第15話 長野、カラフルな遠回り
翌朝、長坂さんから預かったコンパクトカーで、私たちは諏訪湖畔のホテルを出発した。
目的地は、ビーナスライン。七尾さんが昨夜から何度も「別格なんだよ」と言っていた、霧ヶ峰から白樺湖を結ぶ高原のドライブコースだ。
「社長は、もう大丈夫なんですか」
私が助手席で聞くと、七尾さんはハンドルを握りながら頷いた。
「長坂さんから今朝連絡来てた。昨夜から血圧が安定して、今朝は少し会話もできたって。俺たちのことも、ちゃんとわかってるって」
「それは良かった」
「うん。だから、今日は少し気楽に行こうって思って」
七尾さんはそう言って、ちらりとこちらを見た。
「アユムさん、長野、どうだった」
「どう、というと」
「初めて来た長野。昨日の社長のこととか、九鬼楽器のこととか、全部含めて」
私は少し考えてから、「思ったより、遠いところじゃなかったです」と答えた。
「遠い?」
「七尾さんの話に出てくる長野って、すごく遠い場所のイメージがあって。中標津から遠いというより、時間的に遠い場所というか。でも来てみたら、ちゃんとここにあった」
七尾さんはしばらく黙ってから、「そうだね」と言った。
「俺にとっても、そうかもしれない。来てみたら、ちゃんとここにあった」
坂道を上るにつれて、街の建物が消えていった。山と空だけになった。
ビーナスラインに入ると、景色が変わった。
冬の始まりの冷たい風がアルプスの山々を白く浮き立たせ、遮るもののない大空の下、うねるようなワインディングロードがどこまでも続いている。中標津の根釧台地も広いが、ここは広さの質が違った。水平ではなく、垂直に広い。空が近かった。
「最高ですね……」
「でしょ?」七尾さんは嬉しそうに言った。「もうちょい冬になるとさ、この道が真っ白になって、それはそれで別の最高さがあるんだよ。スノボで来てたのが懐かしいわ」
「スノボ、できるんですか」
「できるよ。こっちにいた頃は、白樺湖のスキー場にシーズン券買って毎日通ってた。由紀さんっていう車友達がいてさ、運転めちゃくちゃ上手い子で、いろんな雪山に連れて行ってもらってたんだよ」
「由紀さん」
「ホントにただの車好きの友達だったんだけどね。お互いその頃オープンカーに乗ってて、あちこちイベントや走行会に行ってたんだ」
「そんな趣味もあったんですね、意外でした」
「その頃乗ってた俺の車、社長がまだ乗ってるんだよ」
「そうなんですか」
「ホントは乗りたかったけど、それは社長が元気になってからだね」
七尾さんはそう言って、カーステレオのボリュームを少し上げた。古いフォークソングが流れ始めた。長野の山の空気と、不思議と合っていた。
ビーナスラインの頂上付近で、七尾さんが車を止めた。
外に出ると、風が強かった。でも七尾さんが言った通り、中標津の風とは違う冷たさだった。山の冷たさ。岩の匂いがした。
遠くに八ヶ岳の山々が白く連なっていた。その手前に、諏訪湖が小さく光っていた。昨夜、湖畔を歩いた場所が、あそこにある。
「さむいねえ」と七尾さんが言った。
「中標津の方がもっと寒いですよ」
「そうだけど、中標津の寒さは慣れてるから。ここの寒さは久しぶりで、また違う感じがする」
七尾さんはそう言って、もう少し風の中に立っていた。私もその横に立った。寒かったが、悪くなかった。
「アユムさんはさ、中標津、長く住むつもり?」
突然の問いに、私は少し面食らった。
「急ですね」
「なんとなく聞きたくなって」
私は少し考えた。来たばかりの頃は、ここが「仮の場所」だという感覚がどこかにあった。でも今は、少し違う。何が変わったのかは、うまく言葉にできない。
「今は、考えてないです。考えなくてもいいかな、と思って」
「ふうん」七尾さんは頷いた。「それでいいんじゃないかな」
「七尾さんは最初から、長くいるつもりでしたか」
「全然。長くいるつもりで行った場所って、俺の場合、大体すぐ出てくるんだよね。逆に、とりあえず、ってところに長くいる」
「中標津がそれですか」
「そう。とりあえず行ってみたら、そのままになった」
七尾さんはそう言って、また諏訪湖の方を見た。ここからはもう、病院のある場所は見えない。でも七尾さんは、そちらの方角を見ていた。
しばらく、二人で黙って風の中に立っていた。
「遠回りしてた時間も、悪くないなって思う日があるんだよ」
七尾さんが、独り言のように言った。諏訪湖の方を向いたまま、静かに。
私は何も言わなかった。でも、そうだと思った。
「帰ろうか。腹も減ったし」
「ラーメンですか」
「そう」七尾さんは即答した。「長野のラーメンは種類が豊富なんだよ。博多系も、魚介系も、味噌も、全部レベルが高い」
「一軒でいいですよ」
「まあまあ、そう言わず」
山を降りてからの七尾さんは、完全に「ラーメン案内人」と化していた。
まず連れて行かれたのは、諏訪にある博多ラーメンの店だった。信州の山奥で食べる、濃厚でガツンとくる豚骨スープと極細麺の旨さに、私は一口で驚いた。
「美味いでしょう? じゃあ、次はつけ麺ね」
「えっ、はしごですか?」
「うん」
次の店は、店主がミスターチルドレンを好きだというつけ麺の店だった。店内にミスチルが流れる中、濃厚な魚介豚骨のつけ麺をすする。麺が太くて、スープがよく絡んだ。
「美味いですね、これ」
「でしょ? まだ行けるよ」
「もういいです」
「まだ行ける。最後に土鍋の味噌ラーメンだけ」
「…一口だけですよ」
さらにその夕方には、土鍋でスープを焼き上げる味噌ラーメンの店へもはしごし、熱々の焼き味噌の香ばしさに、私たちは揃って汗をダラダラと流した。
「もう……一歩も動けません……」
「満腹だねえ。でも、これが長野での仕事の流儀だったからね。伊吹と源蔵社長と三人で、喧嘩した後は必ず何か食いに行ってたよ」
「喧嘩の後に食べに行くんですか」
「うん。食わないと仕事できないって、社長がいつも言うから。喧嘩してても、腹が減ったら食べる。それだけ」
「シンプルですね」
「社長は、難しいことを難しく言わない人だからね。そのくせ、耳だけは絶対に誤魔化せない。変な人だよ」
七尾さんはお茶を飲みながら、窓の外の長野の夕暮れを見た。
「また絶対に来るよ、社長が替え玉できるくらい元気になったら」
「代わりに私が三軒分食べてきましたけど」
「それはカウントしないね」
特急あずさに揺られて数時間、夜の帳が降りた新宿駅の雑踏へ降り立つと、私たちはそのまま山手線に乗り換えた。
当初の予定では、今日中に中標津へ帰るはずだった。
が、七尾さんがどうしても、原宿に新しく出来たギターショップに行きたいと駄々を捏ね出したのだ。長坂さんは東京の楽器店にも顔が利く。お願いして、明日、お店がオープンする前に入れてもらえることになったのだ。すると、「じゃあ、大塚のカプセルホテルに泊まろう!入ってみたいサウナがあるんだ」と、はしゃいでいる。
あまり七尾さんを甘やかさないでほしいと思いながら、長坂さんに感謝した。
山手線が大塚に向かう電車の中で、ホテルの予約を済ませた頃、七尾さんがふと言った。
「目白、降りようか」
「いいですよ」
目白駅の改札を出て、目白通りの緩やかな坂道を歩く。夜の空気は、東京特有の、どこか湿った温かさがあった。十二月なのに、中標津と比べると別の季節のようだった。
「懐かしいなぁ。俺、この先にあるギター製作の専門学校に二年間通ってたんだよ。毎日木を削る基礎をそこで教わってさ、夜は池袋のアパートに帰って、ダーツバーでバイトしてたんだわ」
「私がすり減りながら広告のコピーを書いていたマンション、まさにその通りのすぐ裏手ですよ」
私は、街灯に照らされた目白の静かな路地裏を見つめた。
この街で、私は毎日徹夜していた。締め切りに追われて、自分が何のためにコピーを書いているのかわからなくなっていた。
坂道を少し歩いてから、七尾さんが立ち止まった。
「ここ」と七尾さんが指さした。「この角のビルに、俺が通ってた専門学校が入ってたんだよ。今は別の会社になってるけど」
角のビルは、外観の古いテナントビルだった。一階にコンビニが入っていた。看板を見ても、木工とも楽器とも関係のない名前だった。
「ここで、木を削る練習を毎日やってたんですか」
「そう。ここの実習室が三階にあって、夜中まで残ってやってた」
私はビルを見上げた。普通のビルだった。でも七尾さんの言葉を聞くと、三階の窓の向こうに木屑が見えるような気がした。夜中まで残って木を削っている、若い七尾さんが見えるような気がした。
「行ってみますか、中」
「もう別の会社だから無理だよ。でもいいんだ、外から見るだけで十分」
七尾さんはビルを一度だけ見上げて、それから歩き始めた。
池袋の駅前へ出ると、人が多かった。電光掲示板が光って、タクシーが列を作っていた。中標津とも、諏訪とも、全然違う場所だった。
「俺がバイトしてたダーツバー、まだあるかな」
「探しますか」
「うーん、夜遅いしね。また今度でいいや」
七尾さんはそう言って、駅の方へ歩き始めた。フライトケースを引きながら、人混みの中を歩く。昨日の新宿駅では迷子になっていたのに、池袋は慣れた足取りだった。
「ここは、迷わないんですね」
「さすがに二年間住んでたから。池袋は得意だ。けっこうお店とかは変わっちゃってるけどね」
駅前の広場に出ると、七尾さんが立ち止まった。
「アユムさん、ここで中標津のこと、考えたことある?」
「中標津のことを、ここで?」
「うん。東京にいたとき、こういう場所で、自分がいつか行く場所のことを考えたことあった?」
私は少し考えた。正直なところ、当時は中標津のことなど一度も考えたことがなかった。七尾工房を知ったのは、偶然見たSNSの動画だった。あの動画を見たとき、私は深夜の会社で、誰かのために書いたコピーの最終確認をしていた。
「なかったです。まったく」
「そっか」七尾さんは笑った。「俺も、長野にいたとき、中標津なんてどこにあるのか、そもそも『なかひょうつ』だと思ってた。でも、なんか行き着いたんだよね、あそこに」
七尾さんはフライトケースのハンドルを握り直した。
「遠回りって、無駄に思えるんだけど、遠回りしてるうちに覚えることとか、会う人とかがあって。それが全部つながって、今の自分になってるんだよね。だから遠回りって、実は近道なのかもしれないよ」
私はその言葉を、頭の中で繰り返した。
東京で徹夜していた頃の私は、遠回りをしているとは思っていなかった。ただしんどかった。でも今から見れば、あの時間があって、中標津に行くことができた。旭川での修行も、あーちゃんの展示会も、今回の長野の旅も、全部が繋がっている。
「七尾さんも遠回りしてきたんですね」
「俺は遠回り極めてるからね」七尾さんは笑った。「池袋から長野行って、中標津行って、東京に戻ってきて、また中標津に帰る。何キロ遠回りしてるんだか」
「でも、届きましたよ。伊吹さんのギターが、社長に」
「届いたね」
七尾さんは、また短く答えた。夜の池袋の喧騒の中、その言葉は静かに落ちた。
私たちはしばらく、その場に立っていた。フライトケースを持つ七尾さんと、その隣に立つ私。東京の夜の光を浴びながら、明日の帰り路を、静かに確かめていた。
大塚のカプセルホテルでサウナを堪能し、近くの居酒屋で軽く食事をし、早めに休んだ。
翌朝、七尾さんを叩き起こして、九時に原宿のギターショップへ向かった。
ショップは、三階建てのビルを丸ごと使っていた。地下にはギターをモチーフにしたカフェがあり、一階と二階にはギターとベースが壁一面に並んでいて、どれでも自由に試奏できるようになっている。三階は別格で、特注品や限定モデルがずらりと展示されていた。値札を見ると、一本一本に百万円以上の数字が並んでいた。
七尾さんは一階に入った瞬間から目が輝いていた。ストラトキャスターを手に取り、テレキャスターを鳴らし、ジャズベースを試奏しながら、スタッフの人と熱心に話し込んでいる。スタッフの方々も七尾さんのギターを試奏して驚いているようだった。私はカフェで珈琲を飲みながら、ガラス越しにその様子を眺めていた。ここは七尾さんの場所だ、と思った。私が入っていける空気ではなかった。
一時間ほどでお店をあとにし、羽田空港から中標津へのフライトに乗った。
飛行機が雲を抜けると、窓の外に北海道の大地が広がり始めた。根釧台地の枯れた牧草地が、どこまでも続いている。東京や長野の山とも違う、水平の広さだった。
この景色を、初めて見たときのことを思い出した。あの頃は東京から逃げてきた、ということしかなかった。でも今は違う感じがする。帰ってきている、という感じがする。
「見えてきたね、中標津」
七尾さんが窓を覗き込んで言った。
「あーちゃん、今頃工房にいるのかな」
「今日は旅館のバイトがあるって言ってましたよ」
「そっか。じゃあ夕方かな。お土産、ちゃんと買ってきたよ。和菓子」
「良かったです」
飛行機が高度を下げながら、中標津空港へ向かっていく。窓の外の景色が大きくなる。防風林が見えてきた。
あの防風林の向こうに、工房がある。ナラ材とチェリー材の看板が並んで、今頃、冬の風に吹かれているはずだ。ストーブに火が入っているかもしれない。カンナが丸くなって眠っているかもしれない。
「着いたら、まず棚作りの続きだね」
「はい。あと旭川の立花さんから見積もりの確認が来てました」
「あ、そうだった。帰ったらすぐやらないとね」
七尾さんはそう言って、シートに深く体を沈めた。目を閉じた。眉間の皺はなかった。
飛行機がゆっくりと降下を続ける。エンジンの音が変わった。着陸態勢に入った合図だった。
中標津が、近づいてくる。
遠回りしながら、それでも止まらずに歩いてきた場所へ、私たちは戻っていく。届いた、と思った。伊吹さんのギターが、源蔵社長の耳に。
タイヤが滑走路に触れた。振動が体に伝わった。窓の外を、中標津の風景が流れていく。
「ただいま、中標津」
七尾さんが目を開けないまま、ぽつりと言った。
私は窓の外を見たまま、小さく頷いた。
おかえり、と誰かに言われているような気がした。工房の、あの白いソファが、待っているような気がした。
そして、ビーナスラインで七尾さんが言っていた言葉が、不意に胸に戻ってきた。
遠回りしてた時間も、悪くないなって思う日があるんだよ——。
そうだと思った。
遠回りでよかった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
もしこのお話が、あなたの心にほんの少しでも「正しい重心」で響いたなら、
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この物語を一緒に削り出していただけると嬉しいです。
七尾工房のストーブを温めて、また次の夜にお待ちしています。




