第12話 その籠手、貸したままです
透明な保全袋の中で、銀色の左籠手が午後の光を鈍く返している。
その向こう、壁際の棚には、対になるはずの右籠手が置かれていた。革の色も、金具の並びも同じに見える。
俺は膝の上で作業手袋の指を組み、隣の有馬千尋さんに小声で聞いた。
「今日の協力費、出ますか」
「交通費は確実です」
「協力費は」
「審査中の登録者への支払い区分が、まだ」
「ですよね」
電車賃だけは戻ってくる。それが分かっているだけ、今日はましな部類だった。
七瀬家の居間は狭くて、明るかった。
レースカーテン越しの日が低い木製テーブルを照らし、古いエアコンが低く鳴っている。棚には若い女性の写真が一枚。その横に、右手側の籠手。
テーブルの片側には、七瀬美和さんが座っている。向かいに俺と氷室玲奈。玄関寄りに有馬さんが控えていた。
俺と玲奈の前には、湯気の立つマグカップが一つずつ置かれている。
美和さんは、袋に入った左籠手を少し離れたところから見ていた。
「これを返せと。それで、いただいたお金も戻せと。そういうお話ですか」
「いえ」
有馬さんが座り直す。
「今日は事実の確認だけです。この場で返還を決めることはありません。補償については、確認の結果を見てからになります」
美和さんの肩が、わずかに下がった。
電気ケトルが小さく鳴る。彼女は自分のマグカップに湯を足してから立ち上がり、棚の右籠手を両手で下ろした。
左右の籠手が、テーブルに並ぶ。
俺は身を乗り出さず、上から二つを見比べた。
甲の擦り傷。革の褪せ方。内側でほつれかけた、青い補修糸。どちらも同じ癖で直してある。
視界に、白い札が二枚下がった。
『対組照合』
『貸与先確認』
左右が一対であることだけは言い切れる。
誰の手へ返すべきかまでは、この札は出さない。
「一対ですね」
「右だけ、戻ってきたんです」
美和さんは右籠手の甲を、指の腹で撫でた。
「左は回収できなかったと、そう言われて。その分のお金をいただきました。葬儀の費用と、あの子の払い残していた治療費に」
言葉は、そこで途切れた。
泣き崩れることはなく、マグカップの縁を親指でなぞっている。
「今から一度に全部お返しするのは、正直、できません」
「すぐに返していただく必要はありません」
有馬さんが静かに答えた。
美和さんは頷きも首も振らず、棚の写真へ目をやった。
玲奈は眉を寄せ、膝の上の個人端末を何度もスクロールしていた。
「内部の映像は、もう見られないんです」
画面から目を上げずに言う。
「でも、一度みんなに公開したものまでは消せないので」
指が止まった。
玲奈は端末をテーブルの中央へ向ける。
訓練場の隅で撮られた、短くて粗い動画だった。
画面の中で、棚の写真と同じ顔の女性が、若い男へ銀色の左籠手を押しつけている。
瀬尾湊だ。今より頬に余裕がある。
『卒業するまで使ってな。壊したら、初任給で払って』
『高すぎます』
『いいから』
女性は笑いながら、湊の腕に籠手を通してしまう。
そこで動画は切れた。
美和さんは画面が暗くなったあとも、しばらく端末を見ていた。
「あの子」
声が少しかすれる。
「貸した物ほど、返せって言わないんです」
右籠手の指先に触れ、ゆっくり手を離した。
有馬さんが、書類の入ったフォルダを開く。
「現在確認できている範囲では、この左籠手は七瀬夏帆さんの所有物で、瀬尾湊さんへ貸したまま返却されていなかった可能性が高いです」
「では、あの子――湊くんに渡してあげてください」
「すぐにはできないんです」
美和さんが初めて、有馬さんを正面から見た。
「貸したままの物であれば、夏帆さんの相続財産に含まれます。それを瀬尾さんへ渡すには、相続関係の確認と補償記録の訂正が必要です」
「私が、何をすればいいんですか」
「事実を記録に残す書面へ署名していただきます。ただ――」
有馬さんはフォルダから一枚の書類を抜いた。
「補償金はいったん再審査になります。金額がどうなるかは、審査を経なければ私から確かなことは言えません。場合によっては、ご負担が生じます」
俺は棚の写真を正面から見られないまま、テーブルの木目を見ていた。
正しく直すことが、この人の財布へ手を突っ込むことになる。分かっていて勧めるのは、あまり気分のいい作業じゃない。
美和さんはしばらく、マグカップを両手で包んでいた。
「娘が貸した物を、なくしたことにしたまま、というのは」
顔は上げない。
「それは、できません」
美和さんはマグカップを置いた。声は低いままだったが、語尾は揺れなかった。
「では、事実確認書に署名をお願いします」
有馬さんが用紙を向ける。
美和さんは老眼鏡をかけ、一行ずつ確かめてから名前を書いた。
端末へ、訂正の記録が入っていく。
【物品区分:未返却貸与品】
【貸与先:瀬尾湊】
【遺族返却処理:訂正申立】
【相続財産処理:未了】
【補償処理:再審査】
書き終えると、美和さんは俺たちのマグカップを指先で示した。
「冷めますよ、お茶」
それから玲奈の顔を、改めて見る。
「テレビで見るより、若いのね」
「あ……ありがとうございます」
続いて、視線が俺の手元へ移った。
「あなたは、顔より手袋の方が見覚えあるわ。あの映像の」
「最近、顔より手が先に売れてまして」
「売れてはいないです」
玲奈が横から言い、美和さんがほんの少しだけ口元を緩めた。
左籠手は、保全袋に入ったままだ。
美和さんはそれを自分の側へ引き寄せなかった。代わりに、有馬さんが持つ瀬尾湊の資料の方へ、指先で数センチ押す。
袋は封をされたまま、テーブルの上を滑った。
「返す先は、そちらで間違えないように」
「間違えないところだけは、わりと得意なんです」
美和さんはそれには答えず、冷めかけたお茶を一口飲んだ。
テーブルの上で、左右の籠手が並んでいた。
左だけは、まだ保全袋の中にいる。
返す先は、書類の外に残ったままだった。




