第4話|道を間違えたまま帰れた日
五時間目が終わったあと、すずは椅子の背に両足を乗せて後ろ向きに座っていた。鞄は机の上、上履きは片方だけ脱げている。窓の外では、吹奏楽部が音を外しながら練習していた。すずはその音を聴いているのか、ただぼんやりしているのか、判断できない顔をしていた。
「そろそろ帰る?」と言ったのは、僕のほうだった。
返事はなかったが、すずはひと呼吸遅れて椅子から降りた。落ちた上履きを拾って履くと、片方だけ靴紐がほどけていた。結び直すことはせず、そのまま歩き出す。
教室の戸を閉めると、光が鈍く床に残ったチョークの粉を照らしていた。黒板には午前中に使われたままの数式が残っていて、その横に「月」とだけ書かれていた。
校門を出ると、風が強かった。
舗装された歩道に、校庭の砂埃が延々と押し寄せてくる。空は青いのに、光が白くて、地面のほうばかり騒がしい。グラウンドではまだサッカー部が練習を続けていて、ボールの音が不規則に風に乗って届いた。すずの髪がときおり宙に浮いては、ぺたんと首に貼りついた。
「風つよいね」
「今日は運ばれる日だよ」
「なにが?」
「いろんなものが。たとえば、帽子、気持ち、あと、誰かの秘密」
いつもの帰り道は、踏切を渡って川沿いに出るルート。でもすずは「こっち」と言って、住宅街のほうへ曲がった。路地が折れ曲がりながら続いている。猫のような歩き方で、僕の半歩先をすずは進んでいた。彼女の影が、低いフェンスの上をぴょんぴょん跳ねていた。背後では部活帰りの笑い声が遠ざかっていった。
「この道、帰れるの?」
「ううん」
「じゃあ、どこ行くの?」
「知らないとこ。知ってるとこには飽きた」
「君、よくそういうこと言うけど、飽きてばかりだと大変だよ」
「うん。でも退屈はいやじゃない」
否定の仕方に実感がなさすぎて、かえって信じられる気がした。たぶん本当に、すずはどこに向かっているかなんて考えていなかった。地図のない旅。ルールのない寄り道。僕らは、その中心にいた。
住宅と住宅の隙間に、小さな公園があった。誰もいない鉄棒と、半分埋もれたタイヤ。砂場の縁に、ありえない色のビニール傘がささっていた。ひらひらとコンビニのレシートが風に舞って、何度も地面にぶつかっては飛んでいった。雲の形が変わっていくのを、すずはずっと見ていた。
「タイヤってさ」と僕。
「うん」
「回るものなのに埋められてるの、不憫だよね」
「君、そういうのに感情移入しがちだよね」
「だってさ。お風呂場の栓にも感情があると思うし」
「栓?」
「止める役ってつらいじゃん」
ふたりでそのまま、公園のベンチに座った。隣の家の窓が少しだけ開いていて、中からラジオの音が漏れていた。どこかの方言で、天気の話をしていた。僕たちの靴には砂が入っていた。すずの袖口には、グラウンドの白線の粉がついていた。
ファンタグレープの缶を自販機で買った。2本。並べて置いたら、ラベルの紫がやけに鮮やかに見えた。ベンチの表面は少しだけざらついていて、すずの指がその模様をなぞっていた。遠くで救急車のサイレンが鳴っていたが、どこか遠い世界の音みたいに聞こえた。
「ぶどうって果物界でどういう立ち位置なんだろう」
「甘やかされてると思う」
「なんで?」
「房ごと冷やされるとか、特権だよ」
「皮ごと食べるのもあるしね」
「でもファンタには種がないね」
すずが飲む。僕も飲む。何も言わない。紫の泡が、口の中でしゅわっと弾ける。その音が聞こえる気がした。炭酸が弾けたあとに、言葉が残らなかった。
「ねえ」とすずが言った。
「道を間違えたまま帰れたらさ、それがほんとの道なんじゃない?」
そう言ってすずは、空に缶をかざして透かして見ていた。紫の残り香のなかで、僕は何も答えられなかった。すずの目がどこを見ているのか、僕には最後までわからなかった。見ていたのは空か、雲か、それとも缶の内側に浮かんだなにかだったのか。
「じゃあ、帰ろっか」とすずが言った。
僕たちは帰った。
ちゃんと家まで辿りついた。
でも、どこを通ったのか、まったく覚えていない。信号があったかも思い出せない。どこかで誰かに会った気もするし、ずっとふたりきりだった気もする。途中で渡った小さな橋も、何色だったのかもう思い出せない。
そしてその日が、すずと最後に歩いた日になった。最後? まあ、ある意味では。
ファンタの缶は、帰り道のどこかに置いてきた。並んでいたか、転がっていたかも思い出せない。ただ、紫がやけに明るかったことだけは、はっきり覚えている。
それからというもの、午後三時の空には、あの紫がときどき浮かぶようになった。気のせいかもしれないし、気のせいであってほしいと思う日もある。でもたぶん、あれはすずが忘れていった色なんだと思う。
すずが本当にいたかどうか、不安になった。けれど、ファンタの缶を見かけるたびに、あの日の風景が一瞬だけ、まぶたの裏に浮かぶ。その瞬間だけは、僕は確かに、道を間違えたまま帰れた日のことを信じられる。




