六の花 狐の嫁入り
まだ空の明るい、黄昏時。狐族の里では、時間外れの祝言が執り行われていた。
「おい! 酒はこないのか!?」
隣の席では、ウゥルが腹立たしげに腕を組んでいる。
窮屈な胸元を抑えながら、リサーは細い息を吐く。白無垢に角隠しといった装いで、“花嫁”は下座に収まっている。
前触れもなく帰郷したというのに、周到なものだ。とはいえ周囲では、慌ただしく支度をする狐族の女性たちが走り回っている。
おそらく、この機を逃すまいと考えたウゥルが、無理に式を強行したのだろう。
本当に自分勝手な男! でも、勝手さでいえば、私も似たようなものかもしれないわね。
勢いのままに里を飛び出して、のうのうと戻ってくるなんて。
家族たちは深く追及せずに、黙って私を受け入れてくれた。次期族長という大役を投げだしたことに関しても、なんら咎めは受けなかった。
本当に、私は恵まれているのだろう。
耳を覆うように被せられた角隠しが、どうにも馴染まず気持ち悪いのだが、ウゥルの声を聞き流すにはちょうどよかった。
リサーはぼんやりと、昨晩の出来事を思い返す。別れ際に龍神様がのぞかせた、切なげな表情がずっと忘れられないでいた。
まるで置き去りにされた幼子のような、今にも泣き出しそうな瞳。
あの人は全てを持っていて、女性に困ることだってないはずなのに。どうして、あんなにも寂しそうな目を、私に向けたのだろう。
青色の髪と、線の細い後ろ姿を思い返し、きゅっと胸が痛くなる。
「姉上。本当にこれでよかったのですか?」
そっと耳打ちしてきたのは、黒紋付に身を包んだ、弟のレムートだ。
「いいのよ。遅かれ早かれ、私は夫を迎え入れないといけないんだから」
狐族の長として、そして、九尾の血を繋ぐための歯車として。
三つ目の尾が生えたあの時から、私の未来は決まっていたのだから。
「もう、期待などしないの」
自分に言い聞かせるように呟く。
長い人生のなかでは、龍神様と過ごした時間など、ほんの一瞬にすぎない。
いっそ忘れてしまったほうが、楽になれるだろう。柔らかい唇の感触も、温かい手のひらも、全てなかったことにすれば。
それなのに、どうしようもなく彼のことを考えてしまう。
自由気ままに振る舞っていて、冗談は過剰で。でも、誰よりも私を見てくれていた空色が、目に焼きついて離れない。
ぼーっとしている婚約者を横目に、ウゥルは舌打ちをする。
「おい、リサー。早くとれよ」
いつのまにか、三献の儀に用いる赤い盃が、目の前に運び込まれていた。
リサーが小さな盃を持ち上げた途端に、澄んだ御神酒が、小刻みに注がれていく。
手順に則り、三つの盃を酌み交わせば、ウゥルとは夫婦になる。そうすれば、族長になる日を待つこともなく、房事も始まるのだろう。
盃の底で揺らめく『寿』を眺めながら、リサーは躊躇いを隠しきれないでいた。
「あぁもう、うざったい! 盃をよこせ!」
ウゥルは盃を引ったくると、空いている左手で、リサーの後頭部を思い切り掴む。
「なに……すんのよ!?」
「自分で飲めねぇなら、俺が飲ましてやるよ!」
そう言うと幼馴染は、無理やり口元へ盃を運ぼうとしてくる。
こいつなんかより、私のほうが体を鍛えてきたはずなのに。リサーが何度引っ掻いても、ウゥルの左手は頭から離れそうにもない。
「ウゥル様。リサー様がご自身でなさらないと、儀式として成立しませんよ!?」
「うっせえな。要は、酒を飲みさえすればいいんだろ!?」
顔を逸らしたリサーの頬に、ぐいいと盃が押しつけられる。
「無駄に抵抗すんじゃねえよ。お前はもう、俺に飼われるしかないんだから!」
「うぅ……!」
悔しくて仕方がなかった。必死に生きてきたはずなのに、こんな男の言いなりになるしかないなんて。
視界が薄ぼんやりと、涙で揺れ始めた時。
「ねぇ、なにしてるのかな」
低く落ち着いた声が、辺りに響く。それと同時に、驚くほどの冷気が部屋を包み込んだ。
「うわっ!?」
ウゥルは大声を上げながら、リサーを突き飛ばす。
「痛っ! なによもう!?」
床に手をついたリサーが、抗議の声を上げ、それから──目の前の光景に息を呑んだ。
「ウゥル!?」
婚約者の体は、首から下がすっかり氷漬けになってしまっているではないか。
私に飲ませようとしていた酒さえも、盃とともにウゥルの手のなかで固まっている。
「誰が、誰に飼われるんだって?」
冷ややかな声がけとともに、薄氷を踏む音が鳴った。
あのお方はいつも、私に穏やかな優しい口調で話しかけてくださっていたから、すぐには気づくことができなかったけれども。
「龍神様……?」
リサーの言葉で、来訪者はわずかに体を強張らせる。
突如現れた龍神に、場は騒然としていた。神は全身に氷をまとっており、足を踏み出すたびに、ぱりぱりと床が凍りついていく。
「りゅ、龍神様! 俺たちは、婚礼の儀を執り行っているだけです!」
動かない体で、ウゥルは必死に訴える。
「おい、リサー! お前もなんとか言えよ!」
ウゥルの言うとおり、私たちは祝言をあげようとしていただけだ。そう伝えれば、誤解は解けるだろう。
でも龍神様の強い眼差しが、氷壁のように青く透き通った瞳が、私を捉えて離さない。
龍神様は私だけを見つめながら、そっと囁きかけてくる。
「それは君の意思かい?」
まるで氷の化身のような、神々しい姿に目を奪われながらも、私は首を振った。
「どうしてほしい? リサー」
全てを見透かす、熱い眼光。気がつくと、私は涙ながらに答えていた。
「助けて、龍神様」
「……うん。よく頑張ったね」
龍神様は部屋中に吹雪を舞わせたかと思うと、次の瞬間には私を抱き抱え、凍りついたウゥルの膝に右足を載せていた。
「うっうわああああぁ!?」
ウゥルが情けない声を上げる。龍神様が本気を出せば、凍った体を簡単に蹴り砕くことができるだろう。
そのままの格好で、龍神様は参列者たちをぐるりと見渡した。
「狐族の民よ、よく聞くのだ。私はまだ、リサーを長とは認めていない。ゆえに、このような儀を執り行うことは許さない」
「「は……ははぁー!」」
みんなが恐れをなしながら、床に頭をこすりつける。
「リサーは連れて帰る。その間に、そなたらは考え直すべきだ。里を率いるべき者の素養とは、なんなのか。そして長の番に、なにを求める必要があるのかを」
龍神様はウゥルに目線を移し、ぼそりと吐き捨てた。
「少なくとも、伴侶の心さえ得られぬ男が、民を束ねることなどできないだろうと、私は思うけどね」
それから龍神様が手を伸ばすと、橙色の火玉が出現した。まるで太陽のように、火玉は部屋じゅうの氷を溶かしていく。
蒼い龍は、天候を自由に操るといわれている。龍神様に抱かれながら、私は誰よりも近くで術を見守っていた。
これこそ、まさに『神業』ね。壮大な光景に見とれていると、龍神様は宙に浮いていた火玉をぎゅっと握り、温もりを消し去ってしまう。
「そろそろ帰ろうか」
「でも、龍神様。ウゥルの体がまだ凍ってますけど」
「あんなの、どうとでもなるでしょ」
龍神様は興味なさげに呟き、それから背中に空色の翼を出現させた。
春空を染めているのと同じ、柔らかな青のいろ。
「龍神様って、龍の姿じゃなくても翼が出せるんですね」
「リサー、しっかり掴まってて」
「はい? ……きゃああぁあー!?」
翼のはためきに合わせ、突風が巻き起こる。冷たい風は、障子扉を吹き飛ばし、夜空へ舞い上がらせた。
「今日のうちに、宮殿へ帰ろうね」
私の体を強く抱きしめ直すと、神は天高く飛び立っていったのだった。




