表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
七尾工房、本日も開店休業中。  作者: 七尾 拓哉


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
11/20

第11話 孤独な木肌を削る指先、境界線に架ける橋

 十一月の初め、中標津の風はすっかり冬の冷徹な刃を孕み、根釧台地を覆う大気はどこまでも澄み渡っていた。 地平線の境界線がくっきりと白く浮き立ち、遮るもののない大空からは、初雪の前触れである微細な霜の欠片が、初冬の強い風に流されてきらきらと牧草地の上に舞い落ちてくる。 そんな澄んだ光の中に立つログハウスの入り口では、二つの木製の看板が相変わらず並んで風に吹かれていた。長年の雨風に晒されて渋い灰色を帯びた七尾さんのナラ材の看板と、過酷な季節を浴びて淡いピンクから深い飴色へとその身を染め上げた、私の『橋本工房』のチェリー材の看板。 だが、その不器用で静かな佇まいとは裏腹に、ログハウスの内部は、ここ数ヶ月で全く予期せぬ「荒波」に揉まれていた。


 きっかけは、半年前、私が軽い気持ちでYouTubeに投稿した一本の動画だった。七尾さんの「製作工程を包み隠さず全部見せる動画」。それがどういうわけか海外の木工家の網に引っかかり、アルゴリズムの波に乗って爆発的にバズってしまったのだ。


 そこからの工房の変貌ぶりは、元広告代理店勤務の私でさえ目眩がするほどだった。


「……信じられない」私は思わず呟き、ぬるくなったブラックコーヒーに口をつけた。


コメント欄をスクロールしていく。そこに並んでいるのは、もう日本語ではない。


『His hands have no hesitation. This is a master's job.(彼の両手には一切の迷いがない。これは本物のマスターの仕事だ)』


『Greetings from Germany! I can watch this timber-shaving sound for hours.(ドイツから挨拶を! この木を削る音なら何時間でも観ていられる)』


『Is this monster really wood-shaving alone in such a remote area of Hokkaido?(北海道のこんな僻地で、この怪物は本当に一人で木を削っているのか?)』


「七尾さん、これ、ドイツとかアメリカからコメントが来てますよ。七尾さんのネックを削る手の動きが、海外の木工家たちに『マスターの仕事』って絶賛されてます」私が画面を向けようとすると、白い合皮ソファの左端に深く腰掛けた七尾さんは、膝の上で丸くなっているカンナの顎の下を大きな手で撫でながら、気のない声を上げた。


「へえ、ドイツ。ビールが美味しいところだよね。みんな夜中に動画なんか観てないで、本でも読んで早く寝ればいいのにね」


「寝てないのはこっちのタイムゾーン(時間帯)だけです。向こうは今、真っ昼間なんですよ。……あ、これ、台湾のユーザーからのコメントです。『異なる木片がひとつの模様になるプロセスが、まるで魔法のようだ』って」


「魔法ねぇ。ただ手カンナとノミで削ってるだけなのにね。大袈裟だなぁ」


 七尾さんはアメリカンスピリットに火をつけ、紫色の煙を天井へとのんびり吐き出した。 だが、狂騒は「絶賛のコメント」だけでは終わらなかった。


 動画の概要欄に載せていた工房のメールアドレスとInstagramのDMのアイコンが、ある日を境に、完全にパンクしたのだ。『I want to buy that custom utility knife! How much for shipping to California?(あの寄木細工のカッターナイフを買いたい! カリフォルニアまでの送料はいくらだ?)』『Please sell me the wooden ballpoint pen. I'll pay double!(あの木軸ボールペンを僕に売ってくれ。倍の値段を払う!)』  一通や二通ではない。朝起きると、世界中から「カッターナイフを買いたい」「ボールペンを売ってくれ」というDMが、数百件単位で雪崩のように押し寄せていた。


「七尾さん! 大変です、発送パニックです!」私は翌朝、印刷した大量のオーダー希望リストを抱えて作業室へと飛び込んだ。


「んー? どしたの?そんなに血相変えて。血圧上がるよ?」


「上がってるのは注文数です! カリフォルニア、ロンドン、台北、シドニー……世界中から例の寄木細工のカッターナイフの注文が入ってます。ネットショップの在庫は一瞬で底をついて、バックオーダーはマイナスに突入しました。これ、どうするんですか」


 七尾さんは木工旋盤のスイッチを切ると、ゴーグルを外して目を丸くした。「海外かぁ。郵便局からEMSでの発送になるなぁ」


「海外発送したことあるんですか?」


「うち、けっこうやってるんだよ? 以前からニッチな海外のファンがポツポツ買ってくれててさ。それに、あーちゃんの作品も国内より海外の方が注文よく来るんだよ。梱包とか発送の手続きは、あーちゃんが全部やってくれてるから。あーちゃん、海外発送の仕方詳しいから教えてもらって」


 その言葉に驚いて振り返ると、作業台の奥で、あーちゃんが淡々と緩衝材をカットしていた。 実は、あーちゃんが作る繊細な木彫り作品は、日本ではまだほとんど知られていなかったが、彼女は密かに海外のハンドメイド特化型ECサイトに登録していたのだ。言葉数の少ない彼女が、インターネットという海を通じて、世界のどこかにいる感性の近い人々と直接繋がり、定期的に注文を受けて発送まで一人でこなしていた。だからこそ、この工房における実質的な「国際物流大臣」は彼女だった。


「アユムさんは宛名ラベルの印刷だけ手伝ってください」


 あーちゃんはそうボソッと言うと、驚くほど手際よく、世界中へ旅立つカッターナイフを国際郵便(EMS)の規定サイズに合わせてパッキングしていく。そこからの数日間、七尾工房は文字通り「発送パニック」の戦場と化したが、元広告マンの私は、この寡黙なアルバイト女性にシステムを教わりながら、なんとか津波のような注文を捌き切ることができた。


 しかし、事件はそれだけじゃなかった。動画のバズは、企業の手にも渡っていたのだ。 台湾のCNCメーカーや国内の鋸ブランド、最新のレーザー彫刻機を作っているメーカーといった、各社からのPR案件が殺到した。


「おー! これ凄いねえアユムさん! これはいいわ」


 作業室の真ん中で、台湾のCNCメーカーから送られてきた工作機械を、まるでクリスマスプレゼントを貰った子供のように目を輝かせていじり倒しているのは、デジタルに疎いはずの師匠・七尾さんの方だった。


「七尾さん、これ『商品提供』っていう形なんですから、PR案件としての見せ方をしっかり管理しないと駄目です。こんなハイテクな機械いただいて、使いこなせるんですか? メーカーとの契約書、ちゃんと読みましたか?」


「俺、CADCAMは普通に使えるから、意外とこーゆー機械得意なんだよ?」


と、見たことない手つきでPC画面に滑らかな曲線で図面を書き、CNCを操作し始めたので、私は言葉を失った。 長野の仕事を辞めた後、札幌の職業訓練校で丸一年、CADCAMについて熱心に学んでいたのだ。時代の変化にただ取り残されるのではなく、新しい技術を貪欲に、自分の「手」を拡張するための道具として血肉化していた。その職人の執念と底知れなさに、私の肌がゾクりと粟立つ。


「手で削れる人間からしてみたら、数値を入れるだけで刃物が動いてくれるなんて、おもちゃみたいなもんだよ?」


 七尾さんは少年のような悪戯っぽさで笑い、再び画面に向き直った。


 私はダイニングテーブルの端で、胃を痛めながらエクセルの管理表と格闘していた。手元には、お気に入りのティファニーのハート柄マグカップ。淹れたてのブラックコーヒーが冷めていくのも気づかないほどのタスク量だった。しかし、私の焦りを横目に、七尾さんは咥え煙草のまま、信じられない言葉を吐き出した。


「いやー、俺、ユーチューバーになりたいなー。広告収益とかいくらくらいになるのかなぁ? それで新しい材料、買っちゃおうかなー」


「七尾さん、真面目にやってください」


 ため息をつきながら、私は頭を冷やすために、朝の習慣である十分間の読書の本に目を落とした。 町田そのこさんの『52ヘルツのくじらたち』。他のくじらには聴き取れない高すぎる周波数で鳴く、世界で一番孤独なクジラ。その届かない声を聴き、すくい上げようとする人々の物語。


 ネットの海に飛び交う膨大な「数字」や「通知の電子音」という高周波の中で、この本のページから漂う木の匂いだけが、私の乱れた呼吸を整えてくれる調律のようだった。


 そんな風に工房の周りの数字がどれだけ跳ね上がり、最新のテクノロジーが導入されても、週に一度ふらっとやってくる寡黙なあーちゃんだけは何も変わらなかった。


「……うるさい機械ですね」


 最新のCNCマシンがけたたましい音を立てて木を削る横で、あーちゃんはボソッと文句を言い、首にでっかい黒いヘッドフォンを引っ掛けたまま、相変わらず手作業で黙々と、チェリーの木のトレイにサンドペーパーをかけていた。サッ、サッ、という静かな手の往復。その横では、猫のカンナが機械の振動などどこ吹く風で、ソファの上で丸くなって眠っている。


 周りがどれだけ変わっても、あーちゃんとカンナだけは変わらない。その絶対的な安心感が、この歪な工房の重心を、いつも真ん中に留めてくれていた。


 あーちゃんが、工房の隅で何かを作っているらしい、と気づいたのは、まだ秋の匂いが残る九月の終わり頃だった。 休憩中、彼女がいつものペーパーがけではなく、一本の小さな彫刻刀を握り、何かの木片を熱心に削っていた。


「それ、何作ってるんですか」


私が聞くと、あーちゃんは手を止めずに、ボソッと答えた。


「……別に」


 それ以上は教えてくれなかった。けれど翌週には、その塊は小さな動物のような輪郭を持ち始めていた。耳のような出っ張りと、丸い背中。何の動物かはわからなかったが、不思議と目が離せない形をしていた。あーちゃんは誰に見せるでもなく、休憩のたびにそれを少しずつ育てていた。完成を急いでいる様子は、まるでなかった。


それから一ヶ月が経ち、十一月に入ったばかりのある日の午後、工房のドアが開き、小豆色の作務衣を着た湯川旅館の美香さんが、一人の洗練された老紳士を伴って入ってきた。札幌の美術商、工藤さんだった。 工藤さんは美香さんの旅館のロビーにある、あーちゃんが作ったチェリーのパンフレット立てを見て、わざわざ中標津まで足を運んだのだという。


「素晴らしい。最新の機械の音が響く中で、これほど静かで気取らない手仕事が生きているとは」


 工藤さんはあーちゃんの前に歩み寄り、作業台の隅に置かれていた、あの小さな動物のような塊に目を留めた。


「これは、君が?」


 あーちゃんは答えなかった。代わりに、膝の上のA5のスケッチブックを胸に抱え込んだ。そこには、けたたましく動くCNCマシンの鋭い刃先と、それを冷ややかな目で見つめるあーちゃん自身の不器用な指先が、鉛筆の細かいグラデーションで描き留められていた。


 「お嬢さん。君のこの世界観を、もっと多くの人に見せたいと思ったことはないかい? 来月の半ばに、札幌の私のギャラリーで工芸展を開く。最新のデジタル発信で注目を集めるこの七尾工房の片隅で、君が紡いできた形を、ぜひ展示してほしい」


 あーちゃんはびくっと肩を強張らせ、前髪の奥の黒い瞳を激しく揺らした。拒絶するようにノートを胸に抱え込み、小さな声で「ん」とだけ鳴いて首を横に振った。 工藤さんは、それ以上は無理に勧めず、名刺だけを作業台に置いて、美香さんと共に帰っていった。


 その夜、あーちゃんはいつまでも帰らなかった。 九時を過ぎても、工房の隅で、あの動物のようなものと向き合っていた。私が片付けをしながら横目で見ていると、彼女は何度も指先で同じ場所を撫でていた。耳の形が気に入らないのか、何度も削っては確認しているようだ。


「あーちゃん、もう遅いですよ」


「……ん」


返事はあったが、手は止まらなかった。


 私はストーブに薪を足しながら、しばらく彼女の隣に座った。何も言わずに、ただ一緒にいた。これまでの半年で覚えたことの一つだった。あーちゃんに言葉を急かしても、何も出てこない。けれど、隣にいることだけは、許されている気がした。


 十時を過ぎた頃、あーちゃんがぽつりと言った。


「……怖い」


「怖い?」


「下手って、言われるのが」


 その一言に、私は胸を突かれた。海外のサイトで売れているとはいえ、それは顔も見えない遠い国の誰かとのやり取りだ。目の前で、日本の生身の観客に自分の内面を晒すことは、彼女にとってどれほど恐ろしいことか。半年間、あーちゃんが何も語らずに削り続けてきたものの裏に、こんなにも単純で、こんなにも重い恐れがあったのだと、初めて知った。


「あーちゃん」


 私は一歩、にじり寄った。かつて旭川の現場で、気難しい職人の感覚を、外のシステムへと翻訳してきたあの低い声で語りかける。


「下手かどうかは、見た人が決めることじゃありません。あーちゃんがどれだけ本気でこれと向き合ったか、それだけが本物かどうかを決めるんです。私は、その本気を、言葉にして外へ届ける手伝いがしたい。あなたの手仕事を、私が責任を持って発信してみたい」


 あーちゃんは前髪の隙間から、私の目をじっと見つめた。長い沈黙だった。やがて彼女は、無言のまま、スケッチブックの隅に、一本のボールペンの絵を描いた。私が最初に旋盤で削り出し、未来の約束として引き出しの奥に眠らせている、あの「七本目のチェリーのボールペン」だった。


 ゼロにさえしなければ、物語は誠実に続いている。


 あーちゃんは、小さく、けれど確かな力強さで、「やるか」と深く頷いた。 中標津の、冬を呼び込む乾いた風が、デジタル機械の熱をはらむ作業室の隙間を、音を立てて真っ直ぐに吹き抜けていった。


 それから工芸展までの約一ヶ月間、あーちゃんは毎日、動物を削り出す作業に没頭した。


 最初の動物のような塊は、最終的に三体の小さなオブジェへと姿を変えた。熊、フクロウ、アザラシのようだった。


「北海道の動物シリーズですか」


完成が近づいたある日、私が聞くと、あーちゃんは珍しく、少しだけ口元を緩めた。


「……好きな生き物」


 それだけ言って、あーちゃんはまたペーパーをかけ始めた。私はその一言を、何度も頭の中で繰り返した。


 CNCマシンの轟音と、SNSの通知音と、勝手に盛り上がる外の世界の期待の声。そういう、世界中に溢れる「うるさい高周波」の中で、誰にも届かないかもしれない小さな声を、それでもじっと聞き取ろうとする、不器用で孤独な生き物たち。 それはまるで、広大なネットの大海の中で、届かない周波数で鳴き続ける、あのクジラたちの姿のようだった。あーちゃんは、その声を聴き、すくい上げようとしていたのだ。彼女が削り出したものの正体は、彼女自身の祈りそのものだった。


展示の準備が整った夜、あーちゃんは三体のオブジェを並べて、しばらくじっと見つめていた。


「……怖いけど」


「けど?」


「ちゃんと、自信はある」


 その一言を聞いて、私は自分の中で、伝えるべき言葉の輪郭が、ようやく像を結んだのを感じた。 窓の外では、初雪が静かに降り始めていた。三体のオブジェの上に、工房の蛍光灯の光が落ちて、表面を淡く照らしていた。明日には、この子たちは札幌へ向かう。あーちゃんがどれだけの時間をかけて、どれだけの声を聴いてここまで連れてきたか、それを知っているのは、この工房の中で、私だけだった。


 十一月の半ば、札幌の中心部から少し離れた円山公園の、静かな住宅街で開催された工芸展は、初日から奇妙な熱気に包まれていた。 札幌の街には早くも冬の冷たい空気の膜が張り詰めている。しかし、ギャラリーの重い硝子扉を開けると、そこには道内だけでなく、東京や関西、さらにはYouTubeのバズをきっかけにして海を越えてやってきた海外のコレクターたちまでがひしめき合い、特有の熱量が充満していた。


 展示会の告知フライヤーのテキスト、展示ブースの横に静かに添えられたキャプション、美術批評家やメディアに向けて送られたプレスリリース。そのすべてを、私は「伝える職人」として、一文字の無駄もなく、完璧なロジックと温かさをもって書き上げた。 デジタルの網の目を飛び交う巨大なバズの言葉と、中標津の静寂の中で育まれる不器用な手仕事の言葉。その全く異なる二つの言語体系を深く理解し、その境界線に正しい橋を架けること。それこそが、旭川の荒波を経た、私の「翻訳者」としての新しい手仕事だった。


 白を基調とした洗練されたギャラリーの空間に並んだのは、あーちゃんが中標津で一人きりで作り上げた、歪で、不格好で、けれど圧倒的な生命力を持つ小さなオブジェたちだった。 ある作品は、雨を吸って膨んだチェリーの引き出しのように固く閉ざされ、またある作品は、十年の呪縛を解いたあの伊吹さんの紺色の手帳のように深い闇の色彩を帯び、どこか七尾さんがアコギでかき鳴らした椎名林檎の、あの退廃的で艶っぽい低音の残響を想起させる歪なカーブを描いていた。 それらの無言の造形たちの横には、私が言葉のノミで削り出した、一節のキャプションが静かに添えられていた。


――「この木肌の傷は、誠実な指先の跡である」


会場を訪れた人々は、あーちゃんの荒々しくも繊細な造形と、私の紡いだ言葉のロジックの完璧な融合の前に、深く、深く息をのんだ。言葉を持たない女性が、世界の痛みを網羅するように描き写してきた声が、デジタルの波を通り抜け、私の言葉というフィルターを通して、ついに世界中の人々の胸の奥へと、真っ直ぐに届いた瞬間だった。



 展示会の最終日の夕暮れ時。 すっかり来場者の姿が途絶え、静まり返ったギャラリーの片隅で、あーちゃんは自分の作った作品たちをじっと見つめていた。その首には、いつものでっかい黒いヘッドフォンが静かに掛けられている。 私がゆっくりと歩み寄ると、彼女はいつも目元を隠していた長い前髪を、細い指先でそっと横へと払った。そこから現れた、驚くほど綺麗で澄んだ黒い瞳が、真っ直ぐに私の方を向いた。


「……アユムさん。これ」


少し舌足らずに、けれど確かな響きで私の名前を呼び、彼女が差し出してきたのは、丁寧に蜜蝋で磨き上げられた、手のひらサイズの四角い木製のケースだった。 そっと蓋を開けると、中には、あーちゃんの手によって限界まで滑らかに、シルクのような手触りになるまで磨き上げられた、美しいチェリー材のペンスタンドが入っていた。


 そのコーナーのRの美しさと、一本の波のようにまっすぐに通った木目の配置を見た瞬間、私は胸の奥が熱くなるのを抑えられなかった。それは、どれだけ正確な数値を入力しても最新のCNCマシンには決して真似できない、あーちゃんの指先だけが気の遠くなるような時間をかけて辿り着いた、平穏な形そのものだった。 私はジャケットのポケットから、あの十ヶ月の間、ずっと大切に持ち歩いていた、チェリーの「七本目のボールペン」を静かに取り出した。


シューポッ。


 あの、完璧な気圧の抜けるような、一点の引っかかりもない心地よい音とともに、ボールペンは吸い込まれるようにして、あーちゃんの作ったペンスタンドの定位置へと収まった。


「最高のペンスタンドを、本当にありがとう、あーちゃん」


 私の言葉に、あーちゃんは、私がここへ来てから一度も見せたことのないような、これまでで一番晴れやかな、等身大の少女らしい優しい笑みを浮かべて、「ん」と力強く頷いた。


 中標津へと戻る特急列車の窓から、ゆっくりと夕闇に沈んでいく北海道の果てしない大地を眺めながら、私は膝の上で、一冊の本を静かに閉じた。 凪良ゆうさんの『汝、星のごとく』。 愛と呪縛の狭間で、互いの不完全さを認め合い、補い合いながら、誰に強制されるでもなく、自らの足で立って平穏に生きていこうとする、二人の魂の痛烈に美しい歩みを描いた物語。 そうか、私たちは互いの不完全さを認め合い、補い合いながら、夜空の星のように独立して輝けばいいのだ。あの本に書かれていたように――。


 デジタルによってどれだけ世界が広がり、どれだけの数字が私たちの周りを飛び交おうとも、私にとってあーちゃんは、そしてあのソファで煙草を燻らせている七尾さんは、この過酷な世界を共に生き抜く、かけがえのない大切な存在だった。自分の足で立って、誰かのために言葉を削る。その覚悟が、私の胸を静かに満たしていった。



 翌朝、中標津のログハウスに戻ると、ネットを介して繋がった、新しい世界とのさらなる対話が私たちを待っていた。 学生たちが指定した取材時間は午前十時。それは、朝にすこぶる弱い七尾さんが起きて間もない時間だったため、私は朝から気が気ではなかった。案の定、九時五十分になって、ひどい寝ぐせをつけた七尾さんがフラフラとリビングに起きてくる。


「七尾さん、Zoomが始まっちゃうんだから、急いで寝ぐせ直してきてください!」


「あ、アユムさん、俺、顔出しはしないって条件で取材OKにしたから、こちらのカメラはオフにしたいなー」


 眠そうに目をこすりながらそう言う七尾さんの隣で、私はため息を呑み込みつつ、一階のダイニングテーブルの前でノートパソコンの液晶画面に向き合った。こちらのカメラをオフにすると、画面の向こうに映し出されたのは、東京のとある大学の、建築や地域工芸を専攻している学生たちの緊張した顔だった。彼らが進めている「後継者不足の現状と、伝統的な職人の徒弟制度の限界」という論文テーマのために、いまネットで最も注目を集めている七尾工房へのZoom取材の席が設けられたのだ。


簡単な自己紹介をした。


「あの……質問させていただきます」 画面の向こうの、眼鏡をかけた真面目そうな学生が、手元のレジュメを読み上げながら、理路整然とした質問を投げかけてきた。


「歴史的な木工の世界では、昔から『技術は見て盗め』という、言葉にしない不条理な徒弟制度が主流でした。しかし、それは現代の若者たちのコミュニケーションや、効率的な技術継承には合っていないのではないですか? だからこそ、多くの伝統工芸が後継者不足で途絶えているという現状について、七尾さんはどうお考えでしょうか」


 それは、都会のマーケティング視点に基づいた、極めて鋭く、かつ一方的な批判でもあった。進行管理である私が、元コピーライターとしてのスキルを駆使して、マイルドな大人の言葉でフォローの回答を入れようとした、まさにその瞬間だった。 隣に座る七尾さんは、お気に入りのアメリカンスピリットの香ばしい紫煙を天井に向けてふうと細く吐き出すと、画面の向こうの学生たちに向かって、驚くほど穏やかに、しかし断固とした、深く通る声でこう言った。


「うん、そうだねえ。君たちの言う通りかもね。でも、『見て盗め』って言ってる側と受け取る側で、ちょっと解釈が違っているんだろうな。『見て盗め』って言ってる側は、どんなに言葉で説明しても理解できないような繊細な感覚の話をしているから、どうしてもそういう言い方になっちゃうんだよ。でも、言われた側はどこかぶっきらぼうに、雑に扱われた気がして、モヤモヤしちゃう。そのすれ違いが、この問題の正体なんじゃないかと俺は思うんだよね。だからさ、うちの『七尾工房』では、企業秘密なんてものは最初から一切ないし、ノミの研ぎ方からギターの設計図まで、製作工程のすべてをYouTubeで世界中に向けて公開しているよ。わからないことや、知りたい技術があるなら、メールでもコメントでも、何でもいくらでも答える。それこそ、このZoomもそうだよね。何でも答えるから何でも聞いて?それが、うちのスタイルだから」


学生たちが、予想外の回答に、驚いたように画面の向こうで目を見開いた。スピーカーから漏れる沈黙の後、眼鏡の学生がさらに一歩、自身の熱い問題意識を食い下がってきた。


「ですが、すべてをオープンにすることと、技術が伝わることはイコールなのでしょうか。私たちは今、寄木細工の普及や存続について研究していますが、技法をただYouTubeで公開したところで、その奥にある『職人の感覚』までは画面越しでは伝わらない気がするんです。寄木細工のようなニッチな工芸を本当に未来へ普及させ、存続させていくためには、やはり閉じたコミュニティの中で密度の高い時間を共有するしかないのではないでしょうか。ただオープンにするだけでは、伝統の薄利多売になってしまいませんか?」


 その問いは、工芸の未来を心から憂う、学生ならではの切実で真摯な反論だった。マニュアル化できないものこそが職人技の本質であり、それをどう守るか。しかし七尾さんは、真鍮のライターを手のひらで転がしながら、優しく微笑んだ。


「だからこそ、なんだよ。伝統ってそんなに高貴なものなのかな?技術や知識をどれだけ教えたところで、追いつかれないっていう絶対的な自信があるから、全部見せられるんだよね。伝統を守るために必死で囲い込んでいたら、誰もその存在すら知らずに消えていっちゃう。それならさ、俺の動画を見た世界中の人たちが、俺なんかよりも遥かに速い速度で・・・なんなら、早く俺を追い越してもらいたいんだよね。動画を観て、自分でやってみて、壁にぶつかった時に初めて気づくことって、いっぱいあるから。それに・・・俺が知らない新しい技術や普及の方法を、教えてもらえるじゃん? 『え? 俺、全部教えたんだから、今度は君たちが教えてよ?』って言えるよね。ものづくりっていうのはさ、誰かを排除するための境界線を作るんじゃなくて、みんなでそうやって切磋琢磨して響きを繋げていくことだと思うんだよね」


カメラオフのこちら側の気配を窺うように、画面の向こうで学生たちが小さくざわめいた。すると、奥の方に座っていた別の学生が、意を強くしたように身を乗り出してきた。


「ということは、寄木細工の普及を目指している私たちも、オンライン上で七尾さんの弟子になれるということなんでしょうか」


 七尾さんは、カメラの向こうの純粋な熱意に、嬉しそうに目元を和ませて笑った。 「弟子になれる……うーん、それはちょっと違う感じがするかなあ。どっちかってゆーと、趣味の仲間みたいな感じかな? お互いに技術を教え合える関係が、俺にとっては理想んだよね。今、うちにはリアルな『弟子』? がいるけど……あんまり弟子って感じじゃないんだわ。たぶん君たちが思う師弟関係とは、全然違った関係なんじゃないかな。まあ、どっちがいいとかそういう話でもないんだけどさ」


 七尾さんのその言葉を聴いた瞬間、私の胸の奥が、まるで重いタモの天板を叩いたときのような、深い質量を持った残響で激しく揺さぶられた。 都会のマーケティング視点で、フォロワー数やタイアップの価値、PR案件がもたらす経済的な効果ばかりを冷徹に計算し、エクセルの管理表を埋めることで満足していた自分が、ひどくちっぽけで、浅はかな人間に思えてきて、急に恥ずかしくなった。


 この人は、朝が弱くて、納期の管理すらまともにできなくて、ネットでバズったら「ユーチューバーになりたい」なんてバカなことを言ってはしゃいでいるけれど。その魂の根底にある、職人としての、人間としての器と技術の深さは、どこまでも深く、圧倒的だった。 長野の長坂さんの現代的な論理を素真に受け入れ、亡き親友・伊吹敦さんの遺した夢の設計図を背負い、あるいはかつて札幌の職業訓練校で貪欲に学んだCADCAMというデジタル技術や、SNSのバズという時代の荒波さえも、「秘密のない工房」という圧倒的な器で軽やかに乗りこなしていく。


 私はその、大きな背中に向かって、心地よい敗北感を抱いていた。 ああ、私は、この人の製作風景を特等席で観察できる、弟子になって、本当に良かったのだと、心の底から思った。この圧倒的な器を持つ師匠の横で、私は私の言葉を、嘘のない本物の言葉を、これからも愚直に削り続けよう。その覚悟が、私の胸を静かに満たしていった。


Zoomの接続が切れ、液晶画面が静かに暗転した。 作業室の中に、耳が痛くなるほどの、いつもの心地よい中標津の静寂がゆっくりと戻ってくる。七尾さんは、短くなったアメリカンスピリットを灰皿の縁にそっと押し付けながら、ふと私の方を振り返って言った。


「アユムさん」


「何ですか、七尾さん」


「その、アユムさんがさ、中標津に来た日からノートにコツコツと書き溜めてるもの、彼らに見せたら驚くんじゃない?」


七尾さんの言葉に、私は一瞬だけ驚き、それからフッと、今日一番の温かい微笑みを口元に浮かべた。


「彼らが思っているような師弟関係ではないですからね。ガッカリさせてしまうといけないので、見せませんでした」


「あはは、正解だわ。真面目な話して疲れちゃったよ。さて、仕事しますかねー。……あ、もうお昼か。蕎麦でも食べに行くかい?」


私は、自分のチェリー材の看板の塗装のこと、タエさんの裁縫箱の蜜蝋のこと、旭川の現場での十人の呼吸、そしてあーちゃんの展示会のこと、そのすべてが頭の中で美しい一本の木目のように繋がっていくのを感じながら、ノートパソコンをパタンと閉じた。


リビングの白い合皮ソファの上では、この歪で、けたたましく動く最新機械を抱えた工房の、変わらない絶対的な重心として、茶トラのカンナが丸くなって静かに眠っている。そのすぐ壁の向こうには、リボン柄のベースが、冬の静かな光を浴びて、ただ黙って佇んでいた。 窓の外からは、どこまでも乾いた中標津の冬風が、ログハウスを囲むカラマツの防風林を揺らし、白樺の細い枝をさやさやと大きく鳴らす音が、地響きのように優しく届いていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ