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七尾工房、本日も開店休業中。  作者: 七尾 拓哉


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16/20

第16話 鑿の音、火花のあと

長野から戻ってから、最初の一週間は静かに過ぎた。


 棚の製作の続きがあった。旭川の立花さんへの見積もり返信があった。あーちゃんが旅館のバイトから戻ってきて、土産話もなく当然のように作業台の前に座った。工房はいつも通りの、開店休業中の日常に戻った。


 私がホワイトアッシュの端材と格闘し始めたのは、その週の半ばのことだった。


 端材といっても、立派なものだ。二十センチ四方ほどの板が三枚ある。これを使って、小さな棚板トレイを一枚仕上げるのが今週の自主課題だった。あーちゃんがよく製作しているトレイを真似して自分でも作ってみたくなったのだ。


 問題は、鑿だった。


 溝を掘る作業がうまくいかない。刃が木に食い込む感触が、どこかぼんやりしている。力を入れると木がめくれる。かといって慎重すぎると、全然進まない。昨日も同じ場所で同じように詰まって、結局その日は終わりにした。


 今日も同じだった。鑿を当てて、少し押して、止まる。また当てて、押して、止まる。


「鑿、貸して」


 声がしたのは、夕方だった。


 顔を上げると、七尾さんが作業台の横に立っていた。こちらの手元を見ていた。いつから見ていたのか、わからなかった。


「あ、はい」


 私が鑿を渡すと、七尾さんは何も言わずにキッチンに向かい、砥石を出してきた。引き出しの奥から取り出した砥石は、使い込まれて私が使っているものより一回りくらい小さい。水をかけて、鑿の刃を当てる。


 研ぎ始めた。


 七尾さんの手の動きは、見たことのないリズムだった。速くも遅くもない。力が入っているのかどうかも、外からはよくわからない。ただ、刃と砥石の間から出てくる灰色の研ぎ汁が、一定のペースで滲んでいた。


 しばらくして、七尾さんが刃を光に透かして確認した。また少し研ぐ。確認する。それを何度か繰り返してから、タオルで丁寧に拭いた。


「いかがでしょう」と、わざとらしく畏まった声で言って、鑿を返してきた。


 私は昨日から苦労していた場所に刃を当てた。押した。


 すっ、と入った。


 音が違った。昨日までのぼんやりした感触ではなく、木に刃が入っていく、はっきりとした手応えがあった。


「……」


「道具のせいにしてたでしょ」


 七尾さんが言った。責めているわけではなく、ただ確認するように。


「してました」


「みんなそうだよ、最初は。次の段階に来た、ってことだ」


 それだけだった。七尾さんはそのまま自分の作業台に戻っていった。


   


 その夜、私はキッチンに残って研いでいた。


 あーちゃんはとっくに帰っていた。七尾さんはソファでベースを弾いている。こちらを見て、少し笑っていた。


 砥石を出した。七尾さんが昼間使っていたものと同じものだ。水をかけて、鑿の刃を当てた。


 七尾さんのリズムを思い出しながら動かしてみる。でも、再現できない。速さも圧力も、なんとなくそれらしくやってはいるが、本当に正しいのかがわからない。研ぎ汁は出てくるが、昼間七尾さんが出していたものと同じかどうか、判断できない。


 うまくいっているのかどうか、わからないまま、それでもやめられなかった。


 砥石の上で鑿が動く音が、工房の中に小さく響いていた。


「研ぎを真剣にやり始めると、指紋なくなるんだよね。それが痛くて痛くてさ。ギター弾けなくなるんだよ」



「七尾さんはどれくらい時間かかったんですか」


「今でも俺も出来てないよ。慌てることない、ゆっくりでいいんだ」

   


 翌朝、七尾さんが私の砥石を見た。


 作業を始めようとして砥石を出したら、「ちょっと」と声がかかった。七尾さんが砥石の表面を指でなぞる。


「筋がついてる」


「はい」


「角度がずれてる。こっちが立ちすぎ」


 七尾さんが私の手を取った。鑿を持たせたまま、砥石に当てる角度を、外から少し修正する。ほんの数ミリの差だった。でも、確かに違う角度だった。


「これで動かしてみて」


 言われた角度で動かすと、手応えが変わった。砥石と刃が、均一に触れている感覚がある。昨夜は、この感覚がなかった。


「わかった?」


「ちょっとわかった気がします」


「この角度を体に覚えさせるんよ」


「わかりました」


 七尾さんは頷いて、自分の作業に戻った。


 私は同じ角度を保ちながら、鑿を動かし続けた。昨日と今日で、何かが変わった。でも何が変わったのかを言葉にしようとすると、するりと逃げていく。


   


 夕方、ストーブの前で珈琲を飲んでいたとき、又吉直樹の『火花』のことを思い出した。


 先週、七尾さんから渡された本だ。「なにか次のおすすめありますか」と聞いたら、棚をしばらく眺めてから「これ、どうぞ」と差し出してきた。「面白いですか」と聞いたら「読んだらわかる」とだけ言って、そのまま作業に戻っていった。


 師匠の神谷が弟子の徳永に「俺の真似をしたらあかん」と言う場面がある。でも神谷は、言葉で教えることを拒否しながら、それでも全身で何かを渡そうとしている。


 七尾さんも、そういう人だ、と思った。


 「言葉にすると嘘になる」とは言わない。「俺の真似をするな」とも言わない。ただ、やって見せる。昨夜、私が何時間も砥石と格闘していたことを、七尾さんは知っている。でも今朝、それについては何も言わなかった。ただ「筋がついてる」と言って、角度を直してくれた。


 それが七尾さんの教え方なのかもしれない。あるいは、教えているつもりすらないのかもしれない。七尾さんのことは、まだよくわからないことが多い。


 珈琲が冷めていた。


   


 週の終わりに、七尾さんから声がかかった。


「アユムさん、鑿、見せて」


 作業台の上に置いてあった鑿を渡すと、七尾さんは刃を光に透かした。昼間、自分の鑿を確認するときと同じ仕草だった。


 しばらく見てから、「悪くない」と言った。


 私は鑿を受け取りながら、長野で「届いたね」と七尾さんが言ったときのことを思い出した。あのときの短さと、今の「悪くない」の短さが、似ていると思った。


 七尾さんにとって、短い言葉が重い言葉なのだと、少しずつわかってきた気がした。


「アユムさんってさ、人の鑿使ったことある?」


「ないです」


「だよね。普通は人の道具は使っちゃダメなんだけど……ちょっと俺の鑿使ってみてよ」


「え、いいんですか」


 七尾さんの鑿を受け取って、同じ場所に当ててみた。木への入り方が、自分のものと違った。柔らかく、それでいてはっきりと刃が通る感じがした。


「違うでしょ?あ、あーちゃん、ごめん。ちょっと鑿貸して?」


 あーちゃんが無言で鑿を渡してきた。


 あーちゃんの鑿は、また違った。しっとりと吸い付くような切れ味だった。


「あーちゃんも研ぎは相当上手いよ。これはね、自分の削り方や切り方のスタイルの違いで、研ぎの仕上げ方が違うからなんだ。自分の基準を見つけると研ぎも上手くなるよ」


 七尾さんは鑿をあーちゃんに「ありがと」と返して、また自分の作業に戻っていった。


 あーちゃんが熊を彫る音が、工房の奥から聞こえていた。カンナがストーブの前で丸くなっていた。外では、中標津の十二月の風が、防風林を揺らしていた。


 私は砥石を引き出しに戻して、ホワイトアッシュの続きに取りかかった。


 鑿が、昨日よりよく切れた。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。


もしこのお話が、あなたの心にほんの少しでも「正しい重心」で響いたなら、

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この物語を一緒に削り出していただけると嬉しいです。


七尾工房のストーブを温めて、また次の夜にお待ちしています。

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