第10話 帰還済みを、取り消します
旧第三除染区画は、灰色のまま静かだった。
夜の闇に沈んだコンクリートの建物で、正面の管理端末と玄関灯だけが生きている。搬入路の脇へ、救護局の車両が二台続けて停まった。
降りたのは、俺と氷室玲奈、有馬千尋さん。それに、三十代くらいの男性救護員と、短髪の若い女性救護員。
人員は、それで全部だった。
「公式には、ここは無人です」
有馬さんが正面端末へ救護局の認証証をかざす。
【施設状態:停止準備中】
【在室記録:なし】
【残置設備:生命維持系統 稼働中】
在室記録はない。
なのに、生命維持系統だけが動いている。
無人の建物は、機械を養わない。
「停止準備中ってことは……」
「系統ごと止まります」
有馬さんが表示を開いた。
【完全停止まで:十八分】
「――残り、十八分です」
全員で走った。
長い直線通路は、橙色の非常灯だけで薄暗い。鉄格子状の床には搬送台車のこすれ跡が何重にも残り、壁の中を通る配管が低く震えている。
消毒薬と錆、湿った空気の匂いが混ざっていた。
突き当たりは処置室区画だった。
分厚い観察窓には、内側から薄く結露が付いている。玲奈が先に窓へ駆け寄った。
「……いた!」
窓の向こう。
処置台の上に、細い体が横たわっていた。
顔は青白く、呼吸管と点滴の管がつながっている。本人は動かない。それでも生命維持装置の表示灯は緑で、モニターの波形もゆっくりと上下していた。
「生体反応はあります」
男性救護員が窓越しに装置を確認する。
「意識レベルと汚染状態は、ここからでは分かりません」
生きているかどうかを決めるのは、俺の仕事じゃない。
装置と救護員が決める。
俺が見るのは、ここからどこへ回すべきかだ。
有馬さんが患者用扉の操作盤へ取り付いた。表示は赤い。
【圧力維持中】
【患者搬出扉:開放不可】
「除染区画の陰圧が生きています。この扉を強制開放すると、室内の圧力が崩れます」
「正規の解除手順は?」
「施設管理者の承認が必要です。申請を上げても、十八分では間に合いません」
短髪の女性救護員が、処置室脇の細い扉を確認する。
「一人用の除染前室は使えます。私たちだけなら、圧力を保ったまま中へ入れます」
「患者は?」
「入口が狭すぎます。呼吸管と担架をつけたままでは通せません」
人だけなら入れる。
けれど、人を出せない。
端末の残り時間が、一分減った。
俺は廊下を見回した。
処置室の隣に、汚染廃棄物用の搬出口がある。その脇には、黒い密閉式搬送台車が二台並んでいた。
汚染物を室内の圧力を保ったまま外へ出すための台車だ。俺たち後始末屋が、処理場で受け取る側の型だった。
支援端末をかざす。
【医療廃棄物搬送台車】
【用途区分:廃棄物専用】
【患者搬送:不適】
端末は正しい。
人を運ぶための道具じゃない。
その上へ【仕分け】を重ねる。
視界に下がった札は、一枚だけだった。
『搬送優先』
「……この台車を経由すれば、出せます」
男性救護員が密閉台車を開き、内部とパッキンを確認した。
「密閉率は患者搬送基準を満たします。内部を消毒して、酸素と携行型モニターを積めば、医学的には可能です」
「救護行為そのものは、救護班の責任です」
有馬さんが、廃棄物搬出口と台車を交互に見た。
「ただし、この経路と台車はサルベージャー管理です。人を通す用途外転用には、現場判断をした登録者の署名が要ります」
表示が追加される。
【用途外転用:要責任者署名】
【署名者:資格審査対象】
【審査中:登録一時停止】
登録停止。
手袋の中で、指先が冷えた。
登録が止まれば、現場に入れない。
処分費も、手当も、実績ログも止まる。昨日、黎明の剣からの継続指名を失ったばかりだ。そのうえ登録まで止まれば、来月の家賃はどの袋から出てくる。
袋。
黒い袋を止めて、一度は拾い上げた命が、窓の向こうにいる。
書類の上で帰されて、もう一度捨てられた命だ。
「灰崎さん」
玲奈が口を開きかけた。
けれど、何も言わずに個人端末を握り直す。俺の端末にも、署名欄にも手を伸ばさなかった。
決めるのは俺だ。
残り時間が、十五分を切る。
「……署名します」
声は、思ったより普通に出た。
「言っときますけど、無欲とかじゃないですからね」
有馬さんが署名欄を開く。
「仕事も手当も、本気で惜しいです。でも、ここで見送ったら、俺は多分、後始末屋を続けられません」
自分の目を指した。
「商売道具は、手より先にこっちなんですよ」
誰も笑わなかった。
まあ、いい。
【用途外転用責任者:灰崎佑】
【署名:受理】
【登録状態:審査開始】
そこからは、全員が動いた。
救護員二人は、一人用の除染前室へ順番に入る。扉が一枚ずつ閉まり、圧力の同調を示すランプが赤から緑へ変わった。
俺は密閉台車の内部を消毒し、簡易マットと携行用の酸素ボンベを固定する。パッキンを指でなぞり、ひび割れがないことも確かめた。
廃棄袋で毎日やっているのと、同じ確認だった。
有馬さんが搬出口の操作盤へ救護局権限を接続する。
「圧力を同調します。搬出用ハッチ、開放」
重い音を立てて、内側のハッチが開いた。
密閉台車がレールに乗り、処置室側へ滑り込んでいく。
観察窓の向こうでは、救護員二人が新人を処置台から移していた。呼吸管は維持したまま、点滴を携行型へつなぎ替える。
細い体が毛布ごと、黒い搬送台車の中へ収まった。
玲奈は個人端末を構え、必要な場面を次々に撮っている。
「権限、なくなったんじゃ」
「配信じゃなくても、残せます」
シャッター音が等間隔に続く。
移送の時刻、台車の番号、俺の署名画面、生命維持装置の表示。あとで誰かが切り取れないように、一枚ずつ残していく。
内側の密閉ハッチが閉じた。
【気密状態:正常】
【酸素供給:接続】
「搬出します!」
黒い台車が廊下側へ戻ってくる。
俺が前を取り、救護員二人が左右を固めた。玲奈は少し後ろから撮影を続け、有馬さんが施設の処理記録を閉じながら追ってくる。
台車の車輪が、鉄格子状の床を鳴らした。
搬入路の先では、救護車両の後部扉が開いている。黒い密閉台車を、車内の白い搬送架台へ接続した。
男性救護員が固定具と装置を確かめ、親指を立てる。
【患者収容:完了】
【生体反応:継続】
施設の管理端末には、生命維持系統停止まで残り六分と表示されていた。
間に合った側の数字だ。
有馬さんが救護車両の端末で、正式な処理を打ち込んでいく。
【救護搬送:登録】
【対象者区分:要治療・保護】
【対象者所在:確認】
【帰還済み処理:取消】
取消。
その二文字を、俺は少しの間だけ見ていた。
書類の上で帰され、書類の上で捨てられて、今ようやく、まだ帰っていないことにしてもらえた。
これで、この子の続きは記録の中にいる。
続いて、俺の端末が鳴った。
【緊急搬送記録:受理】
【資格審査:開始】
【サルベージャー登録:一時停止】
分かってはいた。
それでも実際に表示されると、腹の下が重くなる。
「審査には、私からも記録を提出します」
有馬さんが言った。
「救護局側の立ち会い記録として。それから、今回の作業手当ですが――」
「精算は後日、でしたよね」
「はい。その、今回は区分が難しくて」
「でしょうね。廃棄物台車で人を運んだ後始末屋の手当欄、多分ないですから」
玲奈が横で、小さく吹き出した。
「今、確認するところですか」
「俺じゃなくて、有馬さんが始めた話ですよ」
「でも気になってますよね」
「かなり」
救護車両の扉が閉まる。
エンジンが動き、橙色のランプを回しながら車両が搬入路を離れていった。
窓の外で、旧第三除染区画の玄関灯が遠ざかる。灰色の建物は停止処理に入り、もう一度、地図の上だけの場所へ戻っていく。
端末の中では、橙色の点が施設を出た。
救護局へ向かって、少しずつ動いている。
搬送記録は、今度は消えない場所を走っていた。




