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第6話|世界の秘密

 図書室の奥の窓が開いていた。開いていることに、僕が気づいたというよりは、風の音が、何かが開いていることを教えてくれた。

 誰かがいたのかもしれないし、誰もいなかったのかもしれない。午後三時には、そういうことがよくある。


 本棚の横の細い通路を抜けたところに、ひとつだけ椅子が置かれていて、そこに先輩がいた。


 制服の上から、毛玉だらけの白のセーターを着ていた。校則違反かもしれなかったけど、注意する教員の顔が思い浮かばなかった。

 というより、その先輩の前では、校則という言葉そのものがやせ細ってしまう気がした。


 彼は僕を見て、目線だけで「どうぞ」と言った。話しかけるほどでもなかった。僕も黙って、向かいの椅子を探して、座った。


 少しの間、風が言葉の代わりをしていた。


「三年の笹舟。名前、聞いたことないよね」

「はい」

「だと思った」


 彼はうなずきながら、何かのページを繰っていた。とても薄い紙だった。聖書のようだった。出席簿だった。


「出席簿、見たことある?」

「はい。担任が毎朝持ってるやつですよね」

「それとは別に、あるんだよ。見えないやつが」


 彼はそう言って、本を閉じた。表紙には何も書いていなかった。


「君、覚えてる? 四組に、ひとり足りなかったこと」


 僕は何も言わなかった。


「今じゃ、誰も気にしてない。でも、たしかにいた。出席番号でいえば、二十三番と二十五番の間。空白だった。今は埋まってるけどね」

「それって……転校生とかですか」

「さあ。転校してきて、転校していったのかもしれない。でも、誰も覚えてない。先生も含めて。いや、違うな。覚えているんだ。みんな、覚えているんだけど、それについてあまり考えなくなる」


 午後三時の光が、紙の上をうろうろしていた。

 彼は、消しゴムのカスが舞うような声で続けた。


「この学校、たまに人が消えるんだよ。いや、いたことがなかったことになる、の方が近いか」

「記録から、ってことですか」

「雰囲気として、といったほうが正確かな。まあ、詳しいことは知らない」

「雰囲気ですか」

「そう、雰囲気だよ。『この学校』なんて言ってしまったけど、別の学校のことなんて、僕は知らないのだった。君は知ってる?」

「知りません」


 彼は立ち上がって、窓の鍵をかけた。風が少しだけ抗議した。


「午後三時になると、起きる。起きるっていうのは正確じゃないな、まあ、起きたような雰囲気になる」


 僕は、チョークの匂いを思い出していた。理由はなかった。でもたしかに、何かが、そこに接続された。


「なんで午後三時なんですか」

「知らない。三時じゃなくてもいいのかもしれない。ただ、君が気づく時間が、午後三時ってだけかも」


 彼は、僕の肩に軽く触れた。触れたというより、その空間を指でなぞった。まるでそこに、僕の肩とは別の何かがあるかのように。


「君も気づいてるんだろ? 何かが、いなかったことにされてるって」

「……よくわからないです」

「それが正常だよ。わからないままの方が、すこしだけ安全だ」


 彼はそう言って、階段の方に歩きかけたが、立ち止まった。


「誰も彼もが消えるわけじゃない。ただ、記録されなかった人間だけが、いなくなる」

「記録……?」

「君が覚えていれば、君の中には残る。だから、覚えておいたほうがいい。誰かのこと」


 図書室の扉が静かに閉まったあと、僕はひとり、机の上にあった紙を見た。

 それは何かのメモだった。

 その端に、小さな字で名前が書いてあった。にじんでいて、読めなかった。

 ただ、そこに名前があったことだけは、たしかだった。


 ◇◇◇


 階段を降りると、冬の校舎は午後の長さを引きずっていた。

 外よりも中のほうが寒いという矛盾が、コンクリートの壁にこびりついている。

 窓から射しこむ日差しは弱く、床に落ちた影が寒さを際立たせていた。

 乾いた暖房の風が、廊下の角で止まっていた。

 僕は教室に戻る気になれず、視聴覚室の前を通って、別棟の理科室の前まで歩いた。

 ガラスの扉に映る自分の姿が、少しだけ間違って見えた。足が、いつもより短かった。


 誰がいなくなったのか、考えようとしたけれど、具体的な顔は浮かばなかった。

 でも、言葉にできない欠落だけは、たしかにあった。

 机の配置、窓の開き方、空気の密度……すべてが、なにかの余白を囲んでいる気がした。


 校舎の端まで歩いたところで、誰かが呼んだ。


「やっぱり、君がここにいると思ったよ」


 振り返ると、笹舟先輩がいた。階段の手すりにもたれて、ペットボトルのお茶を飲んでいた。口は動いていないのに、言葉が僕のほうへ届いたような気がした。


「この時間、こういう場所にいる人間って、だいたい決まってる。名前がうまく定着しない人たち」

「僕の名前、ありますよね」

「うん、ある。でも、たとえばそれを測ったら、どうなるか見てみる?」


 彼はポケットから、小さな巻き尺を取り出した。メジャーというやつだった。白と黄色のツートン。


「これで、君の腕の長さを測ってみよう。ちゃんと伸ばして」

 僕が言われた通りにしているあいだに、彼は腕の長さを読んだ。

「63センチ。たぶん正確だ。でも、別のメジャーを使ったら62.7になるかもしれない。温度や時間帯、皮膚の伸び具合によって、結果は変わる」

「それは、どこでもそうじゃないですか」

「そう。どこでもそうなんだ。でも、君はどこでもそうってことを、この学校にもあるとは思ってなかっただろ?」


 僕は言葉に詰まった。

 意味がわからなかった。しかし、たしかに、この場所は、均一で、繰り返しで、いつも同じだと思っていた。

 でも、午後三時だけは、いつも同じように違っていた。


「測れないってことは、忘れられるってことなんだよ」

 彼は巻き尺をポケットに戻して言った。

「存在が測定されないものは、記録に残らない。記録に残らないものは、名前を失う。名前がないものは、いないのと同じ」

 僕は、今朝食べたパンの味を思い出せなかった。どんな袋に入っていたかも。

「忘れることは、選ばないことでもある。君が選ばなかった誰かのことを、もう思い出せない」

「測ることが大切なんですか?」

「いや、僕はそう思わない。人はなんでも分けたがる。測るとは分けることだ。新しい生物を見つけて、それを元のものから分ける。二年前あった大きな一軒家のあとが、四つの真新しい同じ形をした新居にかわる。君の親が君を名付け、君は世界で孤独になる。別に、そんなもの忘れたって構わないだろ?」


 風が廊下をなでた。午後三時の光が、黒板の裏に落ちていた。


「でも、もし君が、測れないものを測ろうとし続けたら——」

 彼はそう言って、僕の目を見た。

「——たぶん、君は午後三時に取り残されることになる」

 僕はなんと返事をしたらいいのかわからなかった。

 すると、先輩の切れ長の瞳がさらに細まり、僕から視線を逸らすと小さく笑った。

「今のは笑うところなんだ」

「そうなんですか」

「そうだよ」

「わかりませんでした」

「鈍さも率直さと合わさると美徳になるという説も、ないわけじゃない」


 このあと、午後三時を越えて、鐘が鳴った。

 誰もいなかった教室から、誰かの席だけがずれていた。

 その席がずれていることを知っているのは、僕だけだった。


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