第14話 九鬼楽器の残照
音は、病室の空気を変えた。
無機質なアクリルの壁や、リノリウムの床に吸い込まれるはずの残響が、幾重にも重なり合いながら部屋の中を漂い続けた。七尾さんの指先が動き、ゆっくりとした、どこか哀愁を帯びたメロディを奏で始める。長坂さんから後で聞いた話では、それはかつて九鬼楽器の古い作業場で、伊吹さんが設計図を引きながら口ずさんでいたという、社長の好きな旋律だったという。
私は後ろで、息を止めていた。長坂さんも、その横でじっと立っていた。
七尾さんは一曲弾き終えると、少し間を置いて、また弾き始めた。同じ旋律ではなかった。今度は少し速く、少し明るい。でも根っこは同じ音だった。中標津の工房で私が聴いた音と、同じ芯を持っていた。
医療機器のモニターの心拍数が、一瞬だけ不規則に跳ね上がり、それから驚くほど深く安定したリズムへと落ち着いていった。
源蔵社長の目が、七尾さんを見ていた。混濁した瞳が、しかし確かに七尾さんの手元を追っていた。
「……ナナオか……」
マスクの隙間から、掠れた声が漏れた。
「ええ、ナナオです。社長、伊吹の設計図、形にして持ってきましたよ。聴いていてください」
七尾さんは顔を上げないまま、そう言った。弦から手を離さず、低く答えて、また弾き続けた。
源蔵社長の、深く刻まれた目尻の皺から、一筋の透明な涙が静かに溢れ落ちた。動かないはずの右手の指先が、七尾さんが刻むギターの残響に合わせて、ベッドのシーツの上でトントンと、小さく、けれど確かにリズムを刻んでいた。
「……曇りのない、いい音だ……。伊吹だ……そこに、いるな……」
社長の唇が、確かにそう動いた。
私は息ができなかった。長坂さんが隣で、静かに目元を拭っていた。
七尾さんは弾き続けた。止めなかった。十分以内という約束の時間の中で、ただ弾き続けた。最後の一音が、病院の静寂の中にしっとりと溶け込んでいく。
七尾さんはギターを抱えたまま、社長の手をそっと握りしめた。源蔵社長は、満足したように静かに目を閉じた。その表情には、ここ数日の死闘が嘘のような、深く平穏な凪が訪れていた。
担当の看護師が、モニターの数値を確認しながら、「ありがとうございました」と静かに言った。それが、退室の合図だった。
七尾さんはゆっくりと立ち上がり、ギターをケースに戻した。留め金をかけた。
パチン、パチン、パチン。
廊下へ出ると、病院の静かな空気が戻ってきた。七尾さんはフライトケースを持ったまま、しばらく歩かなかった。壁に手をついて、少しの間そこに立っていた。
「七尾さん」
私が声をかけると、七尾さんは振り返った。目が、少し赤かった。
「なんか、腹減ったね」
それだけ言って、また歩き始めた。
その一言が、七尾さんらしくて、私は少し笑った。笑ってから、少し胸が詰まった。
長坂さんが廊下の先で待っていた。七尾さんの顔を見て、何も聞かなかった。ただ、「お疲れ様でした」とだけ言った。それが正しかった。今はそれ以外の言葉は要らなかった。
エレベーターの前で、七尾さんが言った。
「長坂さん、社長に伝えといてよ。また弾きに来るって」
「はい」長坂さんは頷いた。「伝えます」
「次は、ちゃんと練習してくるから」
七尾さんはそう言って、長坂さんが小さく笑った。私も笑った。今日の音は十分だった。源蔵社長の指がリズムを刻んでいた。それだけで十分だった。でも七尾さんがそう言うなら、次もあるということだ。
病院を出たとき、諏訪の街を濡らしていた冷たい雨は、嘘のように上がり始めていた。
灰色の雲の切れ間から、冬の夕陽の光が差し込み、濡れたアスファルトを黄金色に照らしている。視界の開けた坂道から見下ろす諏訪湖の湖面は、青く、深く、静かに凪ぎ渡っていた。
「……よかった。本当に、よかった……」
ロータリーの端で、長坂さんが何度も深く頭を下げながら、涙を流していた。
「長坂さん、そんなに泣かないでよ。社長の容態もこれで安定したって先生も言ってたんだから」
七尾さんはそう言って、いつものちゃらんぽらんな笑顔を浮かべた。けれど、その指先がフライトケースのハンドルを、先ほどよりも柔らかく、リラックスした手つきで握っているのを私は見逃さなかった。
「先生から聞いたのですが」と、長坂さんが目元を拭いながら言った。
「社長の血圧が、面会の後から安定しているそうです。数値が正常値に近づいてきていると。担当の先生が、珍しいことだとおっしゃっていました」
「そりゃあよかった。伊吹も、ちゃんと届けてくれたんだろうね」
七尾さんは諏訪湖の方を見て、短くそう言った。
私は、フライトケースの表面に手を触れた。今この瞬間、ケースの中でギターは静かに眠っている。十年前、伊吹敦さんが設計図の上だけで描いた音が、今日ここで確かに鳴った。その事実が、じわじわと胸の中に広がっていった。
「少し時間、もらえますか」
七尾さんが、長坂さんに言った。
「行きたい場所があるんですよ。アユムさんに見せたい場所」
長坂さんは少し考えてから、「車、使ってください」と鍵を差し出した。
「明日の朝まで、自由に使ってもらって構いません。源蔵社長の容態が安定していますし、私は今夜は病院に残ります」
「悪いねえ。じゃあ、お言葉に甘えて」
七尾さんはためらいなく鍵を受け取った。
長坂さんのコンパクトカーは、諏訪湖畔を離れ、霧ヶ峰へと続く緩やかな坂道を上っていった。幾重にも重なる古い民家や小さな精密機械の工場を通り抜け、舗装が途切れかけた砂利道の奥で車が止まった。
目の前に現れたのは、トタン屋根があちこち錆びつき、壁の木材が完全に黒ずんだ、今にも崩れそうな平屋の建物だった。入り口の引き戸の上には、辛うじて読める掠れた文字で「九鬼楽器製造」の看板が掲げられている。
「ここが、俺と伊吹がいた場所」
七尾さんはそれだけ言って、車を降りた。
私もドアを開けて外に出た。夕暮れの冷たい空気が、頬を刺した。
この建物が、七尾さんと伊吹敦さんの原点だった。かつて二人が、木屑にまみれながら、世界を変える一本を夢見て狂ったように木を削っていた場所。今は誰も使っていない。看板だけが残って、風雨に晒されている。
「懐かしいなぁ……。何も変わってないねえ、ここは」
七尾さんはフライトケースを抱えたまま、ゆっくりと建物の周りを歩いた。壁の木材を指先で触れ、錆びたトタン屋根を見上げた。その動きは、工房で木材を確かめるときと同じ、慎重で丁寧な手つきだった。
「中、入れますか」
「キーボックスがあるはず?」
ポストの横に、四桁のダイヤル式ボックスが取り付けられていた。七尾さんが「0770」と番号を合わせると、パチンと音を立てて蓋が開いた。
「適当な番号ですね」
「俺が買ってきたやつだからね。俺がつけた番号だよ」
七尾さんが錆びついた引き戸をガラガラと開けると、中から強烈な揮発性のラッカー塗料の匂いと、十年間密閉されていた古い木材の、ツンとするような埃っぽい匂いが一気に吹き出してきた。
中に一歩入ると、目が慣れるまで少し時間がかかった。暗くて広い空間。床には、かつて大型の帯鋸やサンダーが置かれていたであろう、四角い空白の跡がいくつも残されている。壁の棚には、主を失ったクランプや、刃の欠けたノミが並んでいた。そして、誰の筆跡か分からない「コンマ〇二ミリ、トップ板厚み薄く」という殴り書きのメモが、一枚、棚の板に貼り付けられたままになっていた。
中標津の工房とは全然違う。七尾さんの工房は生きている。道具が使われていて、木屑があって、ストーブが燃えていて、あーちゃんがサンドペーパーをかける音がある。でもここは違う。ここは、生きていた場所の残骸だ。
それなのに、なぜか、圧倒されるような熱量を感じた。この場所に残っている何かが、空気の中にまだ漂っていた。あの「コンマ〇二ミリ」というメモの文字が、誰かの息遣いを持っていた。
七尾さんは棚に近づいて、そのメモを見た。
「伊吹の字だ」
短く言った。それ以上は言わなかった。メモを剥がすわけでもなく、ただそこに立って、見ていた。
「……このメモ、十年間ここにあったんですね」
「そうだね。誰も来なかったから、そのままなんだろうね」
七尾さんは棚から離れて、部屋の真ん中に立った。フライトケースをぽんぽんと叩いた。
「あいつは『お前の削るネックは論理的じゃない』って怒るし、俺は『握り心地よければ何でもいいだろ』って言い返してさ。源蔵社長はいつも、その真ん中で『どっちでもいいから、仕事しろ』って言ってたわ」
七尾さんはそう言って、誰もいない空間に向かって優しく笑った。
「伊吹さんは、ここのどこに座ってたんですか」
私が聞くと、七尾さんは奥の隅を指さした。
「あのあたり。窓に近い場所。光が入る角度がいいって言ってさ、設計図を引くにはあそこが一番だって。俺はその斜め向かい。で、源蔵社長は入り口のそばの太い柱にもたれて、二人のことをずっと見てた」
私はその場所を見た。今は何もない。ただの床と、壁と、暗い隅があるだけだ。でも七尾さんの言葉を聞くと、そこに二人の若い職人が見えるような気がした。喧嘩して、笑って、怒鳴られて、また木を削っていた二人が。
中標津の工房に、伊吹さんが座っていたというソファがある。真ん中に、薄い窪みがある。私はその窪みを見るたびに、直接知らない人の痕跡を感じる。今もここで、同じ感覚があった。伊吹さんがいた場所の輪郭が、空白の中に残っていた。
「七尾さん、伊吹さんのメモ、持って帰りませんか」
私が言うと、七尾さんは首を横に振った。
「ここにあっていいんだよ。ここが、あいつの場所だから」
それだけ言って、七尾さんはもう一度メモを見た。「コンマ〇二ミリ、トップ板厚み薄く」という文字。誰かの仕事の痕跡。消えずにそこにある。
「伊吹さんに、今日のこと、どうやって伝えますか」
七尾さんは少し考えてから、首を傾けた。
「伝えるって?」
「ギターが源蔵社長に届いたこと」
「ああ」七尾さんは、フライトケースをぽんと叩いた。
「伝えなくていいんじゃないかな。たぶん聴いてたよ。あいつの設計図で作ったギターだから」
それだけ言って、七尾さんは出口の方を向いた。
「帰ろうか」
七尾さんは、かつて自分が何千回、何万回と木を削ったその床を、最後に一度だけ強く踏みしめた。それからゆっくりと引き戸を閉めた。
夕暮れの空は、先ほどよりも少し明るくなっていた。雲が流れて、西の空に細い光の帯が見えた。
「アユムさん」
車に乗り込む前に、七尾さんが言った。
「今日、来てくれてよかった」
「私こそ」と私は答えた。「来てよかったです」
七尾さんは何も言わずにドアを開けた。エンジンをかけた。ヘッドライトが、砂利道を照らした。
車は坂道を下り始め、諏訪の街の灯りが、少しずつ、少しずつ、近づいてきた。
その夜、諏訪湖畔のビジネスホテルのサウナで、七尾さんは「最高だねえ」と何度も言った。水風呂に入るたびに「八ヶ岳の伏流水、やっぱり違うわ」と目を細めた。
「アユムさん、中標津と比べてどう?」
「中標津は中標津でいいんじゃないですか」
「そっか。でも中標津の外気浴は別格だよ。マイナス二十度の外気はもう全部リセットされる気がするからね」
「七尾さん、そんな話より先に、食事にしましょう」
サウナを出て、ラーメン屋へ向かった。諏訪湖の近くにある、こじんまりとした店だった。看板には「みそらーめん」とだけ書いてあった。
カウンターに二人で並んで、味噌ラーメンを頼んだ。七尾さんは一口すすって、「うん、これだよ」と小さく頷いた。
「七尾さん、長野にいた頃はよくラーメン食べてたんですか」
「食べてたねえ。伊吹が、ラーメン好きで。悩んだときとか、喧嘩した後とか、必ずどこかのラーメン屋に行ってたんだよ。源蔵社長も連れてきたことがある」
七尾さんはスープを飲みながら、窓の外の暗い諏訪湖を見た。
「社長が来ると、替え玉を三回頼んでた。細麺の店でも、太麺の店でも、かならず替え玉を三回。『食えないと木は削れん』って言いながら、きれいに全部食べてた」
私はその光景を想像した。若い七尾さんと伊吹さんと、今は病院のベッドにいる源蔵社長が、この街のどこかのカウンターで並んで座っている場面。怒鳴り合った後に、ラーメンをすすりながら、また仕事の話をしている場面。
「また来られるといいですね。源蔵社長が元気になったら、一緒に」
「そうだね」七尾さんは答えた。「来れるといいね」
断定しなかった。できなかったのかもしれない。でも、その言葉には、願いがあった。
私はラーメンを最後まで食べた。味噌のコクが、体の芯まで温めた。東京や中標津では食べたことのない、深い味だった。
「七尾さん、このラーメン屋、名前なんていうんですか」
「昔は別の名前だったんだよな。二代目さんが継いでから変えたって聞いた。でも味は変わってないね。こういうのが、ちゃんと続いていくって、いいよね」
「職人の仕事みたいですね」
「まあね。どんな仕事でも、続いていくことが一番難しいんだよ」
七尾さんはお水を一口飲んで、コップをカウンターに置いた。そのしぐさが、工房でコーヒーを飲むときと同じだった。場所が違っても、七尾さんは七尾さんだった。
「七尾さん、中標津に工房を構えたのは、ずっとそこにいるつもりだったからですか」
「そんなに深く考えてないよ。とにかく遠い場所に行きたかった。それだけだったかな」
「遠い場所」
「うん。知ってる人が誰もいない場所。誰にも会わなくていい場所。中標津は、そういう場所だった」
七尾さんはそう言ってから、少し笑った。
「でも今は、そういう場所じゃなくなってきたね。知ってる人が増えてきた。アユムさんが来て、あーちゃんがいて、海外からも注文が来るようになって」
「嫌じゃないですか」
「全然。思ったより、嫌じゃなかった」
そのあっさりとした返事に、私は少し笑った。七尾さんらしい答え方だった。
食後、二人でホテルに戻る道、諏訪湖の湖畔を少し歩いた。冬の夜の湖は暗くて、波もなかった。水面に街の灯りが映って、揺れていた。
「七尾さん、明日どうするんですか」
「長坂さんが、少し時間あるから寄り道してから帰ろうって言ってた。社長の容態が安定してるから、俺たちがここにいる必要もないし。もう少し長野を見てから帰ろうかなって」
「どこへ」
「ビーナスライン」七尾さんは即答した。
「冬のビーナスラインは別格なんだよ。空気が全然違う。中標津とも違う、山の冷たさがある」
私は諏訪湖を見ながら頷いた。明日のことはまだわからなかった。でも、源蔵社長の目が開いた瞬間の、あの病室の空気が、まだ体の中に残っていた。
七尾さんが「伊吹の設計図で作ったギターだから、たぶん聴いてたよ」と言ったことを思い出した。言葉にしないことで、確かに伝わるものがある。今日の音がそうだったように。
「あーちゃんへのお土産、買いましたか」
「あ、忘れてた」七尾さんは少し慌てた顔をした。
「明日、帰り道で買う。何がいいかな」
「七尾さんが選んでください。私はあーちゃんに任されてないので」
「そっか。じゃあ、和菓子でも買ってこうかな。あーちゃん、甘いもの好きだから」
波のない諏訪湖の水面に、私たちの影が映っていた。フライトケースを持つ七尾さんと、その隣に立つ私。二つの影が、静かに揺れていた。
「アユムさん、寒くないの?」
「寒いですよ。早く帰りましょう」
「そうだね。明日も早いしね」
七尾さんはそう言って、先に歩き出した。私はその後を追った。ホテルの灯りへ向かって、二人は諏訪湖の岸を歩いた。
ケースの中で、ギターが静かに眠っていた。今日届いた音の余韻を、まだその木の中に持ちながら。




