第10話|午後三時の独白
【さて僕、笹舟朔によると】
人が消えるのを、僕は三回見たことがある。
正確に言えば、消える瞬間は見ていない。
でも、たしかにそこにいたはずの人が、いつのまにかいなくなっていて、しかもそれを誰も覚えていなかった。
一度目は、春の終わり。中庭の桜が緑になりかけてたころ。
二度目は、文化祭のあと。テントが片づけられた翌日の朝。
三度目は、最近。たぶん昨日。理科準備室の前の廊下だった。
僕は観測している。ずっとこの学校を。
この世界の法則が、教科書の裏にだけ載ってる気がして。
それで、ノートのすみに数式を走らせてみたり、腕時計の針を10分遅らせて登校してみたりしてる。
誰かが消えるとき、この世界はまばたきすらしない。
空気の密度も変わらないし、光の屈折も一定だ。
ドアは開いたままだし、机の引き出しには残されたものが静かに横たわっている。
けれど、確かに、そこにあったはずの何かが、消えている。
それを、世界はごく自然なふりをして飲み込んでいる。
まるで最初から欠けていたみたいに。
その自然さこそが、僕を不安にさせる。
だから、僕は観測することをやめられない。
「不在」は、たぶんこの学校にとっての初期設定なんだ。
「存在」は、あとからその穴を埋めるための一時的な演算に過ぎない。
その証拠に、誰かが「いたことにしておく」ために人は写真を撮るし、記録を書くし、名前を呼ぶ。
だけど、それをやめた瞬間、穴はすぐに元どおりになる。
午後三時。
この時間だけは、そういった修正の手が届かない。
いわば、修復されないままの欠損が、光のなかに、壁の影に、歩道の端に残っている時間。
午後三時だけが、正確に失われたものを記録してくれる。
たとえば、風が抜けたあと、音がわずかに揺らいで、そのタイムラグのような余白に、かつてそこにいた誰かの「気配」だけが残る。
気配は物理じゃない。でも観測できる。少なくとも、僕は。
この世界に、誰がいたか、誰がいなかったか。
その差は、ほんの紙一重だ。
昨日そこにあった筆箱が、今日はない。
でも、代わりに、なぜか天井の端に傷がある。
不在は、形を変えて残る。
——それが、僕、笹舟朔によるところの、
午後三時的世界の理論だ。
【さて私、三条しおりによると】
人が消えるって、
たぶん、生きてる以上に自然なことだと思う。
わたしの隣にいた子が、ある日突然いなくなること。
誰も騒がない。誰も悲しまない。
みんながそろって「最初からいなかった」みたいな顔をしてる。
それってつまり、「忘れる」っていう選択を全員がしてるってことでしょ?
こわいのは、人が消えることじゃなくて、そのあとに、誰も何も言わないこと。
だから、わたしは探すようになった。
すずのことも。
白いフードのあの子のことも。
どこかで目が合った気がして、でも名前の出てこない誰かのことも。
気づけば、わたしは校舎のすみとか、屋上とか、
先生のいない図書室とか、いろんな場所をぐるぐると歩いていた。
探すって、儀式だと思う。
だって、見つけられなくてもいいの。
ちゃんと誰かを探してるってだけで、「その人が、かつていた」ってことを肯定できるから。
もし、誰も探さなかったら、いなくなった人は、世界から「いたかもしれない可能性」ごと抜かれてしまう。
「いなかったことにされる」っていうのは、たぶん、
一番きつい種類の死だと思う。
すずが消えたとき、わたしは何もできなかった。
彼女がどこに行ったのかも、なぜいなくなったのかもわからないまま、気づいたら、彼女がいたという教室の椅子に、別の人が座ってた。
でも、そのとき思った。
――きっとわたしの目が、午後三時に間に合わなかっただけなんだ。
午後三時。
空気がすこしだけ重くて、廊下に足音が響かなくなる時間。
この時間は、なにかを隠してる。
壁のすき間に、影の端に、フェンスの裏側に。
大事なものが、そっとひっかかってる気がする。
たとえば、ノートの落書き。
たとえば、昇降口に置き去りの傘。
たとえば、購買で誰かが買った最後のラムネ。
それが全部、午後三時のポケットに吸い込まれていく。
わたしの足は、気づいたらそこを追いかけてる。
ほんとは、何を探してるのかもよくわかってないかもしれない。
でも、午後三時がある限り、「まだいるかもしれない」って思える。
不在の人を探すって、その人を「もういない」と思わないための方法なんだよ。
誰かが残した痕跡って、時間の中で消えそうになる。
でも、わたしがその痕跡に気づくことで、その人はもう一度、すこしだけここに戻ってくる。
風の音のかたちで。影のゆらぎの長さで。
――それが、わたし、三条しおりによるところの、午後三時的世界の歩き方。




