試作二号機、進んでますね」

「まあ、少しずつね。焦っても木が暴れるだけだから」

「完成したら、また長野に行きますか」

「行く。源蔵社長に、今度はちゃんと全部弾いてもらいたいから。替え玉三回できるくらい元気になってから」

「その時は私が宿を予約しますよ。カプセルホテルは、もうなしで」

「あはは、まぁ任せるよ」

 工房の方から、サッ、サッ、と静かなペーパーがけの音が届いてきた。

 あーちゃんだった。今日も木曜日で、旅館からそのまま工房へ来ていた。何を聴いているのかは、今日も教えてくれない。でも、ヘッドフォンが、来るときだけ外れていた。

「あーちゃん」と七尾さんが声をかけた。「次の作品、でかくなってるね」

「……ん」

 あーちゃんはそれだけ答えて、また作業に戻っていった。

 七尾さんがゆっくりとコーヒーを飲み干した。

「アユムさん」

「はい」

「二十話分、ちゃんと書けたじゃん」

「七尾さんと、あーちゃんと、井上さんと、タエさんと、三上さんと、美香さんと、立花さんと、源蔵社長と、長坂さんと、伊吹さんのおかげです」

「俺は何もしてないよ。ただ、いつも通りにやってただけ」

「それを書くのが、一番難しかったんですよ」

 七尾さんは少し困ったような顔をして、それからまた、いつもの飄々とした顔に戻った。

「じゃあ、続きも頑張って」

「はい。頑張ります」

   

 薪ストーブの薪が、ぱちん、と一度鳴った。カンナが、ソファの真ん中でむくりと起き上がり、欠伸をして、また丸くなった。

 工房の方から、あーちゃんの静かなペーパーがけの音が、また届いてくる。

 一話から二十話まで。看板を二枚並べて、一年と少し。

 私はまだ、鑿の研ぎ方を完全には覚えていない。七尾さんはいまだに毎朝、寝癖を爆発させて降りてくる。あーちゃんは今日も、何を聴いているのか教えてくれない。試作二号機は、まだ途中だ。源蔵社長は、まだ替え玉を三回頼めていない。

 でも、それでいい。

 ゼロにさえしなければ、物語はちゃんと、ここで続いている。

 そういう言葉が、この話の中に、静かに積み重なっていた。

 読んでくださった皆様が、このどこかに、自分の言葉を見つけてくださっていたなら、これ以上嬉しいことはありません。

 今後も、七尾工房は、のんびりと開店休業中です。

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