七の花 蒼龍と剣華の答え合わせ
緑の木々を眼下に眺めながら、私は空色の翼を大きく羽ばたかせていく。
「すみません、龍神様。勝手に出ていったのは私なのに、ご迷惑をおかけして」
花嫁姿のリサーは、腕のなかにしおらしくおさまっていた。反省しているのもあるが、空を飛ぶ感覚に慣れず、怖がっているようだ。
「そんなことは、どうだっていいんだけどさ」
低い声で語りかけたところ、彼女は気まずそうに目を伏せる。
私はというと、いつもと雰囲気の違うリサーの姿に、胸をかき乱されていた。
凛々しい女剣士の装いも魅力的だが、今のリサーは息を呑むほどに美しい。
はっきりとした目鼻立ちを包み込むように、やわらかな化粧が施されており、それが彼女の女性らしさを引き立てていた。
桃色の頬紅が、陶器のようなきめ細かい肌に、淡い色彩を落としている。赤茶の紅を差された唇は、さくらんぼのように瑞々しくうるめいていた。
彼女を抱く腕に熱がこもる。私が捕らえたのは、狐族のなかでも一番高貴な少女なのだ。
ああ、だからこそ! 彼女を無理矢理娶ろうとしたウゥルの存在を思い出すたびに、はらわたが煮えくり返っていた。
体の向きを変え、静かに森へ降り立つと、リサーは戸惑いながらも私から離れていく。
「龍神様、どうかなさいましたか?」
「ねぇ。あれは一方的に、キスされたんだよね!?」
「……はい?」
両肩を掴まれたリサーは、かけられた言葉が理解できないとでもいうような、不思議な表情を浮かべている。
「見ちゃったんだ、ウゥルと口付けしているところを。……いや、やっぱり話さないで! あんなの、思い出させたくもない」
狐族の里で見た、祝言の光景が今も目に焼きついていた。
参列者たちに見守られながら、あの男はリサーを引き寄せ、唇を奪ったのだ。
「ごめんね? もっと早くに駆けつけられたらよかったんだけど」
「えっ。違います、ウゥルは……んんんっ!?」
有無を言わさずに、袖口で何度も唇を拭うと、リサーはぎゅっと目を閉じた。
「リサーの気持ちを無視したまま、キスするなんて。本当に最低だよ! 凍らせるついでに、腕の一本でも落としておけばよかったかな」
「っ龍神様……! あれはただの儀式で」
「儀式だとしても、リサーはキスするつもりなんかなかったでしょ?」
「違うんですって。お神酒を飲まされそうになっていただけで、私、ウゥルとキ、キスなんてしてませんから!」
「え」
ぴたりと手を止めると、口紅のよれたリサーが、必死にこちらを見上げている。
「っごめん! どうやら、盛大に勘違いしてたみたいだ」
恥ずかしいほどの思い込みに、一気に顔が熱くなる。それと同時に、彼女がウゥルに穢されていないことを知り、心の底から安堵していた。
私の考えを察してか、リサーは遠慮がちに口を開く。
「まだ誰とも、口付けはいたしておりませんので」
上目遣いがなんとも扇状的で、私は必死に視線を逸らした。
そのまま見つめていれば、彼女のことを、欲情のままに抱き潰してしまいそうだったから。
私は目を泳がせながら、必死に話題を変えた。
「昨晩のことも、本当に申し訳ない。嫌だったよね? 寝室に女性を連れ込まれて」
「でもあれは、龍神様がお呼びになったわけではないですし。それに私が怒ったのは、どちらかというと、龍神様がご自身の体を、大切にされていないのが嫌だったから」
「うん?」
どういうことだろうか。リサーはてっきり、女性関係にだらしのないところに、嫌気がさしたとばかりに思っていたのだけれども。
「龍神様は私に、好きな相手と結ばれてほしいと願ってくださってますよね。それと同じです。私だって、あなたに幸せになってほしいと思っているんです」
「なら、君が幸せにしてよ」
反射的に言葉を漏らしてしまっていたことに、しばらくしてから気づく。
なにを言ってるんだ、私は!?
彼女を縛りつけてはいけない、足枷になどなりたくないと願ってきたはずなのに。無意識のうちに、本音をこぼしてしまうとは。
「……なーんてね! 冗談だよ?」
「ごまかさないでください!」
リサーは悲しげな面持ちで、私の胸に飛び込んできた。
「ちょっ、リサーちゃん!?」
うつむいたままでいる彼女の、表情をうかがい知ることはできない。代わりに震える声が、小さな体から発せられる。
「私、これまで自分の気持ちが、よく分からなかったんです。でも、あの女の人が龍神様にまたがっていた時、本当に嫌だって思ったんです。やめてほしいって思ったんです!」
こちらを抱きしめるリサーの腕にも、だんだんと力がこもっていく。
「里へ帰って、一人になって。改めてちゃんと考えました。私がそうなったのは、あなたのことを、好きだからかもしれないって」
『好き』という言葉に、どきりと胸が跳ねる。
落ち着くんだ、まずはゆっくりと息を吸おう。これは友愛とか親愛とか、そういった類のもの。
空色なだけの私に、好きになってもらえる要素なんてないのだから。
リサーはそっと腕をほどき、身を固くしている私から距離をとる。
「信じてください」
「誤解だよ。君が私に懐いたのは、狐族の仲間たちとは違って、欲しい言葉をかけてくれる相手だったからだ」
「龍神様」
物言いたげなリサーを、私は片手で制する。
「私は君が思っているほど、立派な存在ではないんだ。神になれたのだって、たまたま青い体で生まれることができただけだし。君に優しくしたのだって、空っぽな中身を誤魔化すためで」
どす黒い感情が、喉の奥から溢れ出す。リサーは辛そうに眉を下げているが、止めることはできなかった。
「本当の私は、ちっぽけで情けなくて。それでいて、欲望だけは人一倍強いんだよ。早く離れたほうがいい。今のリサーはきっと、生まれたての雛が、初めて見たものを親と思い込んでいるようなもので」
「そんなんじゃないです!」
リサーの声が、鋭く森に響いた。
「なんでそんなに、ご自身を卑下なさるのですか! 私があなたに惹かれたのは、性別や尻尾の数ではなく、ありのままの『私』を見てくれたからです」
それから苛立たしげに、角隠しを地面に叩きつける。
「ヴィート様だって、マリーナさんだって。“空色の龍”だから、おそばにいたいわけじゃないですよ! あなたが素晴らしい人だと分かっているから、誠心誠意お仕えしているのでしょう!?」
その言葉を聞いて、胸が激しく鳴り始める。青い体だけではなく、私自身にも価値があると、この子は言っているのか?
リサーは威勢よく言い切ったところで、なぜか目を逸らしてくる。
「ですが、私は……純粋な気持ちだけで、おそばにいたわけではないかもしれません。誰よりも近くで、龍神様の心を独り占めにしたいなんて、そんなの……ただの護衛が抱く感情ではないですから」
彼女は震える手で、私の袖をきゅっと握りしめた。
「龍神様のお体に触れるのは、私だけがいいんです。龍神様が求めるのも、私だけにしてほしいんです。それが龍神族の女人たちから、反発を招くことだとしても」
リサーは勢いよく、こちらを見上げる。
「ですから今度は、龍神様の素直な気持ちを聞かせてください!」
「私の……気持ち?」
「先ほどは勘違いとはいえ、ウゥルのしたことを、本気で怒ってましたよね。それはあなたが、我々を管理する神だからですか? それとも……ちょっとぐらいは私のことを、意識してくださっていますか?」
掠れた声が脳に突き刺さる。揺れる瞳は、不安げに私だけを見つめていた。
「期待してもいいですか。龍神様も、私と同じ気持ちかもって」
「ちょ……っと待ってくれない!? あまりにも予想外で、頭が追いついてないんだ」
慌てて吠えると、彼女はしょんぼりと尾を垂らしてしまう。
「そう……ですよね。そんなわけないですよね! ご不快な思いをさせてしまい、深くお詫び申し上げます」
「ちょっと、やめてよ!」
丁寧に頭を下げようとするリサーの肩を、慌てて両手で押さえる。
ああもう! どうしてこの子は、ゼロか百かでしか物事を捉えられないんだろう。
「違わないさ。嫉妬したよ! リサーに迫っているあいつを見て、ぶん殴ってやりたくなった! リサーの愛らしい唇が奪われたと思うと、頭のなかがぐちゃぐちゃになって」
私は彼女の顔をあげさせると、そっと下唇に触れた。紅が落ちたはずの花片は、ありのままの紅梅色に艶めいている。
そのまま親指を差し入れると、三角耳がぴくんと反応した。
「あいつの跡が消えるまで、何度も何度も、この唇にかじりつきたいと思ったよ」
ざらりとした舌先に指を押し当てる。彼女は息を漏らしながら、瞳を閉じた。
とろけるような表情に、わずかな罪悪感を覚えつつ、そっと手のひらを遠ざける。
「ごめんね。さっきも言ったけど、純粋な君とは違って、私は欲に塗れてるんだよ」
高鳴る鼓動を押し殺すように、早口で続ける。
「だから、変に刺激しないでくれ。私は私なりに、君を大切にしたいと思っているんだから」
「龍神様」
濡れた目が、縋りつくように私を捉えていた。
「お願いだ、そんな顔で見ないでおくれ。理性が保てなくなる」
「やめないでください」
消え入りそうな訴えが、耳に届く。
「私にも欲はあります。今だって、もっと触れてほしいと願っています。ですからどうか……龍神様のお心のままに」
目の前に立つ彼女は、勇敢な女剣士であるはずなのに。
小刻みに震える肩や、怯えながらも必死に愛を伝える姿は、一人のか弱い少女にしか見えなかった。
爽やかな薫風が、木々の間を流れる。
「そんなに煽って、どうなるか分かってるのかい?」
頬に手を添えると、リサーは自分の鼻先を、やわらかく手のひらに擦りつけてくる。それが狐族の求愛行動だというのは、彼女自身が告げていたことだった。
こちらの様子をうかがっているリサーを、私は黙って見つめ返す。
あの幼馴染は、たしかこの子に色気がないと話していたっけ。リサーの魅力に気づけないなんて、本当に見る目のない男だ。
女豹のような、しなやかな身体つき。腰回りは驚くほどに細く、さらしの下にはふくよかな胸が隠されていることにも、うっすら気がついていた。
狂おしいほどに恋い慕っている私の心内など、ウゥルはいつまでも理解できないのだろう。
指先で鼻筋をなぞると、彼女はきゅっと目を細める。
「嫌なら、そう言うんだよ」
短く唇を重ねると、彼女の体は電気でも走ったかのように、ふるふるっと細かく揺れた。
「……りゅうじん、さま」
「うん?」
か弱い声が、二人の間にこぼれる。
「嫌じゃない……ですよ?」
リサーは口づけを反芻するように、指で唇をなぞっていく。
無自覚であろう色めかしい動作に、どうしようもなく気が昂る。
私は無言のまま、リサーの腕を引き、強く唇を重ねた。突然の出来事に目を瞬かせていた彼女も、大人しく目を閉じ、こちらへ身を任せてくる。
「ふ……はぁ、んっ……」
息を継ぐ間も与えず、口づけを重ねていく。貪るような触れ合いの狭間に、リサーの甘い声が時折あふれ出る。
身をよじりながらも、懸命に応えようとする姿がいじらしくて愛おしい。
腰へ添えた手に力を込め、角度を変えながら、幾度も唇を落としていく。
「は……ぁ。龍神様、私、こういうの初めてで……」
彼女の口から熱い吐息が漏れた。力が抜けてしまったのか、耳をへたらせながら、必死に胸元へしがみついてくる。
ちょっと、やりすぎちゃったかな? 腰砕けになっているリサーを抱き止め、赤く染まった頬に、優しいキスをする。
「好きだよ、リサー」
「ふふっ。私もです」
それから彼女は、私の鼻先をぺろりと舐め、嬉しそうに微笑んだのだった。




