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第9章|ラムネと遅刻の口実

 午後三時の空は、きっぱりとしていた。

 曇ってるのか晴れてるのか、はっきりしないくせに、それでも「今日の空です」と言われたら納得してしまうような空。

 屋上の扉は固くて、少し力を入れて押し開けた。

 金属のきしみとともに、白い空と誰かの背中が現れた。

 しおりが、フェンスぎわに立っていた。身体は僕よりよほど小さいのに、海底にすむ大型哺乳類のような鷹揚さのある立ち姿でだった。


「……来ないと思ってた」と、背中のまま言った。

「僕も、来るつもりはなかったんだけど」

 ポケットから取り出したラムネの瓶を見せると、しおりがようやく振り返る。

「ラムネ?」

「午後三時にしか飲んじゃいけない気がして」

「……寒くない?」

「寒いよ」


 僕は苦笑しながら瓶のキャップを押し下げた。

 ビー玉が落ちて、乾いた音がした。

 しおりはそれを受け取って、一口だけ飲んだ。


「こんな日に飲むからこそ、炭酸って刺さるんだよ」

「逆に効くってやつ?」

「そう。あったかい飲み物ばっかりだと、午後三時が溶けちゃいそうでさ」


 ビー玉が転がる瓶の中を覗き込みながら、ふと思う。

 ビー玉って、閉じ込められてるのに、自由に見える。

 ラムネの瓶は、午後三時に似てる。外に出られないのに、なぜか外の世界と繋がってる気がする。

 しおりはラムネを持ったまま、フェンス越しに空を見上げた。

 雲は水平に伸びて、まるで細い板のように空を割っていた。

 その割れ目に、白い太陽がひそんでいた。


「ここって、時間が落ちてくる場所だと思う」

「落ちてくる?」

「空からこぼれてくる午後三時が、屋上にたまってる感じ」


 意味はよくわからなかったけど、

 たしかに屋上の空気は他のどこよりも濃かった。


「……最近、探すのやめてたよ」

「僕も、見失ったままだった」


 真冬の捜索は、何の成果もなかった。

 午後三時には生徒がいなくなったり、現われたりする。ただそれだけのことだった。

 しおりはフェンスの支柱に片足をかけ、下を見下ろした。僕もその隣に立って、校庭のほうを見た。午後三時のグラウンドでは、体育の授業がちょうど終盤だった。ジャージ姿の生徒たちが、バレーボールのネットを片づけている。誰かが転び、誰かが笑い、誰かは空を見ていた。その向こうでは、意味もなく三人で歩く男子、保健室から戻る生徒、購買袋を持ってどこか急いでる誰か。有象無象の人影が、点描のように校庭と廊下をにじませていた。

 けれど、ひとりだけ——白いフードをかぶった生徒が、ベンチに座っていたような気がした。


「……ほら、あそこにいた子」

「どこ?」

「さっきまでいた。ベンチに。白いフードの子」

 僕は目をこらした。けれど、誰の姿もなかった。

「私、あの子を何度か見てる気がする。でも、名前は思い出せない」

「名前がないと、存在してないことになるのかな」

「ううん、むしろ逆じゃない? 名前がないから、何度も見かけるのかも」

 彼女はフェンスから手を離し、ラムネをもう一口飲んだ。

「……でも、また動くと思うんだ」

「なにが?」

「全部。人も、場所も、記憶も」

「誰かが消えたり現れたりするってこと?」

「うん。でも、それでいい。私、見失うことにちょっと慣れてきた」


 そのとき、階段のほうからドタドタと足音がした。

「おい! 三条しおり! またお前か!」

 風紀委員的な男子生徒が、片手に名簿を持って現れる。

「立入禁止だぞ! 今月もう3回目だろ!」

 しおりはくるりと振り返りながら言った。

「えー、数えてたの?」

「お前、また幽霊でも探してたんだろ。もう校内掲示板で噂になってるぞ」

「いいじゃん、捕まらなければ実在しないのと同じでしょ」

 男子生徒は呆れて名簿をバサリと閉じた。

「君、ほんとに――」

「じゃ、また」


 しおりはそう叫んで、フェンスの上をタタン、と蹴って走り出した。

 アニメのワンシーンみたいに、彼女は僕の目の前を風のように駆け抜け、風紀委員の頭上をひょいと飛び越えて、階段へ消えていった。

 その瞬間、彼女がひとことだけ残した。

「次は、もっと高いとこから行くかもね」


 男子生徒はぽかんとした顔で僕を見た。

「……なに? いまの」

「午後三時の逃亡劇です」


 僕はそう言って、まだあたたかい瓶を手すりに立てかけた。

 しおりが残したラムネの中で、ビー玉がまだ、ころん、と鳴っていた。


 冬の午後三時は、今日も騒がしく、静かだった。

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