時間を雄弁に語れ
雪菜は風を切るように廊下を駆け、ノックするのも忘れて生徒指導室のドアを開けた。
「失礼します!」
山本先生は以前のように教室奥のデスクに座っていた。
「どうした? 今日登校日じゃ……おまえ、どうしたんだ、その頭」
「黒に戻しちゃいました。似合ってますか?」
「あ、ああ、もちろん似合っているが、その、よかったのか?」
「はい。私にはもう必要ないんです。髪の色なんて。そんなことより、先生にどうしても伝えたいことがあるんですよ。職員室に行ったら、指導室にいるんじゃないかって」
「いいならいいが」
と先生は困惑した様子だったが、
「まあ入りなさい。それにしても久しぶりだなあ。元気してたか?」
雪菜は先生の元に行って、
「このとおり、すっかり元気になってしまってですね。むしろ有り余っているくらいなんですよ」
「相変わらずだなあ。テスト勉強は順調か?」
「はい。今回は前から準備しているので大丈夫だと思います。先生はあれからどうされていましたか?」
「気を抜けば七條先生のことを考えていたが、不思議なものだよなあ。こうして日々の生活に追われていると、当たり前のように受け止められるようになった。思い出さない日はないが、もう四か月と──半分か。そんなに経つんだな」
「そうですよ、先生。今日で夏至が終わって明日から小暑なんですから」
「ああ。二十四節気か。日付まで覚えたのか?」
「はい。だって二十四個しかありませんし」
「ほお、すごいなあ」
と先生は目を丸くしていたが、軽くため息をついて、
「暑い季節がやってくるな」
「はい。それでですね、私、月命日になると、和子さんの家に行ってお線香あげているんですよ。勝利さんがケーキとコーヒーを用意してくれるので一時間ほど話すんです。勝利さん、最近仏像彫りに目覚めたらしくて――」
「待て待て待て。今日は情報が多すぎる。ゆっくり、な?」
「あ、すみません」
「仏像って言ったか?」
「先生、もしかして大仏みたいなの想像していません? そんな大きなものではなくてこれくらいの……」
と雪菜は手を広げながら、
「三十センチくらいでしょうかね、木彫りのやつですよ。勝利さん、週に一回お寺に通っているらしくて、みんなで仏像を彫りながら雑談する時間が楽しいらしいんです」
先生はようやく警戒が解けた顔になって、
「ああ。七條先生を思い出しながら彫っているのかもなあ」
「はい。でも和子さんの仏壇がどんどんにぎやかになっていくので、長谷川さんと一緒に行って注意してくださいよ」
「なんだ、私一人じゃ頼りないか?」
「だって山本先生、パーティーのときずっと飲んでたじゃないですか。またお酒勧められて気分良くなっちゃうのかな、なんて」
と雪菜がたわむれて言うと、
「言うようになったな」
と先生はほほ笑んで、
「わかった。今度行ってみるとしよう」
「お願いします」
「それにしても、月命日のたびにお参りするなんてまめなところがあるんだな」
「はい。ずっと続けようと決めたんです」
雪菜は山本先生から視線をはずして外を見た。蝉時雨がシャワーのように降り注ぎ、正門前のプラタナスの葉が青々しい。夏がもう校門まで来ているみたいだ。
「ところで、さっきあわてた様子だったが、何かあったのか?」
山本先生に訊かれて雪菜は先生に視線を戻した。
「あっ、そうなんですよ。すっかり忘れてました」
「まったく。調子のいい」
「大事件が起きたんですよ! 知らせるのは山本先生が一番最初なんです」
「ん、なんかあったのか?」
「二か月ほど前に、すぐそこの海浜公園に野鳥観察に行ったんですよ。そしたらですね、和歌を鑑賞するだけじゃなくて自分でも作りたいと思いまして。『古典和歌芸術新人賞』に投稿したらなんと、私の作品が入選してしまったんです!」
「ほんとか?」
と先生は手元のお茶をひっくり返したような声を上げて、
「有名な賞じゃないか!」
「先生、知ってるんですか?」
「私のみならず古典に関わる者なら皆知っているはずだ。学会ともつながりあるからなあ」
「和子さんも知ってますかね?」
「もちろんご存知だったろう」
「よかった……あっ、でも、期待させておいて申し訳ないんですが、一般の部じゃなくて学生の部で、さらには大賞じゃなくて優秀賞ですけど」
「それでも大したものだよ。歌人への登竜門と言われている賞なんだ。自信をもちなさい」
「ありがとうございます。ついさっき、編集? よく覚えてませんけど、担当の人から電話がかかってきてですね、十一月発売の雑誌に私の作品とインタビューが載るらしいんです」
「よくやったなあ。今どんな気分だ?」
「いえ、あっと言う間でしたし、急いでここに来ましたがそんなに実感がないというか」
山本先生はふふふと奇妙な笑い方をして、
「意外な反応だな。当然です、と言うかと思った」
「山本先生や、和子さん、勝利さんを始め、みんなのおかげなんですから茶化さないで下さいよ。でもすごく悔しいのでまた来年、大賞に向けてチャレンジです。秀歌を読み込んだり、私らしさとは何かを探求したり、ほかの古典作品にも触れたりと、まだまだできることはたくさんあると思いますので」
「そうか。がんばれよ? 勝利さんや神岡にはこれから伝えるのか?」
「はい。美月は夏バテみたいなので、これから報告もかねてお見舞いに行こうと思います」
「夏バテって。夏休みはまだだろうが」
「山本先生はご存知だと思うので隠さずに言いますけど、美月は哲学の解説動画を投稿してるんですよ。つい先日チャンネル登録者が千人超えたので二十四時間配信したら、風邪引いちゃったみたいで」
「何やってるんだ、あいつは」
「勝利さんには直接会って報告したいので言わないで下さいね」
「わかった」
「先生!」
と雪菜は和やかな雰囲気を断ち切るように真剣な目で、
「私がはじめてここに来たとき、こう言ったの覚えていますか? 遅刻は居残り掃除しなきゃいけないほど悪いことですか、って」
「もちろん覚えてるぞ」
「遅刻の何が悪いか、あれからずっと考えたんです」
「おっ」
と先生は身を乗り出して、
「納得できる答えが見つかったのか?」
「はい。まとめるとうまく話せそうにないので、百人一首の話したときみたいに感情の迸るままでもいいですか?」
山本先生は柔らかい顔でうなずいた。
「居残り掃除する前の私は、授業をさぼったことは一度もありませんでしたけど、何やったかって聞かれたら、遅刻を四十九回積み重ねたくらいなんですよね。髪を染めたのは高校の入学記念でしたが、ほかの人と違う何かがほしかっただけなんです。だから赤髪にこだわりなんかなくて、まあ強いて言うなら、母に少しだけ私を見てほしかったくらいで」
セラヴィがつぶれるかどうかの瀬戸際のときだった。顔を合わせる時間もなかった。はじめて髪を染めて帰った夜、でっかい鼠でも見たかのように悲鳴を上げた母の顔がよみがえった。懐かしさとおかしさが込み上げてくる。
「でも遅刻が原因で居残り掃除を始めてから、私のところにいろんな縁が集まってきました。学校で一番怖いと思っていた先生と良い関係が築けました。先生のおかげで百人一首への道が拓け、古典が苦手科目から得意科目になりました。今まで漠然と捉えていた時間をじっくり考える機会がありました。野鳥観察を始めていつしか趣味になりました。花鳥風月の素晴らしさにも気づきました。勝利さんと和子さんに出会えました。六十歳差ありますけど、今までもこれからも大親友です。和歌が作れるようになって、和子さんと再会できました。長い間拒否してきた父の死を受け入れることもできるようになりました。今では形見の双眼鏡を持って二人でバードウォッチングに行くんです。あと喧嘩ばかりしていた母に言えなかった言葉が言えるようになりました。これからは家族みんなで助け合って生きて行くと約束したんです。これが居残り掃除始めてからの私の時間なんです」
「ずいぶん密度の濃い一年になったな。おまえが前を向いて歩いてきた結果だ。時間に向き合ってきた証拠だ」
「だから私はもう遅刻しません。遅刻はこれらの縁すべてを遠ざけてしまいますから。私は、私だけの時間を大切にして、私のことを待ってくれている海に出るんです!」
「よく言った!」
「先生、はじめて指導室の掃除をしたときに教えてくれましたよね。時間は平等じゃない、私たちは生まれてすぐそれぞれの時間を与えられるんだ、って。今ならその意味がわかるんです。その時間の中でした経験は全部私の武器になるはずじゃないですか。それを忘れずに、私は和子さんや山本先生と同じく古典の教師になります」
「私は、橘が百人一首に興味を持ち始めたときから、そうなればいいと思っていたぞ」
「はい。先生がそう言ってくれたの覚えてます。和子さんとこんな約束したんです。古典の道を志して、自分にしかなれない教師になれたら必ず報告に来ます、だから見ていてください、って。ずっとどんな教師になればいいのか考えていたんですけど、つい先日、ものすごい発見しちゃったんです」
「発見?」
「山本先生、居残り掃除始めた日に『時間は物の形を変える』と教えてくれましたよね。その通りだと思います。でも私のすぐそばに変わらないものがあったんです。百人一首ですよ! 断固として変わるまいとする歌人の強い意志がありますから、これから先もずっとずっと時代を超えていくはずなんです。私たちが人生で経験するほとんどは既に百人一首に詠まれているんじゃないんですかね。おまえまだ十八歳じゃないかと言うのは無しでお願いします。今言ったのは三十一文字だけでなくて、音からでしか読み取れない微妙なニュアンスも、どうして歌人がこの言葉を使わなきゃいけなかったのかという文脈も、和歌の裏に隠れている歴史も含めて全て、という意味です。だから百人一首は絶対に楽しいはずなんです。私はこの万華鏡のような古典の世界を伝えるために教師になります。そしていつかは日本中を百人一首色に染めるんだ! って決めたんです」
「ほう。でっかく出たな。橘なら近いうちにできるだろう。応援しているからな。さてここからは未来の質問だ。古典教師になった橘雪菜が和歌を教える上での一番の武器は何だと思う?」
「そうですね……テストで三十一点を取った経験、でしょうか」
山本先生はからからと笑って、
「そりゃあ強力な武器だな」
「ですよね」
「ところで、『古典和歌芸術新人賞』にはどんな歌を投稿したんだ?」
「知りたいですか?」
山本先生は目をつぶったままゆっくりうなずいた。
「ええとですねえ」
放課後二人で百人一首の話をしたときみたいに、雪菜は黒板に書いた。
──雲間より君や見るらむ白浜の波と千鳥の花いちもんめ
(どこかの雲の間から、あなたは見ているのでしょうか。この真っ白な渚では、打ち寄せる波とミユビシギが「花いちもんめ」をして遊んでいますよ)(完)




