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第8章|午後三時に残る者

笹舟先輩は、空を見ていた。


校舎裏のベンチに座り、紙パックの紅茶を指でくるくる回しながら。紙パックの底面に指をあて、バスケットボール選手がバスケットボールでするような器用なことをしていた。

僕は自販機で買ったコーンスープを手に、となりに腰かけた。午後三時には、誰もがなにか熱いものを欲するらしかった。いや、それはどうだろう。真冬の校舎裏は何時であろうと、とても寒々としていた。


「空に名前をつけた人、すごいよね」

「……誰ですか?」

「知らないけど。名乗ってないと思う」


午後三時の空は、名付けられたものにしては、ずいぶん曖昧だった。

光が白いわけでも、灰色なわけでもなく、晴れてるのに寒く、温かいのに寂しい。


「しおりちゃん、最近は?」

「探してます、まだ」

「見つからない?」

「ぜんぜん。でも、探す範囲が広がってきてます」


校門を出た先にある路地。

くしゃくしゃのプリントが風で転がるのをしおりは追いかけ、紙に貼りついた誰かの名前の断片を、消えかけの筆跡ごと拾い集めた。

駅前の掲示板に貼られた塾のチラシ。

その片隅に描かれた、顔のないイラスト。

「これ、すずじゃない?」

僕にはただの広告にしか見えなかったけど、しおりは真顔で言った。

公園のベンチに彫られたイニシャル。校名も、日付も、何もなかった。

「ここ、あの子も通った気がする。知らないけど」

しおりは、記憶のないまま記憶の跡を辿るひとだった。


「彼女のやり方って、ちょっと変で」

「うん、知ってる」

「でも、ちゃんと理論があるんです。彼女は、探してるものがそこにあるって思ってないんです。そこにいたっていう形を見つけに行ってるんですよ」

「それは……幽霊探しと同じだよ」

「ちがいますよ。幽霊は残ってるじゃないですか。でも彼女のやってるのは、消えたものが確かに存在していた痕跡を、いま集めておくことで、誰かが次に出会えるようにするってことなんです」


笹舟先輩は笑った。やさしいけれど、ちょっと面倒くさそうに。


「それ、もう探偵じゃなくて考古学者だよ」

「でも、彼女がやってるのは未来のための発掘なんですよ。午後三時って、いまの顔をしてるけど、たぶんあとでのためにある時間なんです」

「名言っぽい」

「名言っぽいだけです」

「でも、嫌いじゃない」


スープの缶があたたかいうちだけ、僕らの言葉も少しだけ熱を持った。少し話しすぎかもしれないとも思った。


「それにしても、君みたいな全てをただただ起こったように受入れる代わりに、全ての面倒事を遠ざけようと画策する悪人にしては、ずいぶん気になるみたいだね」

「いや、それは……」

「僕は意地悪かな?」

「どうでしょう」

「おや、率直さを伴わない鈍さを美徳と認める説は、一切ないのだけどな」

「彼女の探しているものに、僕も興味ありますよ」

「得心」

僕は缶のラベルを見ていた。先輩がどんな表情をしているのかはわからなかった。

「探すことって、なんでこんなに置いてけぼり感があるんでしょうね」

「それは君が主語じゃないからだよ。主語ってのは、動詞を持ってくる側にいる。君はいつもしおりちゃんの後ろで、彼女の動詞に間に合ってない」


僕はうなずいた。思い当たる場面はいくらでもあった。

横断歩道を渡る直前で、彼女が勝手に走り出した。

階段の途中で、突然反対方向に引き返していった。

駅の改札をくぐって、気づいたらいなかった。

いつも、僕は二歩目で遅れていた。


「でもね」笹舟先輩は言った。「それでも、ついていこうとするのは、悪いことじゃない。たとえ彼女が間違った地図を持ってても、それに付き合ってあげるのは、すごく――」

「午後三時っぽい?」

「午後三時っぽい」


その言葉の意味はよくわからなかったけれど、

その時の光には、たしかにそれに似合う何かが差していた。


「探すってのも、難儀なものだね」

「そもそも探せてるのかもわかんないです」

「それでも、探してるふたりがいて、午後三時があって。この世界って、案外バランスでできてるのかもね。存在してるから大事なんじゃなくて、誰かが覚えてるからってだけで、いいんだよ」


僕は、朝、靴箱の横にいた誰かの名前を思い出そうとした。

でも、最後の一音がどうしても出てこなかった。

それでも、僕は、その子がいた気配を信じた。

午後三時は、記憶に名前を与えない。

でも、誰かが名前をつけるまでの時間を、静かに延ばしてくれる。

そして僕は、今日も置いてけぼりだった。

でも、それでよかった。

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