第17話 野付半島、地の果てのドライブ
十二月の第二週に入った頃のことだ。
朝の読書を終えて、二杯目のコーヒーを飲んでいると、工房の引き戸がガラガラと開いた。
「よう、橋本さん。七尾さんは?」
三上さんだった。近所に住む漁師さんで、時々こうして獲れたての魚を持ってきてくれる。長靴のまま土間に入ってきて、手に持った袋をドンと置いた。
「七尾さんは、まだ……」
と言いかけたところで、二階から足音がした。どすどすと、のろい足取りで階段を降りてくる音。現れた七尾さんは、寝ぐせが盛大についた頭で、目が半分しか開いていなかった。九時五十分。
「おはよー三上さん」
「いつまで寝てんだ。こっちはもう朝の漁終わったぞ」と三上さんは笑った。「今日はな、野付の方にとっかりの大群が来ちゃってよ。漁にならなかったわ。ちょっとしかないけど、ホッケ持ってきたぞ」
「いつもありがとねー、美味しくいただくよ」
七尾さんがそう返すと、三上さんは「じゃあ」と足早に出ていった。引き戸が閉まる音がして、また工房が静かになった。
「とっかりって、なんですか」
私が聞くと、七尾さんは袋の中を覗きながら、「トッカリってのはアザラシのことさ」と答えた。
「アザラシが野付半島に来てるんですか」
「たまにポツポツはいるんだけど、大群って珍しいなあ」
七尾さんがそう言った、ちょうどそのとき。
工房の引き戸がまた開いて、あーちゃんが駆け足で入ってきた。いつも静かに来るあーちゃんが、走っている。それだけで、何かあったとわかった。
あーちゃんは無言でスマホを差し出してきた。画面には地域のニュースが表示されていた。
——野付半島にアザラシの大群が。
「あーちゃん、アザラシ好きだもんね」
あーちゃんは小さく、でもはっきり頷いた。
七尾さんは私を見た。私はあーちゃんを見た。
「せっかくだから、見に行くか」
出発は昼前だった。
白いビートルに三人で乗り込んだ。助手席に私、後ろにあーちゃん。後部座席にはフリース素材のブランケットと、七尾さんが出発前に黙って用意した魔法瓶の珈琲が積んであった。あーちゃんは大きなヘッドフォンをしたまま乗り込んで、窓の外を見ていた。
中標津の市街地を抜けると、道が一本になった。根釧台地の牧草地が両側に広がり、防風林が等間隔で続く。十二月の枯れた草が、低い日差しに薄く光っていた。
「あーちゃん、今月アザラシの彫刻の売り上げはどーなの?」
七尾さんがバックミラー越しに聞いた。あーちゃんは少し考えてから、指を三本立てた。
「三個か。けっこう売れてるじゃん。さすがだね」
「でかいのになると一メートルくらいある。近くで見るとかなりずんぐりしてるよ」
あーちゃんがヘッドフォンを少しずらして、こちらを向いた。
「楽しみなんだ」と七尾さんが笑った。あーちゃんはまた窓の外を向いた。
標津の町を抜けて、野付半島への道に入った。道路が細くなった。両側が急に低くなって、海面とほぼ同じ高さになった。左はオホーツク海、右は野付湾。道の幅は車一台分くらいしかない。
「これ、対向車来たらどうするんですか」
「すれ違いできるところまで戻る」
「それだけですか」
「それだけ」
七尾さんはハンドルを握りながら、どこか機嫌が良さそうだった。道路の両側に白い霜が降りていた。空は低く、灰色がかった青だった。
十五分ほど走ると、駐車場があった。七尾さんが車を止めた。
「ここから歩く」
外に出ると、風があった。
海からの風で、頬に当たり続けると冷たさが染みてくる。中標津の冬の空気とも、長野の山の空気とも違う。塩の匂いがした。
遊歩道を歩き始めた。木道が整備されていて、その両側にナラワラが広がっていた。ミズナラの枯れた林だ。かつては生きた木だったが、地盤沈下で海水が入り込んで、木が立ったまま枯れてしまった。枝だけが空に向かって伸びていて、葉が一枚もない。白く漂白されたような幹が、どこまでも続いている。
静かだった。ただ、静かだった。枯れた木が風の中で少しだけ揺れていて、その音がかすかに聞こえた。
「すごいですね」
「でしょ」
七尾さんはそれだけ言って、また黙った。私も黙った。あーちゃんはヘッドフォンを外して、ナラワラをじっと見ていた。スケッチブックは持っていなかったが、目が描いているような顔をしていた。
木道を少し進んだところで、湾の方から声がした。
「いるいる」
七尾さんが立ち止まって、湾の岸を指さした。
いた。
岸に、灰色の塊が何十頭も折り重なるようにいた。遠目にも、それがアザラシだとわかった。ぬいぐるみみたいに丸くて、ひれを持ち上げたり、のっそり動いたりしている。声も聞こえた。ぐうぐうと、低い鳴き声が風に乗ってきた。
「うわあ」と私は言った。
あーちゃんが、すごい速さでスマホのカメラを出した。無言のまま、ひたすら撮っている。
「あんなにいるんですね」
「大群って言ってたからね。こんなに来るのは珍しいよ」七尾さんは言った。「三上さんが漁にならなかったって言うわけだ」
アザラシたちは、こちらを気にしていないようだった。岸で思い思いに寝そべって、時々身体を動かして、また止まる。遠くのものが寝返りを打つと、周りのものがわずかにずれた。それだけのことが、なんとなくおかしかった。
あーちゃんがスマホを構えたまま、ほんの少しだけ笑っていた。
私はそれを横目で見て、貴重な場面として胸にしまっておこうと思った。あーちゃんが笑うのを、まだ数えるほどしか見ていない。
「あーちゃん、良かったね」と七尾さんが言った。
あーちゃんは返事をしなかった。でも、カメラを向けたまま小さく頷いた。
木道の終わりまで歩いて、来た道を戻った。
帰り際、七尾さんが大きなナラの木の前で立ち止まった。幹が太く、枝が複雑に絡み合っているナラだ。しばらくじっと見ていた。何を見ているのか、聞かなかった。聞かなくていいと思った。
風が来て、枯れ枝がかすかに鳴った。
駐車場に戻ると、魔法瓶の珈琲を出した。三人で飲んだ。温かかった。
「来てよかった?」
七尾さんが聞いた。私に、というより、三人に向けて。
「来てよかったです」と私は言った。
あーちゃんはスマホの画面を見ながら、また小さく頷いた。
七尾さんは頷いて、エンジンをかけた。
帰り道は、来た道を戻るだけだった。
空がだいぶ低くなっていた。牧草地が橙色に染まって、防風林の影が長く伸びた。七尾さんはカーステレオをつけた。低い音量で、ヨルシカが流れ始めた。
「野付半島って、いつかなくなるんですか」
「砂の塊だからね。少しずつ削られていくんだよ。百年後にはもっと細くなってるかもしれない」
「それなら、また来ればいいですね。なくなる前に」
「そうだね」と七尾さんは言った。「また来よう」
後ろを見ると、あーちゃんはブランケットにくるまって、撮ってきた写真を一枚ずつ確認していた。画面を見つめる目が、少し優しかった。
中標津に戻ったのは、夕方だった。
工房に入ると、ストーブがまだ温かかった。出かける前につけておいた火が、ちょうど良い具合に残っていた。
「ホッケ、どうしますか」
「塩焼きにしよう。あーちゃん、食べてく?」
あーちゃんはヘッドフォンを首に下げたまま、少し考えて、頷いた。
「じゃあ、三人で食べよう」
七尾さんがキッチンに向かった。私はコートを脱いで、作業台の前の椅子に座った。カンナがどこからか出てきて、足に体を押しつけた。
あーちゃんが作業台にスマホを置いて、静かに自分の彫刻道具を取り出した。今日の収穫を確かめながら、もう次の作業に入っている。
「あーちゃん、今日の写真、見せてよ」
あーちゃんはスマホを手に取って、こちらに差し出してきた。画面には、アザラシが折り重なった岸の写真が映っていた。遠目でもわかるほど、たくさんのアザラシ。
「いっぱい撮れましたね」
あーちゃんは頷いた。
キッチンの方から、ホッケを焼く匂いが流れてきた。外で風が鳴った。ストーブが低い音を立てていた。
今日のことを、私はしばらく考えていた。三上さんのとっかりの話から始まって、あーちゃんのスマホ、白いビートル、ナラワラ、アザラシの大群、帰り道のヨルシカ。全部がひとつながりになって、今日という日になった。
計画していたわけじゃない。でも、こういう日が一番よく覚えていられる気がした。
「できたよ」と七尾さんが言った。
ホッケの塩焼きが、三枚並んでいた。
私たちは三人で、工房のテーブルを囲んだ。あーちゃんがヘッドフォンを完全に外した。それだけで、今日という日が少し特別だった。
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七尾工房のストーブを温めて、また次の夜にお待ちしています。




