四の花 危うい恋慕と離れゆく心
その晩、私は寝台に横たわりながら、静かにリサーを見つめていた。
彼女はいつも通り、円形のふわふわとしたラグマットの上で、ちょこんと三角座りをしている。
夜中の警護も申し出てくれたリサーには、寝台を用意したいと何度も伝えてきたのだが、頑なに聞き入れてもらえないでいた。
代わりに彼女が求めたのが、あの小さなラグマットだ。
リサーは満足しているらしいのだが、広いベッドに一人で寝転んでいると、なんだか申し訳ない気持ちになってしまう。
彼女はいつのまにか、寝間着に着替えていた。上下に分かれた白の民族衣装。綿地の布と紐だけで作られた、とてもシンプルな装いだ。
いつもの着物もよく似合っているが、この格好のほうが、背伸びをしない年相応の幼い娘に見えて、なんだか安心できた。
リサーの寝ている姿は、滅多に見ることができない。けれども尻尾を抱え、くるんと丸まって眠る姿がかわいいのは、私だけの秘密にしている。
外はよく晴れているらしい。月明かりが蛋白石を含んだ壁に反射して、きらきらと揺らめく。
この宮殿は、山の斜面を掘り進めて作った場所だ。たいていの部屋に窓はないが、龍神の私室には、外の様子をうかがえる大窓がいくつも取りつけられていた。
リサーはどこか上の空な様子で、窓枠に収まった月を見上げている。おそらく、久しぶりに再会した婚約者たちに、思いを馳せているに違いない。
自分には向けられることのない表情に、どうしようもなく胸がざわつく。
「あの許嫁とは、ずいぶんと親しい様子だったね?」
「ああ。ただの腐れ縁です」
ようやくこちらを見たリサーは、心の底から嫌そうな顔をしていた。
「あいつは誰よりも早く、二つ目の尾が生えましたから、自分が九尾になると信じきっていたんでしょう」
「そうなんだ」
「仕方がないですよね。二尾では長になれない。それが、狐族の掟ですから」
リサーを苦しめている不条理な掟。けれどもその掟のおかげで、ウゥルが長になるのを防げているのだ。
ほんの少しぐらいは、かつての龍神様に感謝をしたほうがいいのかもしれない。
「ウゥルも馬鹿よ。悔しいからって、あんな嫌がらせをするなんて」
リサーのこぼした呟きに、引っかかりを覚える。やはり彼女とウゥルの間には、関係を悪化させる決定的ななにかがあったのかもしれない。
「ちょっとこっちにきて、リサーちゃん」
龍神に招かれたリサーは、だだっ広い寝台の端に、ちんまりと正座をする。
「ウゥルになにをされたの?」
四つ足でそばに寄ると、彼女はうぅんと唸りながら、不満げに口を開いた。
「三尾になった日の晩、あいつは私の寝室に忍び込んで、無理矢理襲おうとしてきたんですよ。引っ掻いて返り討ちにしましたけど」
「……なにそれ」
あの男の顔に残っていた、真新しい傷跡はその時のものだろう。胸のなかに、どろりとした醜い感情が湧き出す。
「ねぇ、詳しく話して」
ぐらぐら揺れる腹の内など知らぬ少女は、私の真剣な目に戸惑いながらも答えた。
「鼻先を合わせたり、甘噛みしてきたり? あいつにできる求愛行動なんて、その程度のものですよ」
軽い返しに、思わずため息をつく。未婚の女性の寝室に、男が忍び込むという重みを、この子は本当に分かっているのだろうか。
「大丈夫ですよ、それ以上のことはされていませんから」
「あのさ!」
私の怒鳴り声に、リサーはびくりと飛び上がる。
「普通は恋愛感情もなしに、そんなことしないじゃない? ほら、例えばさ」
リサーの手をとり、鼻先をこすり合わせると、彼女は目を点にしたまま固まってしまった。
「あとはなんだっけ、甘噛み?」
「ひゃっ!?」
優しく指先を食むと、リサーの耳と尾がぴんと立ち上がる。
「ね。好きでもない男に、こんなことさせちゃ駄目なんだよ。分かった?」
「は、はい。分かりました!!」
彼女は真っ赤になった顔を隠すように、尻尾を両腕で抱えたのだった。
「ごめんね、嫌だったよね。拭いてあげるよ」
ハンカチを見せると、彼女は尻尾で顔を隠したまま、おずおずと手を差し出してくる。
これは、意地悪をしすぎてしまったかもな。細い指を拭いながら、少しだけ反省する。
「もうなにもしないから。そろそろ寝よっか?」
「あっ、あの。龍神様!」
布団に潜り込もうとしていた私を、リサーが引き止める。
「ん? まだなにかあった?」
ようやく尻尾を手放したリサーは、耳の先まで真っ赤に染めながら、ふるふると唇を震わせていた。
「私、嫌なんかじゃなかったです。ウゥルの時とは違って、龍神様のは。ええっと、自分でもよく分からないんですけど」
初心な少女は、己の感情も理解できぬままに話し続けている。とにかく『不快感はなかった』と伝えたいらしい。
「……ほんとですよ?」
リサーの潤んだ瞳がこちらを見上げる。
瞬間、胸が跳ねた。ああ、これはダメなやつだ。
上気した頬と、熱を帯びた吐息。加えて暗がりの寝室という状況に、どうしても勘違いしてしまいそうになる。
へたり込んだ耳に、噛みつきたくなる衝動を抑えながら、私はいつもと変わらぬ笑顔を貼りつけた。
「そっか。お世辞でも嬉しいよ、ありがとう」
「は、はい」
リサーは混乱しながらも、大人しくマットのほうへ戻っていったのだった。
布団にくるまりながら、一人考え込む。間違いなく、私は彼女に惹かれ始めていた。
純粋なところも、かわいらしいところも。騎士としての誇り高い志も、時折見せる繊細な一面さえ、私を惹きつけてやまない。
もし私が、彼女をそばに置きたいと言えば。リサーの枷となっている掟をはねのけ、『狐の女帝』への道を断つこともできるだろう。
『龍神』であれば、望む者をいくらでも手に入れられるのだから。
ああ、でもそれは。彼女を縛りつけようとしている狐族と、なんら変わりないのでは?
悪い誘惑から逃れるように、私は夢の世界へ逃げたのだった。
すぐに現れたリサーは、私に鼻を擦りつけ、柔らかい体を惜しまず寄せてくる。
こんなに都合のいい展開が、あるはずもないのに。頭ではそう分かっていながらも、昂りに任せ、熱い口づけを幾度も交わす。
彼女を縛りつけたくはない。それでも、求めずにはいられなかった。
いっそリサーが、本当に私を望んでくれれば、……どれほど幸せだろうか。
彼女の唇に舌を差し込もうとした、まさにその時。
「──この、不届者めぇ!」
「えっ、なになに。どうしたの!?」
リサーの怒号とともに、寝台が大きく揺れ、私は飛び起きた。
「いっ痛い痛い痛いー! やめなさいよ、狐風情が!」
どこからか、女性の叫び声が響いた。
慌てて明かりをつけると、リサーは床の上で、なにかを組みしだいているようだ。どうやら捕まっているのは、メイド服に身を包んだ女性らしい。
「あれ? 君はもしかして」
リサーに取り押さえられたまま、バタバタと暴れている相手には見覚えがあった。彼女は、宮殿に勤めている侍女の一人だ。
「なにをしようとしていた! こんな夜中に、龍神様の寝所へ忍び込んで!」
リサーは素早く短剣を生成し、彼女の首元へ突きつける。
「ヒッ! 私はただ、子種をもらおうとしただけよ!」
「……なんだって?」
予想外の返しに、リサーは眉をひそめながら、侵入者を見つめ直す。
「龍神様はずっと、私たちみんなを受け入れてくださっていたのよ! なのに、ぽっと出のあんたが龍神様を独占して! 自分だけが特別だと思っているの? そんなわけないじゃない!」
「ちょっと待って。本当に、なにを言っているのかが分からないんだけど……」
「もういいよ、リサーちゃん。その子を離してあげて?」
困惑した表情の護衛から短剣を受け取ると、私は侍女に顔を近づけた。
「驚かせて悪かったね、君の気持ちもよく分かったよ。だけど、今日のところは帰ってもらえるかな? 本当にごめんね」
リサーは私たちを見つめながら、魂を抜かれたかのように呆然と立ち尽くしている。
「グスッ……いいえ、分かりました。また日を改めます」
侍女は最後にリサーを睨みつけてから、部屋を後にしたのだった。
「ごめんね、リサーちゃん。今日は扉に鍵をかけておこうか」
彼女の手に短剣を握らせると、それまで放心状態だったリサーが、あわあわとうろたえ始める。
「待ってください、龍神様! あの使用人に、罰を与えないのですか?」
「うん。そうだけど」
「どうしてですか!?」
食い気味な問いかけだ。適当にごまかしても、彼女は納得しないだろう。
あまり生々しい話を、リサーには聞かせたくなかったんだけど。
「嫌なものを見せちゃったのは、申し訳ないと思ってるよ。でも子孫を残すために、彼女たちも必死なんだ。次の龍神の母になりたいと考えている娘は、とても多いからね。だから、大目に見てあげてくれないかな?」
青い龍は遺伝に関係なく、龍神族の赤子として突発的に現れるものである。とはいえ、龍神と子を成せば、次代の神を産み落とせると信じる層も一定数いた。
先ほどの侍女も、そのような期待を胸に、ここへ忍び込んだのだろう。
「だからって、あのように一方的な行為を、龍神様は受け入れてこられたのですか?」
リサーの声は静かに震えていた。自分のことでもないのに、なぜか彼女は憤っているようだ。
「それが、民の望みだから」
私はいつもと同じ、龍神らしい平穏な笑みを浮かべた。もうずっと、長い間そうしてきたように。
しん、と部屋が静まり返る。
彼女とて、掟に縛られる狐族の一員。自分ではどうしようもないことだと、理解してもらえるだろう。
けれどもリサーは、ひどく傷ついたように顔を歪めた。
「……もう遅いよ? リサーちゃんも体を休めないと」
彼女の背に手を伸ばそうとすると。
「っ触らないで!」
ばちん、と痛みが走る。右手を振り下ろしたリサーの、完璧な平手打ちが頬に入っていたことに気づいたのは、その数秒後だった。
「見損ないました。龍神様はウゥルとは違うって、信じてたのに……」
黄茶の澄んだ瞳から、一筋の雫が流れ落ちる。
「リサーちゃ」
「こないでください」
主人の言葉をぴしゃりとはねつけたリサーは、普段着の着物を引っ掴むと、窓辺まで軽々と飛び上がった。
「お世話になりました。もう、ここへは戻ってまいりませんので」
それまでに聞いたことのない、冷ややかな声。彼女は窓を開け放つと、引き止める間も与えずに、夜の森へ姿をくらませたのだった。




