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七尾工房、本日も開店休業中。  作者: 七尾 拓哉


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13/20

第13話 社長の病と、最後の依頼

 中標津空港へ向かう砂利道の上で、ニュービートルのワイパーが断続的にフロントガラスの霜を拭い去っていた。


 十二月の朝の空気は、吸い込むだけで肺の最奥が凍りつくように冷たい。後部座席には、昨夜七尾さんが調律した、頑丈なフライトケースに閉じ込めた伊吹敦さんのギターが、確かな質量を持って横たわっていた。


「……本当に、寝坊しませんでしたね」


 私が寝不足の目をこすりながら言うと、ハンドルを握る七尾さんは、爆発した寝癖のまま、ひどく真面目な顔で前方を見つめていた。


「失敬だなあ。俺だって、本気だせば起きられるよ」


 いつも通りのちゃらんぽらんな言葉とは裏腹に、アクセルを踏み込む七尾さんの横顔には、張り詰めた弦のような緊張感が張り付いていた。


 昨夜、松本の長坂さんから届いた報せは、中標津のログハウスの平穏を一瞬で吹き飛ばした。脳梗塞で倒れ、諏訪の病院の集中治療室で死線を彷徨っているという九鬼源蔵社長。かつて長野で七尾さんと伊吹さんを育て上げ、二人のクッションであり続けた人。意識が混濁する中で社長が遺した「あいつらの、最後の音を聴かせてくれ」という言葉は、命を賭した最後の依頼だった。


 中標津空港の小さなロビーに入ると、ストーブの熱気とともに、旅情というにはあまりに重い静寂が私たちを包んだ。フライトケースを航空会社の手荷物カウンターに預ける際、七尾さんはスタッフの女性に「これ、衝撃を与えないように扱ってください」と、見たことがないほど深く、丁寧に頭を下げていた。


 その姿を、私は少し離れた場所から見ていた。ケースの中に入っているのはギターだけではない。伊吹さんの設計図と、七尾さんが十年かけて積み上げてきた時間が、一緒に詰まっている。そのことを、カウンターのスタッフの人は知らない。でも七尾さんの頭の下げ方を見ていれば、何か大切なものが入っているということくらいは、わかるだろうと思った。


 羽田行きの機内に入り、雲の上へと突き抜けた白い光の中で、私はビジネスバッグから一冊の文庫本を取り出した。


 宮下奈都さんの『羊と鋼の森』。再読だ。


 一人の青年が、一台のピアノの調律を通じて、果てしない「音」の森へと足を踏み入れていく物語。羊の毛で作られたハンマーが、鋼の弦を叩く。その単純な物理現象の裏側にある、職人たちの執念と、正しい音を追い求める旅路が、今の私たちの状況に痛烈に重なっていた。


 才能というものは、何かをものすごく好きだという気持ち、そこから離れられない執念なのかもしれない——作中の言葉を思い出しながら、私は隣で深くシートに身を沈め、目を閉じている七尾さんの横顔を見た。


 目を閉じているが、眠っているわけではないとわかった。眉間に、薄い皺が寄っている。この人が何かを深く考えているときの顔だ。工房で木を削る前の、鑿を当てる位置を決める前の、あの顔と同じだった。


 この人は、伊吹敦という唯一無二の設計者を失ってからの十年間、中標津という誰も自分を知らない僻地で、自らを「開店休業」に追い込んできた。それは、親友の声を聴き逃してしまったという消えない傷と、それでもなお木を削ることから離れられない執念との間で、静かに息を潜めるための時間だったのだと、今は思う。


 源蔵社長の病は、間違いなく悲劇だ。けれど同時に、この工房に眠っていたものを、もう一度世界へと響かせるための最後の引き金でもあった。


「七尾さん、起きてますか」


 私が低く声をかけると、七尾さんは目を開けないまま、「ほぼ寝てるよ」と掠れた声で答えた。


「長野に着いたら、まずは病院へ直行ですか」


「そだね。長坂さんが駅まで迎えにきてくれる。社長の意識があるうちに、ギターの音を、耳の奥に届けてやらないと」


 七尾さんはそう言うと、ポケットから真鍮のライターを取り出し、親指でフリントを小さく転がした。もちろん機内だから火は点けない。けれど、カチリ、カチリというその金属音は、まるで自分自身の職人としての魂を、調律しているかのような静かな決意の音に聞こえた。


「源蔵社長って、どんな人なんですか」


 私が聞いたのは、これが初めてだったかもしれなかった。七尾さんから断片的に名前を聞いてきたが、どんな人物かを直接聞いたことはなかった。


 七尾さんは少しの間、ライターを転がしながら黙っていた。


「頑固な人だよ。自分の耳だけを信じる人。俺と伊吹を拾ったのも、たぶん計算じゃなくて、耳だけで決めたんだと思う。俺たちの音が好きだっただけ」


「好きだから、育てた」


「そうだと思うけどなー。それだけの人だよ。報酬とか、将来性とか、そういうことは後から考える人。で、お世辞が通じない。だから俺も伊吹も、ごまかしが一切できなかった。いい意味でね」


 七尾さんは目を開けた。窓の外を見た。雲の上だから、何も見えない。白いだけだった。


「伊吹が死んだとき、社長に連絡したのは俺だったんだよ。電話で、一言も喋らなかった。電話の向こうで、ずっと黙ってた。俺も喋れなかった。五分くらい、二人で黙ってた気がする」


 私は何も言わなかった。


「それだけで、全部わかった気がしたんだよね。どれだけ悲しんでるか、どれだけ怒ってるか、ぜんぶ」


 七尾さんはまた目を閉じた。ライターをポケットに戻した。


「だから今日、ちゃんとした音を届けないといけないんだよ。ギターじゃなくて、俺と伊吹が長野にいた頃の、あの音を。社長が一番好きだった、あの音を」


 飛行機はゆっくりと高度を下げ始め、窓の外には、中標津の枯れ草色の牧草地とは全く違う、関東平野の無機質な灰色のビル群が見えてきた。


 羽田空港に降り立った私たちの肌を、東京のぬるい大気がなぞった。中標津の刺すような冷気に慣れた身体には、十二月だというのにどこか湿り気を孕んだ空気に感じられる。しかし、立ち止まっている時間はない。私たちは大きなフライトケースを引いて京急線に飛び乗り、品川を経由して新宿駅へと急いだ。


 中央線特急「あずさ」のホーム。平日の昼下がりだというのに、構内は多くの人々が行き交い、せわしない電子音が鼓膜を叩く。


「七尾さん、はぐれないでくださいよ。そっちじゃないです、十一番線です」


「おお、都会の駅はやっぱり目が回るねえ。複雑すぎるわ」


 七尾さんは、大切なフライトケースを右手でがっしりと抱え込みながら、頼りなさそうに周囲を見回していた。いつも工房でCNCマシンやCADをサクサク使いこなしているのに、駅の自動改札や乗り換え案内板の前では、完全な迷子と化している。私は元広告マンとしての進行管理能力をフル稼働させ、彼の腕を引っ張るようにして指定席の車両へと滑り込んだ。


 特急あずさが甲府盆地を抜け、八ヶ岳の雄大な山並みを窓の外に映し出す頃、車内には独特の静けさが満ち始めていた。私は座席のテーブルに、新宿駅のホームで買った駅弁を広げた。カツサンドと温かいお茶。中標津の朝を出てからほとんど何も食べていなかった。


「美味いねえ、アユムさん。でもさ、長野に着いたらやっぱり信州そばを……と言いたいところだけど、個人的には、あえてのラーメン食べたいなあ。それと、極上の温泉とサウナに入りたいよね。諏訪湖のすぐそばのビジネスホテル、本当にサウナのセッティングが最高なんだから。水風呂が八ヶ岳の伏流水でさ、頭の芯までシャキッとするんだよ」


「七尾さん、私たちは遊びに行くわけじゃないんですからね。社長の容態が緊迫しているんですよ」


「分かってるよ。でもさ、職人が最高の仕事をするためには、自分の重心を一番リラックスした場所に置いておかなきゃいけないからね。胃を痛めてばかりじゃ、いい音は鳴らせないよ」


 七尾さんはお茶のペットボトルを傾けながら、悪戯っぽく笑った。その笑顔の奥に、かつて彼が過ごした「長野以前」の記憶が、ぽつり、ぽつりとこぼれ落ちるように語られ始めたのは、列車が茅野駅を過ぎたあたりのことだった。


「そういえばさ、アユムさん。俺、長野の九鬼楽器に行く前、東京にいたんだよね」


「え? そうなんですか?」


「うん。目白にあるギター製作の専門学校に二年間通っててさ。そのとき、池袋のアパートに住んで、夜はダーツバーでバイトしてたんだわ。そこでビリヤードとかダーツにめちゃくちゃハマっちゃってさ。ビリヤードのインストラクター資格もその時に取ったんだよね」


 私は持っていたお茶のペットボトルを落としそうになった。


「目白……? 池袋ですか?」


「そう。アユムさんも東京にいた時、そのへんに住んでたって言ってなかったっけ?」


 心臓がドクン、と大きく跳ねた。


 私が中標津に来る直前、中堅広告代理店での激務に心身をすり減らし、徹夜明けに地方創生の薄っぺらいコピーを書き殴っていたあのワンルームマンションは、まさに「目白」にあったのだ。そして、休日に目的もなく彷徨っていたのは「池袋」の街だった。


「まさか、同じ街にいたなんて……」


「世間は狭いねえ。もしかしたら、俺がバイトしてたダーツバーの隣の席で、アユムさんが死にそうな顔してビールでも飲んでたかもしれないね」


「時期が全然違うので、会ってたってことはないかもですが、同じところ通ってたんですね」


「俺がいたのは二十年以上前だからね。でも面白いよね。同じ街を歩いてたのに、こんな遠回りしてから同じ工房にいるんだから」


 遠回り、という言葉が引っかかった。


 七尾さんが池袋でダーツバーのバイトをしていた頃、私はまだ学生だったはずだ。私が広告代理店でコピーを書いていた頃、七尾さんはすでに中標津の工房を構えていた。同じ街に確かにいたのに、互いを知らなかった。そして今、北海道の東端の工房を起点にして、こうして長野へ向かっている。


「七尾さん、池袋にいた頃、長野に行くって決めてたんですか」


「ぼんやりとはね。九鬼楽器は有名だったから、行きたいと思っても簡単に行けるところじゃなかったんだ。先生が特別に推薦状を書いてくれて、一か月間だけ体験入社みたいな感じで行かせてもらってさ。その時に伊吹も居たんだ。普通に入社試験受けてたら、俺も伊吹も落ちてたと思うよ」


「伊吹さんとは同じ学校だったんですか?」


「いや、伊吹はまた違う学校だったから、勝手にライバル視してたな。『こいつには負けたくない』と思ってたよ」


 七尾さんは窓の外を見ながら、くっと笑った。懐かしさと、もう会えないという事実が混ざったような笑い方だった。


「それで仲良くなったんですか」


「まあね。なんか、こいつはすごいなって、最初から思ってたよ。木の削り方とか技術面では負けてなかったけど、図面を書く系の仕事は俺なんかと比較にならないくらい天才的で。九鬼楽器で一緒に働けたらいいなとは思ってたけど、まさか一緒に採用してもらえるとは全く想像できなかった」


 私はカツサンドの最後の一切れを口に入れながら、窓の外を見た。


 人の経路というのは、後から見ると一本の線に見えるが、実際にその道を歩いているときは、ただ前に進んでいるだけで、なぜこの方向なのかはわからないものだ。七尾さんと伊吹さんも、出会ったときはまだ、それが長野への道の始まりだとは知らなかったはずだ。


 運命という言葉を使うのは気恥ずかしい。けれど、コンクリートのビル群の中で数字とアルゴリズムに追われていた私と、かつてそのすぐ近くの路地裏でビリヤードを教えながらギター職人を夢見ていたこの男。その二人が、何千キロも離れた北海道の東の端、中標津のログハウスで出会い、今こうして、一本のギターの音を届けるために特急あずさに揺られている。


 窓の外、どんよりとした長野の雲の隙間から、鈍色の諏訪湖の湖面が見えてきた。


「まもなく、上諏訪、上諏訪です」


 車内アナウンスが響く中、七尾さんはゆっくりと立ち上がり、フライトケースのハンドルを握り直した。東京の過去、中標津の現在、そしてこれから向かう長野。そのすべてが、伊吹敦さんのギターという形ある結晶の周りで、静かに交錯し始めようとしていた。


 上諏訪駅の改札を出ると、長坂さんが待っていた。


 昨夜から、ほとんど眠れていないのだろうと思った。


「七尾さん、橋本さん。来てくださってありがとうございます」


 長坂さんは深く頭を下げた。七尾さんは「長坂さん、久しぶり」と短く言って、それ以上は何も言わなかった。二人の間に、共有されている時間の厚みが感じられた。


「社長の容態は」


「今朝から、少し意識が戻っています。ただ、いつまた落ちるかわからないと、医師からは言われています」


「ギター、持ってきた」


 七尾さんはフライトケースを軽く持ち上げた。それだけだった。長坂さんは一瞬目を細めて、「ありがとうございます」とまた言った。


 長坂さんの車に乗り込み、諏訪湖沿いの道を病院へ向かった。助手席には七尾さん、後部座席に私とフライトケース。窓の外、諏訪湖の湖面は灰色で、波がなく、鉛を溶かしたような色をしていた。


「病院に着いたら、ルールがあります」


 運転しながら、長坂さんが言った。


「ICUへの面会は基本的に制限されています。でも、主治医の先生が特別に許可を出してくださいました。ただし時間は短い。社長に負担をかけてはいけないので、面会は十分以内が目安です。音を聴かせることについても、先生に事前に伝えてあります」


「1、2曲なんか弾くか」


 七尾さんは短く答えた。窓の外を見ていた。


「社長が、七尾さんの名前を呼んでいたのは本当です。夢うつつの中で、何度も。伊吹さんの名前と、交互に」


 長坂さんの声が、かすかに揺れた。


「伊吹さんのことを、社長はずっと、引きずっていたんだと思います。あの事故のあと、しばらく工房が暗かった。七尾さんが長野を離れた後も。それが……このギターが完成したと七尾さんから連絡をもらったとき、社長が本当に嬉しそうな顔をしていたので、私も……」


 長坂さんは言葉を途中で飲み込んだ。


 車内がしばらく静かになった。諏訪湖が後ろへ流れていった。


 私は後部座席で、フライトケースに手を置いた。昨夜、七尾さんが調律したときの、あの一音の残響を思い出した。削り切れなかった何かが音として漏れ出している、と思った。形にはなりきれなかったからこそ、何かが残っている。


 その「残ったもの」を、今日、源蔵社長に届ける。


「着きました」


 長坂さんが車を止めた。白い建物が目の前にあった。病院の、正面玄関の自動ドアが、音もなく開いた。


 七尾さんはフライトケースを手に取り、一歩、踏み出した。


 その背中を見ながら、私は思った。この人がどれだけの時間をかけてここまで歩いてきたか。中標津から来たのは今日だけじゃない。長野を離れた日から、ずっと、ここへ向かって歩いていたのだ。遠回りしながら、それでも止まらずに。


 自動ドアをくぐると、消毒液の匂いが鼻をついた。受付に向かう七尾さんの足取りは、ためらいがなかった。


 長坂さんが受付で手続きをする間、私と七尾さんはロビーの椅子に座って待った。病院のロビーは静かで、でも中標津の工房の静けさとは違う静けさだった。人が息を潜めているような、待っているような、静けさだった。


 七尾さんはフライトケースを膝の上に置いて、両手を添えていた。眺めているわけではなく、ただそこに触れていた。確かめているようだった。


「緊張してますか」


 私が聞くと、七尾さんはしばらく考えてから、「してるかもね」と言った。


「珍しいですね」


「社長の前では、いつも緊張するんだよ。昔から」


 七尾さんは天井を見上げた。病院の天井は白くて、高い。


「社長って、怖い人なんですか」


「怖くはないけど、正確なんだよ。嘘が通じない。俺が若い頃、工房の音の出来について正直じゃないことを言ったら、すぐにわかって、三日間口を利いてもらえなかったことがある」


「三日間」


「うん。謝ったら、また普通に話してくれたんだけどね。でもその三日間がきつくて。伊吹も同じことで怒られたことがあって、二人で慰め合ったのを覚えてる」


 七尾さんはそこで少し笑った。懐かしさが顔に出ていた。


「だから今日、持ってきたギターの音が本物じゃなかったら、社長にはすぐわかる。意識が混濁してても、耳だけは正確な人だから。それが、少しだけ怖いんだよね」


「昨夜、調律したじゃないですか」


「したよ。でも、完璧かどうかはわからない。本物の音って、弾いてみないとわからないこともあるから」


 長坂さんが戻ってきた。面会の許可が下りたという。


「エレベーターで五階に上がります。ICUの前で、もう一度、担当の看護師さんに確認してもらってから入れます。フライトケースはそのまま持って入れますが、開けるのはベッドサイドでお願いします」


「わかった」


 七尾さんは立ち上がった。フライトケースを手に持った。


 エレベーターの中は、三人と一台のケースで満杯だった。数字が上がっていく。三、四、五。扉が開いた。


 ICUのある廊下は、別の匂いがした。消毒液と、もう一つ、何かの匂い。言葉にできないが、人が全力で生きようとしている場所の匂いだと思った。


 廊下の端まで歩いて、長坂さんが止まった。


「ここです。看護師さんに確認してから入ってください」


 七尾さんは扉を見た。白い扉だった。どこにでもある、病院の扉だった。


 私はその場に立って、七尾さんの後ろ姿を見ていた。ここから先は、七尾さんが一人で行くべき場所だと思った。私は外で待っていよう、と思っていた。


 けれど七尾さんが振り返って、「アユムさんも来なよ」と言った。


「いいんですか」


「せっかく来たんだから、社長に紹介するよ」


 理由はなかった。でも、そういうことを言うときの七尾さんの感覚は、だいたい正しい。私はうなずいた。


 長坂さんが看護師さんに確認した。許可が出た。


 七尾さんがフライトケースを持ったまま、扉を押した。


「社長、お久しぶりです。生きてます?」


 源蔵社長は、思ったよりも小さく見えた。


 白いベッドに横たわって、鼻に細いチューブが入っていた。目は閉じていた。ただ、胸が上下しているのがわかった。生きている人の、確かな動きだった。


 七尾さんが、ベッドの横に立った。フライトケースを床に置いた。留め金を外した。


 パチン、パチン、パチン。


 その音に、源蔵社長の瞼が、かすかに動いた。


 七尾さんはギターを取り出した。昨夜、中標津の作業室で調律した、伊吹敦さんの設計図のギター。メイプルとマホガニー、アバロンのインレイ。ケースの外に出ると、病院の蛍光灯の光を浴びて、その木肌が静かに光った。


 七尾さんはギターを膝に抱えた。


 最初の一音を弾く前に、少しだけ間があった。


 私はその間に、七尾さんが何をしているかを考えた。チューニングを確認しているわけではないと思った。自分の手が、今日の音を鳴らせる状態にあるかを、確かめているのだと思った。木と対話するときの、あの沈黙と同じだった。


 ポロン、と最初の一音が鳴った。


 源蔵社長の目が、ゆっくりと開いた。

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