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七尾工房、本日も開店休業中。  作者: 七尾 拓哉


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10/12

第10話 旭川の風、十人の呼吸(後編)

 十月の中旬を過ぎると、旭川の街にはいよいよ本格的な冬の足音が近づいてくる。

 大雪山連峰の頂はすでに言い訳の立たないほど真っ白に染まり、朝、東光地区のマンションの窓を開けると、流れ込んでくる冷気には、どこか険しい山の岩肌や冷たい川の匂いがはっきりと混ざるようになっていた。中標津の牧草地を渡ってくる草の匂いの冷気とは違う、内陸特有の、身が引き締まるような冷厳な寒さだ。


 『ゴールデンスランバー』を読み終えたのは、修行五週目に入ったころだった。青柳雅春の逃亡劇に何度も励まされ、最後のページを閉じたとき、不思議な名残惜しさがあった。次に何を読もうか迷って、結局、鞄の底から三浦しをんさんの『舟を編む』を引っ張り出した。出発の朝、七尾さんが「逃げる話ばっかりだと気が滅入る」と言って、ゴールデンスランバーと一緒に鞄にねじ込んできた一冊だった。


 私は毎朝、七時半に工場へ入る前のわずかな時間、その文庫本を開いていた。新しい辞書『大渡海』を編むために、膨大な言葉の海と格闘する風変わりな編集部たちの物語。作中、主人公の馬締は、言葉という捉えどころのないものに対して気の遠くなるような誠実さで向き合い、その意味を定義し、人と人をつなぐ架け橋を作ろうとする。


 ――言葉は、心の中にある不確かな想いを、他人に正しく伝えるための道具だ。


 そのロジックを噛み締めながら、私は工場の頑強な引き戸を引いた。旭川でのレンタル移籍修行も、残すところあと二週間。現場の十人のプロの職人たちの「感覚的な言葉」と、事務室の「数字の言葉」の間の翻訳作業にも、ようやく自分の足元が定まってきたと実感していた頃だった。

 しかし、そんな私のささやかな自信を木っ端微塵に打ち砕くような、最大の試練が修行の最終盤に舞い込んできた。


「橋本くん、ちょっといいかい」


 工場の終業後、代表の立花さんに呼ばれて事務所へ向かうと、そこにはべっ甲縁の眼鏡を曇らせた立花さんと、苦虫を噛み潰したような顔で腕を組んでいる工場長の佐野さんが待っていた。大作業台の上には、これまでに見たこともないような、異様な曲線で描かれた一枚の図面が広げられている。


「札幌の高名な空間デザイナーから、急遽持ち込まれた依頼なんだ。新しくオープンする美術館のロビーに設置する、三人がけの無垢のベンチなんだが……」


 立花さんが困惑したように図面を指差した。


 ナラ材の無垢板を削り出して作られるそのベンチは、座面から脚部にかけて、まるで一本の帯がねじれながら繋がっているかのような、極めて複雑な三次元の流線形のデザインになっていた。

 何より異常だったのは、デザイナーの指示書きだった。


 『強度を保つための補強材(補強桟)は一切露出させないこと。また、座面の厚みは全域で均一に二十ミリを維持し、一ミリの狂いも認めない』


「できるわけねえだろ、こんなもん」


 佐野さんが、低い声で吐き捨てた。その眼光は、いつになく荒々しい。


「二十ミリのナラ無垢板をこれだけねじ曲げて、大人が三人座れば、接合部に凄まじい剪断応力がかかる。補強もなしに作ってみろ、搬入したその日にバキリと割れて終わりだ。木の性質を無視した、紙の上だけの図面だ。こんなの不可能」


 佐野さんの言い分は、職人として至極まっとうなものだった。木はプラスチックや鉄ではない。生きて、呼吸し、常に動こうとする生き物だ。無理な設計は、必ず木を殺すことになる。


 一方で、事務室側からは「美術館の開館日に合わせるため、仕様変更の再設計をしている時間はない。このままの形で、納期通りに上げてくれ」と、切迫した要求が届いていた。


 現場は完全に凍りついていた。「職人のプライドと木の本質」が、「外の世界のデザインとシステム」と、正面から衝突していたのだ。


 私は図面を見つめながら、深く息を吸い込んだ。


 ――デザイナーが本当に表現したかった『意図』は、一体どこにあるんだろう。


 元コピーライターとしての私の思考回路が、旭川の工場の機械音の中でフル回転を始めた。言葉の裏にある形を整理し、両者を納得させる新しいロジックを見つけ出す。それが、私に与えられた翻訳者としての役割のはずだった。


「佐野さん、田端さん。私に、一日だけ時間をください。デザイナーと直接、話をさせてください」


 私の言葉に、佐野さんは驚いたように目を見開いたが、やがて「……好きにしろ」とだけ言って、ぶっきらぼうに背を向けた。


 けれど、事務所を出てからの一晩、私は自分の部屋でほとんど眠れなかった。


 佐野さんの言う「木の性質」と、デザイナーの言う「美しさ」。

 その両方を立てる方法など、本当にあるのだろうか。ノートに何度も図を描いては消し、描いては消した。田端さんが日中話していた「内部応力」という言葉と、佐野さんの「木が眠っている」という感覚的な表現の間を、何度も行き来した。眠れないまま迎えた朝、コーヒーを飲みながらふと目に入ったのが、机に置きっぱなしにしていた『舟を編む』だった。馬締が何年もかけて一つの言葉の定義と向き合う場面を思い出した瞬間、ようやく一つの像が結ばれた。


 強度を「厚みで稼ぐ」のではなく、「見えない場所で稼ぐ」。

 翌日、私は立花さんに無理を言って、札幌のオフィスにいるデザイナーの男性と、オンラインでの緊急会議の席を設けてもらった。

 画面の向こうに現れたデザイナーは、仕立てのいい黒いタートルネックを着た、いかにも理知的で気難しそうな、妥協を許さない目をしている男だった。


『橋本さん、お時間は取らせません。図面通りに作っていただければ、それで結構です。素材の個体差をカバーするのが、旭川のプロの技術でしょう』


 冷淡に言い放つ彼に対し、私は飾りのある言葉を一切削ぎ落とし、ノートを開いて真っ直ぐに伝えた。


「先生。旭川の職人たちは、先生のデザインの美しさに完全に圧倒されています。だからこそ、嘘のない、本物の家具として百年残るものを作りたいと考えているんです。この図面のまま無理にプレスして作れば、搬入後にナラ材はのけ反り、バキリと割れます。それは先生の美学を、汚すことになる」


 デザイナーの男が一瞬、不快そうに眉をひそめた。『では、どうしろと? 厚みを増やしたり、不細工な補強を外側に付けたりするなら、私のデザインは死にます』


「厚みは二十ミリのまま、外側には一切の補強を出しません」


 私は昨夜、佐野さんや田端さんの作業をじっと見つめながら導き出した、一枚の変更提案シートをカメラの前に掲げた。


「座面の裏側に、木目をクロスさせる形で、カーボンプレートを埋め込ませてください。外から見えません。これなら、厚みは二十ミリを維持したまま、構造的な強度は三倍に跳ね上がります。これは田端さんの科学的な計算に基づく数値です。先生が表現したかったのは、『薄さの数値』ではなく、帯が宙に浮いているかのような『視覚的な軽やかさ』そのもののはずです」


 画面の向こうのデザイナーが、じっと私の言葉を、その提案のロジックを噛み締めるように沈黙した。

 黒いタートルネックの肩がわずかに下がるのが見えた。それまで画面いっぱいに張り詰めていた、隙のない緊張のようなものが、ほんの少しだけ緩んだ気がした。彼は手元のペンを取り上げると、何も書かれていない紙の上で、意味もなく芯を二度、三度と出し入れした。誰かに見せるための仕草ではなく、考えごとをするときの癖のようだった。


 コピーライター時代、私はクライアントの無理難題なオーダーに対して、その奥にある『本当の意図』をすくい上げ、誰もが納得するコピーに定着させてきた。今、私がやっているのは、まさにその翻訳作業だった。


 長い沈黙の後、デザイナーの男はペンを置いて、ふっと口元を緩めた。『……面白い。外見を損なわないインレイ補強なら、私の意図は完璧に守られます。旭川の進行管理は、ずいぶんと高度なことをしてくれるんだね』


「ありがとうございます。現場の十人の職人が、一晩で完璧に削り出してみせます」


 会議を終えて工場に戻ると、佐野さんと田端さんが待っていた。私はシートを差し出し、「変更の承諾をもらいました。裏側へのカーボンプレートの埋め込み加工、お願いします」と伝えた。


 佐野さんはしばらく図面を凝視していたが、やがて、その白髪混じりの短髪をガシガシと掻くと、嬉しそうに吠えた。


「よし! 田端、すぐにトリマーの刃を設定しろ! 堀内、極上のナラ材の乾燥ロットを乾燥室から運んでこい! 橋本くんが通したこのロジック、俺たちの腕で完璧に形にしてやるぞ!」


「わかりました!」


 その夜、工場には深夜までまばゆい明かりが灯り、大型機械の爆音が心地よいリズムとなって響き続けた。私は職人たちの邪魔にならないよう、ノギスを持って数値を測定し、エクセルに打ち込むサポートに徹した。十人の職人たちの呼吸が、一つの不可能なデザインを本物の木へと落とし込んでいくその姿は、まぎれもなく圧倒的な「プロの現場」そのものだった。


 翌々日、完成した美術館のベンチは、一切の補強を見せないまま、信じられないほどの軽やかさと頑強さを両立させて、工場の真ん中に佇んでいた。佐野さんが素手でその木肌をなで、「……完璧だ」と静かに呟いた。


 旭川でのすべての工程を終えた最終日、代表の立花さんが駅前のロータリーまで私をセダンで送り届けてくれた。


「橋本さん、二ヶ月間、本当にありがとう。君がいてくれたから、うちの現場は一つ上のステージに行けたよ」


「いえ。私も貴重な体験で大変勉強になりました。ちゃらんぽらんな師匠に、手のひらの上で転がされてましたが」


 私が苦笑いすると、立花さんはべっ甲縁の眼鏡を押し上げながら、「またいつでも来なよ。私は君のことを諦めてないから」と、本当に名残惜しそうに笑った。


 トラベルバッグの中には、約束の旭川ラーメンの生麺(醤油)が三束。そして、読み終えた『舟を編む』が、少し背表紙の曲がった状態で収まっていた。


 中標津へ戻る都市間バスの車窓は、行きとは全く違う表情を見せていた。石北峠を越える頃、空からはチラチラと、今年最初の雪虫のような、白い初雪の結晶が舞い落ちてきていた。旭川の山の岩肌の匂いから、バスが進むにつれて、徐々に私の身体に染みついたあの中標津の草の匂いが、冷気とともに近づいてくるのを感じる。


 五時間の道程を経て、中標津の停留所に到着したときには、辺りはすっかり暗くなっていた。

 バスのステップを降りると、目の前の砂利道に、見慣れた一台の白いビートルがハザードランプを点滅させて停まっていた。


「おかえり~アユムさん」


 運転席の窓が開き、ひどい寝癖を爆発させた七尾さんが、まだろくに目も開いていないような顔で、ひょっこりと顔を出した。


「ただいま戻りました、七尾さん。わざわざ迎えにきてくれたんですか。よく起きれましたね」


「久々に早起きしたよ。…お土産、ちゃんと醤油ラーメンの生麺、ある?」


「ちゃんとバッグに入ってますよ。……相変わらずですね、この人は」


 私はため息をつきながらも、助手席のドアを開けて、懐かしい合皮シートの匂いの中に身体を滑り込ませた。

 ビートルがゆっくりと走り出し、防風林の間の真っ直ぐな道を工房へ向かって進んでいく。助手席の窓を少しだけ開けると、冷たい秋風が、私の頬を優しく撫でた。


 「おかえり」という、七尾さんのその短い一言を聴いた瞬間、私の耳の奥で二ヶ月間鳴り響いていた工場の爆音は、あっけなく消え去り、あのうるさくない、けれど最高に誠実なものづくりの『まどろみ』が、確かな質量を持って私の胸の奥に戻ってきたのだった。


 旭川で得たものは、結局のところ、コピーライターだった頃の自分が信じていた「翻訳」という仕事の輪郭を、木という生き物相手にもう一度、自分の手で確かめ直す作業だったのだと思う。言葉も木も、扱いを誤れば、簡単に壊れる。けれど、本質を間違えなければ、どちらも誰かの暮らしに長く残るものになる。


 翌朝、工房に入ると、壁に見たことがない赤いラメ入りのベースがあった。


「七尾さん、こんなベース、持ってました?買ったんですか?」


「ん? ああ。ちょっと物置から引っ張り出してきてたんだ」


 七尾さんはそれ以上語らなかった。


「珍しいですね」


「まあ、たまにはね。……遠回りしてた時間も、悪くないなって思う日があるんだよ」


 その言い方が、いつもの七尾さんの口癖とは少し違う響きを持っていることに、私は気づかなかった。聞き流して、その日の仕事に取りかかった。


「アユムさん、明日からはちょっと地味な二号機の検証が始まるよー」


「ええ、知っています。私、地味な仕事が一番好きですから」


 私がそう言って少し意地悪く微笑むと、七尾さんは嬉しそうに小さく鼻を鳴らし、アメリカンスピリットの煙を暗闇へと、静かに、優しくくゆらせた。


 中標津の、短くてどこまでも愛おしい風が、二つの並んだ看板の隙間を、音を立てて真っ直ぐに吹き抜けていった。

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