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七尾工房、本日も開店休業中。  作者: 七尾 拓哉


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17/20

第17話 野付半島、地の果てのドライブ

十二月の第二週に入った頃のことだ。


 朝の読書を終えて、二杯目のコーヒーを飲んでいると、工房の引き戸がガラガラと開いた。


「よう、橋本さん。七尾さんは?」


 三上さんだった。近所に住む漁師さんで、時々こうして獲れたての魚を持ってきてくれる。長靴のまま土間に入ってきて、手に持った袋をドンと置いた。


「七尾さんは、まだ……」


 と言いかけたところで、二階から足音がした。どすどすと、のろい足取りで階段を降りてくる音。現れた七尾さんは、寝ぐせが盛大についた頭で、目が半分しか開いていなかった。九時五十分。


「おはよー三上さん」


「いつまで寝てんだ。こっちはもう朝の漁終わったぞ」と三上さんは笑った。「今日はな、野付の方にとっかりの大群が来ちゃってよ。漁にならなかったわ。ちょっとしかないけど、ホッケ持ってきたぞ」


「いつもありがとねー、美味しくいただくよ」


 七尾さんがそう返すと、三上さんは「じゃあ」と足早に出ていった。引き戸が閉まる音がして、また工房が静かになった。


「とっかりって、なんですか」


 私が聞くと、七尾さんは袋の中を覗きながら、「トッカリってのはアザラシのことさ」と答えた。


「アザラシが野付半島に来てるんですか」


「たまにポツポツはいるんだけど、大群って珍しいなあ」


 七尾さんがそう言った、ちょうどそのとき。


 工房の引き戸がまた開いて、あーちゃんが駆け足で入ってきた。いつも静かに来るあーちゃんが、走っている。それだけで、何かあったとわかった。


 あーちゃんは無言でスマホを差し出してきた。画面には地域のニュースが表示されていた。


 ——野付半島にアザラシの大群が。


「あーちゃん、アザラシ好きだもんね」


 あーちゃんは小さく、でもはっきり頷いた。


 七尾さんは私を見た。私はあーちゃんを見た。


「せっかくだから、見に行くか」


   


 出発は昼前だった。


 白いビートルに三人で乗り込んだ。助手席に私、後ろにあーちゃん。後部座席にはフリース素材のブランケットと、七尾さんが出発前に黙って用意した魔法瓶の珈琲が積んであった。あーちゃんは大きなヘッドフォンをしたまま乗り込んで、窓の外を見ていた。


 中標津の市街地を抜けると、道が一本になった。根釧台地の牧草地が両側に広がり、防風林が等間隔で続く。十二月の枯れた草が、低い日差しに薄く光っていた。


「あーちゃん、今月アザラシの彫刻の売り上げはどーなの?」


 七尾さんがバックミラー越しに聞いた。あーちゃんは少し考えてから、指を三本立てた。


「三個か。けっこう売れてるじゃん。さすがだね」


 

「でかいのになると一メートルくらいある。近くで見るとかなりずんぐりしてるよ」


 あーちゃんがヘッドフォンを少しずらして、こちらを向いた。


「楽しみなんだ」と七尾さんが笑った。あーちゃんはまた窓の外を向いた。


 標津の町を抜けて、野付半島への道に入った。道路が細くなった。両側が急に低くなって、海面とほぼ同じ高さになった。左はオホーツク海、右は野付湾。道の幅は車一台分くらいしかない。


「これ、対向車来たらどうするんですか」


「すれ違いできるところまで戻る」


「それだけですか」


「それだけ」


 七尾さんはハンドルを握りながら、どこか機嫌が良さそうだった。道路の両側に白い霜が降りていた。空は低く、灰色がかった青だった。


 十五分ほど走ると、駐車場があった。七尾さんが車を止めた。


「ここから歩く」


   


 外に出ると、風があった。


 海からの風で、頬に当たり続けると冷たさが染みてくる。中標津の冬の空気とも、長野の山の空気とも違う。塩の匂いがした。


 遊歩道を歩き始めた。木道が整備されていて、その両側にナラワラが広がっていた。ミズナラの枯れた林だ。かつては生きた木だったが、地盤沈下で海水が入り込んで、木が立ったまま枯れてしまった。枝だけが空に向かって伸びていて、葉が一枚もない。白く漂白されたような幹が、どこまでも続いている。


 静かだった。ただ、静かだった。枯れた木が風の中で少しだけ揺れていて、その音がかすかに聞こえた。


「すごいですね」


「でしょ」


 七尾さんはそれだけ言って、また黙った。私も黙った。あーちゃんはヘッドフォンを外して、ナラワラをじっと見ていた。スケッチブックは持っていなかったが、目が描いているような顔をしていた。


 木道を少し進んだところで、湾の方から声がした。


「いるいる」


 七尾さんが立ち止まって、湾の岸を指さした。


 いた。


 岸に、灰色の塊が何十頭も折り重なるようにいた。遠目にも、それがアザラシだとわかった。ぬいぐるみみたいに丸くて、ひれを持ち上げたり、のっそり動いたりしている。声も聞こえた。ぐうぐうと、低い鳴き声が風に乗ってきた。


「うわあ」と私は言った。


 あーちゃんが、すごい速さでスマホのカメラを出した。無言のまま、ひたすら撮っている。


「あんなにいるんですね」


「大群って言ってたからね。こんなに来るのは珍しいよ」七尾さんは言った。「三上さんが漁にならなかったって言うわけだ」


 アザラシたちは、こちらを気にしていないようだった。岸で思い思いに寝そべって、時々身体を動かして、また止まる。遠くのものが寝返りを打つと、周りのものがわずかにずれた。それだけのことが、なんとなくおかしかった。


 あーちゃんがスマホを構えたまま、ほんの少しだけ笑っていた。


 私はそれを横目で見て、貴重な場面として胸にしまっておこうと思った。あーちゃんが笑うのを、まだ数えるほどしか見ていない。


「あーちゃん、良かったね」と七尾さんが言った。


 あーちゃんは返事をしなかった。でも、カメラを向けたまま小さく頷いた。


   


 木道の終わりまで歩いて、来た道を戻った。


 帰り際、七尾さんが大きなナラの木の前で立ち止まった。幹が太く、枝が複雑に絡み合っているナラだ。しばらくじっと見ていた。何を見ているのか、聞かなかった。聞かなくていいと思った。


 風が来て、枯れ枝がかすかに鳴った。


 駐車場に戻ると、魔法瓶の珈琲を出した。三人で飲んだ。温かかった。


「来てよかった?」


 七尾さんが聞いた。私に、というより、三人に向けて。


「来てよかったです」と私は言った。


 あーちゃんはスマホの画面を見ながら、また小さく頷いた。


 七尾さんは頷いて、エンジンをかけた。


   


 帰り道は、来た道を戻るだけだった。


 空がだいぶ低くなっていた。牧草地が橙色に染まって、防風林の影が長く伸びた。七尾さんはカーステレオをつけた。低い音量で、ヨルシカが流れ始めた。


「野付半島って、いつかなくなるんですか」


「砂の塊だからね。少しずつ削られていくんだよ。百年後にはもっと細くなってるかもしれない」


「それなら、また来ればいいですね。なくなる前に」


「そうだね」と七尾さんは言った。「また来よう」


 後ろを見ると、あーちゃんはブランケットにくるまって、撮ってきた写真を一枚ずつ確認していた。画面を見つめる目が、少し優しかった。


   


 中標津に戻ったのは、夕方だった。


 工房に入ると、ストーブがまだ温かかった。出かける前につけておいた火が、ちょうど良い具合に残っていた。


「ホッケ、どうしますか」


「塩焼きにしよう。あーちゃん、食べてく?」


 あーちゃんはヘッドフォンを首に下げたまま、少し考えて、頷いた。


「じゃあ、三人で食べよう」


 七尾さんがキッチンに向かった。私はコートを脱いで、作業台の前の椅子に座った。カンナがどこからか出てきて、足に体を押しつけた。


 あーちゃんが作業台にスマホを置いて、静かに自分の彫刻道具を取り出した。今日の収穫を確かめながら、もう次の作業に入っている。


「あーちゃん、今日の写真、見せてよ」


 あーちゃんはスマホを手に取って、こちらに差し出してきた。画面には、アザラシが折り重なった岸の写真が映っていた。遠目でもわかるほど、たくさんのアザラシ。


「いっぱい撮れましたね」


 あーちゃんは頷いた。


 キッチンの方から、ホッケを焼く匂いが流れてきた。外で風が鳴った。ストーブが低い音を立てていた。


 今日のことを、私はしばらく考えていた。三上さんのとっかりの話から始まって、あーちゃんのスマホ、白いビートル、ナラワラ、アザラシの大群、帰り道のヨルシカ。全部がひとつながりになって、今日という日になった。


 計画していたわけじゃない。でも、こういう日が一番よく覚えていられる気がした。


「できたよ」と七尾さんが言った。


 ホッケの塩焼きが、三枚並んでいた。


 私たちは三人で、工房のテーブルを囲んだ。あーちゃんがヘッドフォンを完全に外した。それだけで、今日という日が少し特別だった。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。


もしこのお話が、あなたの心にほんの少しでも「正しい重心」で響いたなら、

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この物語を一緒に削り出していただけると嬉しいです。


七尾工房のストーブを温めて、また次の夜にお待ちしています。

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