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七尾工房、本日も開店休業中。  作者: 七尾 拓哉


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15/20

第15話 長野、カラフルな遠回り

翌朝、長坂さんから預かったコンパクトカーで、私たちは諏訪湖畔のホテルを出発した。


 目的地は、ビーナスライン。七尾さんが昨夜から何度も「別格なんだよ」と言っていた、霧ヶ峰から白樺湖を結ぶ高原のドライブコースだ。


「社長は、もう大丈夫なんですか」


 私が助手席で聞くと、七尾さんはハンドルを握りながら頷いた。


「長坂さんから今朝連絡来てた。昨夜から血圧が安定して、今朝は少し会話もできたって。俺たちのことも、ちゃんとわかってるって」


「それは良かった」


「うん。だから、今日は少し気楽に行こうって思って」


 七尾さんはそう言って、ちらりとこちらを見た。


「アユムさん、長野、どうだった」


「どう、というと」


「初めて来た長野。昨日の社長のこととか、九鬼楽器のこととか、全部含めて」


 私は少し考えてから、「思ったより、遠いところじゃなかったです」と答えた。


「遠い?」


「七尾さんの話に出てくる長野って、すごく遠い場所のイメージがあって。中標津から遠いというより、時間的に遠い場所というか。でも来てみたら、ちゃんとここにあった」


 七尾さんはしばらく黙ってから、「そうだね」と言った。


「俺にとっても、そうかもしれない。来てみたら、ちゃんとここにあった」


 坂道を上るにつれて、街の建物が消えていった。山と空だけになった。



 ビーナスラインに入ると、景色が変わった。


 冬の始まりの冷たい風がアルプスの山々を白く浮き立たせ、遮るもののない大空の下、うねるようなワインディングロードがどこまでも続いている。中標津の根釧台地も広いが、ここは広さの質が違った。水平ではなく、垂直に広い。空が近かった。


「最高ですね……」


「でしょ?」七尾さんは嬉しそうに言った。「もうちょい冬になるとさ、この道が真っ白になって、それはそれで別の最高さがあるんだよ。スノボで来てたのが懐かしいわ」


「スノボ、できるんですか」


「できるよ。こっちにいた頃は、白樺湖のスキー場にシーズン券買って毎日通ってた。由紀さんっていう車友達がいてさ、運転めちゃくちゃ上手い子で、いろんな雪山に連れて行ってもらってたんだよ」


「由紀さん」


「ホントにただの車好きの友達だったんだけどね。お互いその頃オープンカーに乗ってて、あちこちイベントや走行会に行ってたんだ」


「そんな趣味もあったんですね、意外でした」


「その頃乗ってた俺の車、社長がまだ乗ってるんだよ」


「そうなんですか」


「ホントは乗りたかったけど、それは社長が元気になってからだね」


 七尾さんはそう言って、カーステレオのボリュームを少し上げた。古いフォークソングが流れ始めた。長野の山の空気と、不思議と合っていた。



 ビーナスラインの頂上付近で、七尾さんが車を止めた。


 外に出ると、風が強かった。でも七尾さんが言った通り、中標津の風とは違う冷たさだった。山の冷たさ。岩の匂いがした。


 遠くに八ヶ岳の山々が白く連なっていた。その手前に、諏訪湖が小さく光っていた。昨夜、湖畔を歩いた場所が、あそこにある。


「さむいねえ」と七尾さんが言った。


「中標津の方がもっと寒いですよ」


「そうだけど、中標津の寒さは慣れてるから。ここの寒さは久しぶりで、また違う感じがする」


 七尾さんはそう言って、もう少し風の中に立っていた。私もその横に立った。寒かったが、悪くなかった。


「アユムさんはさ、中標津、長く住むつもり?」


 突然の問いに、私は少し面食らった。


「急ですね」


「なんとなく聞きたくなって」


 私は少し考えた。来たばかりの頃は、ここが「仮の場所」だという感覚がどこかにあった。でも今は、少し違う。何が変わったのかは、うまく言葉にできない。


「今は、考えてないです。考えなくてもいいかな、と思って」


「ふうん」七尾さんは頷いた。「それでいいんじゃないかな」


「七尾さんは最初から、長くいるつもりでしたか」


「全然。長くいるつもりで行った場所って、俺の場合、大体すぐ出てくるんだよね。逆に、とりあえず、ってところに長くいる」


「中標津がそれですか」


「そう。とりあえず行ってみたら、そのままになった」


 七尾さんはそう言って、また諏訪湖の方を見た。ここからはもう、病院のある場所は見えない。でも七尾さんは、そちらの方角を見ていた。


 しばらく、二人で黙って風の中に立っていた。


「遠回りしてた時間も、悪くないなって思う日があるんだよ」


 七尾さんが、独り言のように言った。諏訪湖の方を向いたまま、静かに。


 私は何も言わなかった。でも、そうだと思った。


「帰ろうか。腹も減ったし」


「ラーメンですか」


「そう」七尾さんは即答した。「長野のラーメンは種類が豊富なんだよ。博多系も、魚介系も、味噌も、全部レベルが高い」


「一軒でいいですよ」


「まあまあ、そう言わず」



 山を降りてからの七尾さんは、完全に「ラーメン案内人」と化していた。


 まず連れて行かれたのは、諏訪にある博多ラーメンの店だった。信州の山奥で食べる、濃厚でガツンとくる豚骨スープと極細麺の旨さに、私は一口で驚いた。


「美味いでしょう? じゃあ、次はつけ麺ね」


「えっ、はしごですか?」


「うん」


 次の店は、店主がミスターチルドレンを好きだというつけ麺の店だった。店内にミスチルが流れる中、濃厚な魚介豚骨のつけ麺をすする。麺が太くて、スープがよく絡んだ。


「美味いですね、これ」


「でしょ? まだ行けるよ」


「もういいです」


「まだ行ける。最後に土鍋の味噌ラーメンだけ」


「…一口だけですよ」


 さらにその夕方には、土鍋でスープを焼き上げる味噌ラーメンの店へもはしごし、熱々の焼き味噌の香ばしさに、私たちは揃って汗をダラダラと流した。


「もう……一歩も動けません……」


「満腹だねえ。でも、これが長野での仕事の流儀だったからね。伊吹と源蔵社長と三人で、喧嘩した後は必ず何か食いに行ってたよ」


「喧嘩の後に食べに行くんですか」


「うん。食わないと仕事できないって、社長がいつも言うから。喧嘩してても、腹が減ったら食べる。それだけ」


「シンプルですね」


「社長は、難しいことを難しく言わない人だからね。そのくせ、耳だけは絶対に誤魔化せない。変な人だよ」


 七尾さんはお茶を飲みながら、窓の外の長野の夕暮れを見た。


「また絶対に来るよ、社長が替え玉できるくらい元気になったら」


「代わりに私が三軒分食べてきましたけど」


「それはカウントしないね」



 特急あずさに揺られて数時間、夜の帳が降りた新宿駅の雑踏へ降り立つと、私たちはそのまま山手線に乗り換えた。


 当初の予定では、今日中に中標津へ帰るはずだった。


 が、七尾さんがどうしても、原宿に新しく出来たギターショップに行きたいと駄々を捏ね出したのだ。長坂さんは東京の楽器店にも顔が利く。お願いして、明日、お店がオープンする前に入れてもらえることになったのだ。すると、「じゃあ、大塚のカプセルホテルに泊まろう!入ってみたいサウナがあるんだ」と、はしゃいでいる。


 あまり七尾さんを甘やかさないでほしいと思いながら、長坂さんに感謝した。


 山手線が大塚に向かう電車の中で、ホテルの予約を済ませた頃、七尾さんがふと言った。


「目白、降りようか」


「いいですよ」


 目白駅の改札を出て、目白通りの緩やかな坂道を歩く。夜の空気は、東京特有の、どこか湿った温かさがあった。十二月なのに、中標津と比べると別の季節のようだった。


「懐かしいなぁ。俺、この先にあるギター製作の専門学校に二年間通ってたんだよ。毎日木を削る基礎をそこで教わってさ、夜は池袋のアパートに帰って、ダーツバーでバイトしてたんだわ」


「私がすり減りながら広告のコピーを書いていたマンション、まさにその通りのすぐ裏手ですよ」


 私は、街灯に照らされた目白の静かな路地裏を見つめた。


 この街で、私は毎日徹夜していた。締め切りに追われて、自分が何のためにコピーを書いているのかわからなくなっていた。


 坂道を少し歩いてから、七尾さんが立ち止まった。


「ここ」と七尾さんが指さした。「この角のビルに、俺が通ってた専門学校が入ってたんだよ。今は別の会社になってるけど」


 角のビルは、外観の古いテナントビルだった。一階にコンビニが入っていた。看板を見ても、木工とも楽器とも関係のない名前だった。


「ここで、木を削る練習を毎日やってたんですか」


「そう。ここの実習室が三階にあって、夜中まで残ってやってた」


 私はビルを見上げた。普通のビルだった。でも七尾さんの言葉を聞くと、三階の窓の向こうに木屑が見えるような気がした。夜中まで残って木を削っている、若い七尾さんが見えるような気がした。


「行ってみますか、中」


「もう別の会社だから無理だよ。でもいいんだ、外から見るだけで十分」


 七尾さんはビルを一度だけ見上げて、それから歩き始めた。


 池袋の駅前へ出ると、人が多かった。電光掲示板が光って、タクシーが列を作っていた。中標津とも、諏訪とも、全然違う場所だった。


「俺がバイトしてたダーツバー、まだあるかな」


「探しますか」


「うーん、夜遅いしね。また今度でいいや」


 七尾さんはそう言って、駅の方へ歩き始めた。フライトケースを引きながら、人混みの中を歩く。昨日の新宿駅では迷子になっていたのに、池袋は慣れた足取りだった。


「ここは、迷わないんですね」


「さすがに二年間住んでたから。池袋は得意だ。けっこうお店とかは変わっちゃってるけどね」


 駅前の広場に出ると、七尾さんが立ち止まった。


「アユムさん、ここで中標津のこと、考えたことある?」


「中標津のことを、ここで?」


「うん。東京にいたとき、こういう場所で、自分がいつか行く場所のことを考えたことあった?」


 私は少し考えた。正直なところ、当時は中標津のことなど一度も考えたことがなかった。七尾工房を知ったのは、偶然見たSNSの動画だった。あの動画を見たとき、私は深夜の会社で、誰かのために書いたコピーの最終確認をしていた。


「なかったです。まったく」


「そっか」七尾さんは笑った。「俺も、長野にいたとき、中標津なんてどこにあるのか、そもそも『なかひょうつ』だと思ってた。でも、なんか行き着いたんだよね、あそこに」


 七尾さんはフライトケースのハンドルを握り直した。


「遠回りって、無駄に思えるんだけど、遠回りしてるうちに覚えることとか、会う人とかがあって。それが全部つながって、今の自分になってるんだよね。だから遠回りって、実は近道なのかもしれないよ」


 私はその言葉を、頭の中で繰り返した。


 東京で徹夜していた頃の私は、遠回りをしているとは思っていなかった。ただしんどかった。でも今から見れば、あの時間があって、中標津に行くことができた。旭川での修行も、あーちゃんの展示会も、今回の長野の旅も、全部が繋がっている。


「七尾さんも遠回りしてきたんですね」


「俺は遠回り極めてるからね」七尾さんは笑った。「池袋から長野行って、中標津行って、東京に戻ってきて、また中標津に帰る。何キロ遠回りしてるんだか」


「でも、届きましたよ。伊吹さんのギターが、社長に」


「届いたね」


 七尾さんは、また短く答えた。夜の池袋の喧騒の中、その言葉は静かに落ちた。


 私たちはしばらく、その場に立っていた。フライトケースを持つ七尾さんと、その隣に立つ私。東京の夜の光を浴びながら、明日の帰り路を、静かに確かめていた。



 大塚のカプセルホテルでサウナを堪能し、近くの居酒屋で軽く食事をし、早めに休んだ。


 翌朝、七尾さんを叩き起こして、九時に原宿のギターショップへ向かった。


 ショップは、三階建てのビルを丸ごと使っていた。地下にはギターをモチーフにしたカフェがあり、一階と二階にはギターとベースが壁一面に並んでいて、どれでも自由に試奏できるようになっている。三階は別格で、特注品や限定モデルがずらりと展示されていた。値札を見ると、一本一本に百万円以上の数字が並んでいた。


 七尾さんは一階に入った瞬間から目が輝いていた。ストラトキャスターを手に取り、テレキャスターを鳴らし、ジャズベースを試奏しながら、スタッフの人と熱心に話し込んでいる。スタッフの方々も七尾さんのギターを試奏して驚いているようだった。私はカフェで珈琲を飲みながら、ガラス越しにその様子を眺めていた。ここは七尾さんの場所だ、と思った。私が入っていける空気ではなかった。


 一時間ほどでお店をあとにし、羽田空港から中標津へのフライトに乗った。


 飛行機が雲を抜けると、窓の外に北海道の大地が広がり始めた。根釧台地の枯れた牧草地が、どこまでも続いている。東京や長野の山とも違う、水平の広さだった。


 この景色を、初めて見たときのことを思い出した。あの頃は東京から逃げてきた、ということしかなかった。でも今は違う感じがする。帰ってきている、という感じがする。


「見えてきたね、中標津」


 七尾さんが窓を覗き込んで言った。


「あーちゃん、今頃工房にいるのかな」


「今日は旅館のバイトがあるって言ってましたよ」


「そっか。じゃあ夕方かな。お土産、ちゃんと買ってきたよ。和菓子」


「良かったです」


 飛行機が高度を下げながら、中標津空港へ向かっていく。窓の外の景色が大きくなる。防風林が見えてきた。


 あの防風林の向こうに、工房がある。ナラ材とチェリー材の看板が並んで、今頃、冬の風に吹かれているはずだ。ストーブに火が入っているかもしれない。カンナが丸くなって眠っているかもしれない。


「着いたら、まず棚作りの続きだね」


「はい。あと旭川の立花さんから見積もりの確認が来てました」


「あ、そうだった。帰ったらすぐやらないとね」


 七尾さんはそう言って、シートに深く体を沈めた。目を閉じた。眉間の皺はなかった。


 飛行機がゆっくりと降下を続ける。エンジンの音が変わった。着陸態勢に入った合図だった。


 中標津が、近づいてくる。


 遠回りしながら、それでも止まらずに歩いてきた場所へ、私たちは戻っていく。届いた、と思った。伊吹さんのギターが、源蔵社長の耳に。


 タイヤが滑走路に触れた。振動が体に伝わった。窓の外を、中標津の風景が流れていく。


「ただいま、中標津」


 七尾さんが目を開けないまま、ぽつりと言った。


 私は窓の外を見たまま、小さく頷いた。


 おかえり、と誰かに言われているような気がした。工房の、あの白いソファが、待っているような気がした。


 そして、ビーナスラインで七尾さんが言っていた言葉が、不意に胸に戻ってきた。


 遠回りしてた時間も、悪くないなって思う日があるんだよ——。


 そうだと思った。


 遠回りでよかった。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。


もしこのお話が、あなたの心にほんの少しでも「正しい重心」で響いたなら、

下の【ハート(いいね)】や【フォロー】、【⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎】という名の小さなノミを入れて、

この物語を一緒に削り出していただけると嬉しいです。


七尾工房のストーブを温めて、また次の夜にお待ちしています。

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