第7話|名を呼ぶ者
午後三時は、空気の底に沈んでいる。
外から見れば透明だが、中にいると、やけに音が重たく響く。
階段を上がる足音も、誰かがドアを開けるときの金属音も、湿気を帯びて変形する。
理科室前の廊下に笹舟先輩はいた。
空き缶回収箱の影に半分だけ埋まって、壁にうもれていた。
「おつかれ」
「……あ、どうも」
「今、おつかれって言われたけど、今日僕何もしてないんですけど」
「じゃあ、前日分だな」
「前日もたぶん、あんまり……」
「蓄積型の疲労。あと、未来分も少し入ってる」
彼はそう言って缶コーヒーを振った。開けなかった。
「午後三時の角度ってあると思う?」
僕が答える前に、彼は小さな水平器を取り出した。
気泡が、ゆっくり左右に迷っていた。
「見てると不安になるだろ。ずっとここにいるのか、どっちかに行くのか」
「選ばない自由……?」
「それはオシャレな名前の迷子」
近くで、ざわざわと制服のこすれる音がした。
誰かが廊下を見回っている気配。風紀委員か、あるいは教員。あるいは、教員の気配をした風が通りすぎた。
「今日、教室の机の数がひとつ減ってた」
「気のせいじゃないですか?」
「きのせいって言葉、便利すぎるよな」
「じゃあ、何のせいです?」
「午後三時のせい。いや、きっと午後三時のほうが、僕たちのせいなんだよ」
彼はそう言って、ポケットからビー玉を取り出した。理科室の床にそっと置く。
ビー玉は転がらなかった。かわりに、ゆっくり回った。
どこにも傾いていない床で、なぜか中心に向かって自転した。
「地球の回転のせい、ってことにしておこうか」
「そういうことにしておくと楽ですしね」
「それで世界が測れれば、苦労はない」
ガタ、と理科室のドアが揺れた。誰かが開けようとして鍵がかかっていたのかもしれない。僕たちが入ってきた扉とは別側だった。音は小さかったけれど、笹舟はそちらに目を向けなかった。
「すず、って名前に聞き覚えは?」
「……ちょっとだけ」
いつものように僕はなんと答えたらいいのかわからなかった。
「君がそう言うの、ちょっとだけ、予想してた」
「じゃあ、僕がそう答えるのも、計算のうちでした?」
「計算ってのは、あとからでも辻褄が合うことを言うんだよ」
彼はまた別のポケットから画鋲を三つ取り出した。並べる。
なぜ三つなのか、意味はなかった。たぶん。意味がなさそうなことだけを選んで並べた。
「意味がないっていう意味で、これは大事な並びなんだ」
「……はあ」
「その『はあ』に、世界のすべてが詰まってる。君、言葉の使い方がうまいね」
「褒められた気がしないんですけど」
「驚くべきことに、褒めてないのだよ」
彼はようやく缶を開けた。開けた音が、教室の中で反響していた。
反響が揺れたのは、どこかで窓が開いたか、別の時間が割れかけていたのか。
「ねえ、午後三時って、君の中では何時?」
「え?」
「人によって違うんだよ。誰かは十三時半を午後三時って呼んでるかもしれないし、誰かは夕暮れの匂いを午後三時って呼ぶかもしれない」
「言葉って、そういうもんですかね」
「午後三時ってのは、たぶん期待しながら退屈してる状態の名前だよ。何も起きない。でも、起きるかもって信じてる。だから身動きが取れない」
そのとき空気が、わずかに変わった。
靴音のリズムがまっすぐだった。まっすぐすぎて、校舎に似合わなかった。
言い換えれば、誰かが午後三時の中に入ってくる音だった。
そしてその音が、ガラスを割った。
「人を探してるんだけど」
その声が午後三時を突き破った。
窓ガラスの破片は落ちてこなかった。まるで誰かがそれを編集で切り取ったみたいに、きれいに、音もなく崩れた。
彼女は、割れた空気の中から入ってきた。
スカートのすそを払いながら、まるで屋上からショートカットしてきたような顔で。
「月見すずって知らない? ここにいたよね?」
僕は、声も表情も選びそこねた。
答えるべきかどうかの手続きが、まだ来ていなかった。
笹舟は、画鋲をいじる手を止めなかった。
「ああ。君、転校生?」
「うん。三条しおり。名乗るの、後でもよかったけど、言っちゃった」
「名乗るタイミングって難しいよね。僕はよく間違える」
「何と間違えるんです?」
「沈黙とか、回想とか。あと、大抵の質問」と先輩は少し楽しそうに言った。「こっちの彼は、間違えないかわりに何も答えない」と僕を指さし、顔を床に向けて笑った。
三条しおりは、理科室をぐるっと見渡して、空気の輪郭を測っていた。
「すずのこと、誰も覚えてないって言う。でも、名簿の空欄にだけ、その形が残ってた。ほら、パズルのピースが抜けてるとこって、形がわかるじゃん」
「形だけで人を探すのって、難しくない?」と先輩。
「難しいからやってんの。彼女とは中学の同級生。せっかく会えると思ったのに、どういうことなのよ。ちゃんと見つけるよ」
その言葉が、午後三時の空気を一度だけ震わせた。
まるで、いま話しているすべてが「間に合う」ことのような気がした。
笹舟先輩はしばらくのあいだ、なにも話さなかった。するとしおりも飛び込んできたときの弾むようなトーンとうってかわり、穏やかな口調で言った。
「ねえ、先輩。探偵ってやったことある?」
「ないと思ってたけど、今はちょっとわかんなくなってきた」と先輩は今度はすぐに返事をした。
「でも、そういう曖昧さで世界ってできてる気がしません? 探すって行為そのものが、世界を作り変えてるみたいな」
「うん、だから。きっとすずって子も、誰かが探してるかぎり、どこかにいるんだろうね」
「そう。だから間に合ってほしいんだよ」
しおりが教卓の上に片足を乗せたとき、廊下の奥から叫び声があがった。いや、どちらが先だったのかわからない。
「発見! そっちに行ったぞ!」
「え、誰?」僕が訊いた。
「多分、校内の警備っぽい子たち。先生も混じってる。あんまり仲良くないタイプ」としおり。
「普通に歩いて来ればいいのに」
「そんなことしたら、青春にならない」
笹舟先輩は、窓の外をちらっと見た。
「……どうやって逃げるの?」
「演劇部のときに学んだんだけどね、最短ルートってだいたい上なんだよ」
彼女はそう言って、教卓から窓際の棚へ、棚からブレーカーの上に跳ね上がり、
廊下から雪崩れ込んできた一群の制服たちの上を、そのまま渡っていった。
本当に、渡っていった。
彼女の靴音が、ざんざんと人の頭を軽快に叩いて、階段の方へと消えた。
「止めろ」「非常識にもほどがある」「なに者!」
その叫び声のなかに、「カッコよすぎる……」という誰かのつぶやきが混じっていた。
風のように、視界から彼女が消えた。
風よりも、ずっと意図的に。
教室のなかには、画鋲と、こぼれかけた缶コーヒーと、割れた記憶の音だけが残っていた。
「……あの子、すごいな」僕が言った。
「うん」笹舟先輩が頷いた。
「あれはちゃんと探してる人の顔だった。しかも、見送る側じゃなくて、踏み込む側の探偵だ」
「先輩は?」
「僕は、考えすぎて探さないタイプかな。でも、彼女のやり方は、悪くない。いや、むしろ――」
笹舟は空になった缶をくるくると回した。
「――そうだな。青春ってのは、たぶんああいう無理筋でできてる」
午後三時は、まだ終わっていなかった。
でも、風の通り道が少しだけ書き換えられていた。




