第8話 十七分の空白
十七分。
その数字だけが、タグより重く見えた。
タグ修理工房の作業台には、ネジ皿の金属粉と、透明な袋に入った片方だけの新人用手袋が残っている。端末の赤枠は、まだ【本人確認添付:なし】に重なったままだった。
救護局の有馬千尋が端末に指を置いた。
「提出時刻前後の入退室ログと、搬送ログを照合します」
俺の視界に、白い札が下がる。
『提出者照合』
『入退室ログ確認』
『搬送経路照合』
画面に、時系列の線が引かれていく。
【帰還処理:完了】
↓
【配信終了/配信外区画へ移動】
↓
【探索後処理責任者入室:配信外区画】
↓
【搬送カート通過】
↓
【タグ提出:代理提出】
【本人確認添付:なし】
十七分は、まっさらな空白のはずだった。
その中に、入退室の記録が一本だけ立っている。
「空白じゃないですね」
表示を見たまま、続ける。
「誰かが動いてます」
黎明の剣の運営マネージャー、真壁慎吾が口を開いた。
「処理責任者個人を責める話ではありません。当日は複数案件が重なっていました」
「責任の話は後でいいです。今は、その十七分の処理先を見ています」
「入退室ログは内部管理です。外部委託者に見せる範囲では――」
「閉じるなら両方閉じてください。開くなら両方開けます」
真壁の口が止まった。
「片方だけ使って、片方だけ閉じるのは扱いが変です」
有馬が端末を操作する。
【入退室ログ:救護局照合】
【外部閲覧制限】
【照合結果のみ共有】
「灰崎さんには、照合結果のみ共有します」
「十分です」
端末の時刻欄が拡大された。
帰還処理完了の三分後に配信が終了し、さらに二分後、配信外区画への入室記録が残っていた。そこから搬送カートが通過し、タグが代理提出されている。
全部合わせて、十七分。
「……十七分って、意外といろいろ運べますね」
誰も笑わなかった。
まあ、いい。
現場へ移動した。
黎明の剣の帰還口では、明るい配信エリアの床に白いラインが光っていた。撮影用の照明、探索者のロゴパネル、戦利品を見せるための台が並んでいる。
配信のために整えられた場所だ。
そこを抜けると、床の色が変わった。
壁に古い表示がある。
【配信外/関係者区画】
天井の配信ドローンは、境界の手前で止まって旋回していた。ここから先へは入らない。
「ここ、配信ドローンが入らない区画です」
氷室玲奈が、廊下の奥を見たまま言った。
「この先は、配信ログに残りません。……その時間、配信も切れていました。私は、この廊下には入っていません」
「じゃあ、別のログを見ます」
有馬が防犯映像を呼び出す。
粗い画面に、暗い廊下が映った。
防犯映像には音がなかった。
配信アーカイブなら、歓声も、足音も、誰かの笑い声も残る。この映像には、手だけが残っている。
タグケースを持つ手、入退室端末にカードをかざす手、搬送カートを押す手。
最後に、提出カウンターへタグを置く手。
画面の端に、白く汚れた搬送カートが通った。縁に、薄い膜のような跡が残っている。
有馬が映像を止めた。
【搬送カート通過:記録】
【配信外区画入室:記録】
【タグケース移動:処理責任者登録証と一致】
真壁の端末が、短く震えた。
彼は画面を見たあと、廊下の奥へ視線を向ける。
「佐伯を呼んでいます」
名前が出ると、玲奈の顎が少し上がった。
「佐伯さんが、タグを?」
「照合上は、そうです」
有馬が答える。
真壁はすぐに口を挟んだ。
「代理提出は珍しくありません。現場が詰まれば、処理責任者がまとめて提出することもあります」
「珍しいかどうかは、まだ見てません」
俺は防犯映像の停止画面を見る。
タグケースを持つ手。その手首に、処理責任者用の登録バンドが映っている。
「預かったなら、誰から預かったかを見ます」
廊下の奥から、男が来た。
佐伯直人。
黎明の剣の探索後処理責任者。
使い込まれた作業手袋に、擦り切れた袖口。目の下には疲れが溜まっている。俺と同じで、廃棄袋とタグを毎日触る側の人間だった。
佐伯は、仮置きカウンターに置かれた証拠袋を見た。
片方だけの新人用手袋。
その上のタグ。
目が、そこで止まった。
「……代理提出は、珍しくありません。現場が詰まっていたので、こちらで預かりました」
「誰から預かりました?」
「そこまでは、覚えていません。搬送が重なっていたので」
「本人は見ましたか」
佐伯は一度、唇を結んだ。
「帰還済みになっていたはずです」
「本人を見たかどうかを聞いています」
佐伯は答えなかった。
真壁が前に出ようとする。
「灰崎さん。現場では、すべての本人確認を処理責任者が直接行うわけでは――」
「以後、黎明の剣側の発言は記録対象にします」
有馬が言った。
真壁の足が止まる。
有馬は端末に目を落とす。
【発言記録:開始】
【対象:黎明の剣・探索後処理関連】
佐伯は、自分の手袋を一度見た。
「本人確認済みのタグを預かった。それで処理しました」
「本人確認添付、ありません」
「簡易確認で通っていたなら、現場ではそのまま処理します」
「そのまま処理したタグの留め具が、なぜ替わってるんですか」
佐伯はタグを見た。
それから、自分の手袋を見る。
作業手袋の袖口に、蛍光灯の下で鈍く光る粉が少し見えた。修理工房のネジ皿で見た色と似ている。
まだ、確定じゃない。
似ているだけだ。
だから札を見る。
『提出者照合』
『手元確認』
『処理保留』
「手元、確認してもいいですか」
佐伯の手が、一瞬、引かれた。
半歩ぶんの、小さな動きだった。
汚れを隠す動きではない。指が、証拠袋のほうへ寄りかけて止まっている。
有馬の端末が鳴る。
【手元確認:要請】
【提出者照合:継続】
【対象者所在:未確認】
防犯映像の中では、粗い画のまま、タグケースを持つ手が止まっている。
カウンターの上には、袋の中の新人用手袋。
目の前には、引かれたままの、佐伯の手。
「その手で、何を預かりました?」
佐伯は答えなかった。
手袋の指先だけが、証拠袋の縁を向いている。
「タグを預かったんですよね」
「……タグケースです」
「本人から?」
佐伯は、首を横に振らなかった。
ただ、縦にも振らなかった。
「仮置きカウンターにありました」
有馬の端末が短く鳴る。
【受領相手:未確認】
【受領場所:配信外区画・仮置きカウンター】
【本人目視:未確認】
真壁が口を開きかけた。
有馬は、何も言わずに発言記録の画面を前へ出す。
真壁の口が閉じる。
佐伯は、証拠袋から目を逸らした。
「処理表には、帰還済みと入っていました。だから、そのまま提出しただけです」
「その処理表、誰が入れました?」
「共有端末です。班の誰でも触れます」
「誰でも触れるなら、誰が触ったかを見ます」
有馬が端末を操作する。
【共有端末操作履歴:照合準備】
【処理表更新者:要確認】
【指示系統照合:追加】
俺の視界に、遅れて札が下がった。
『処理責任者止まり不可』
『指示系統照合』
佐伯の手はタグを持っていた。
それは、たぶん間違いない。
でも、この手だけを切って捨てれば、上に残っているものはまた閉じられる。
誰にも拾われなかった新人の記録も。
その記録を拾った、俺のログも。
現場のミスとして、黒い袋に入れられる。
それは、通せない。
「佐伯さん」
俺は防犯映像の停止画面を見た。
タグケースを持つ手、仮置きカウンター、配信外区画。その全部が、粗い画の中に残っている。
「あなたがタグを持っていたことは分かりました」
佐伯は何も言わない。
「次は、そのタグを誰が“帰還済み”に入れたかを見ます」
有馬の端末で、共有端末の操作履歴が開き始めた。
カウンターの上には、袋の中の新人用手袋。
防犯映像の中には、タグケースを持つ手。
目の前には、開かれたままの処理表。
十七分の空白には、手だけじゃない。
手を動かした画面も残っていた。




