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第3話|ファンタグレープと告白ごっこ

 グラウンド脇のベンチだった。

 野球部がノックを受けてる音が飛んで、サッカー部が自分のゴールに怒鳴っていて、バスケ部が体育館の開いた扉の向こうでリズムを刻んでいた。

 誰かが水を撒いていた。ホースの音が、まるで雨を逆再生したみたいに濡れていた。


 たぶん、全部の音が混ざってる。どの音も聞こえすぎない。

 そういう午後三時だった。


 空は、青くて白かった。

 雲の白じゃない。

 まるで空そのものに、光の色素が混じってるような、そういう白。

 呼吸をしたら肺が乾きそうに高くて、遠かった。


 汗を拭くほどのやる気もなくて、水を飲むほどの渇きもなくて、ただ、午後四時を待っていた。その時間になると、少しだけ太陽の角度が優しくなるから。


 缶ジュースを開ける音がして、そのまま、誰かが座った。

 彼女だった。


 すずは、無言で缶を傾けて飲んだ。

 そのラベルは、陽の角度に銀色の反射をにじませていた。

 紫と銀が、交互にちらついた。

 ファンタグレープだった。


「死ぬかと思ったよ」

 僕は日陰に入りながら言った。


 すずはボトルの口を一瞬止めたけど、すぐまた指を動かし始めた。


「そういう顔してたもん」

「どんな顔」

「これから宇宙に落ちる顔」


 ベンチの背もたれ越しに、空が青かった。

 まぶしい青じゃなくて、どこまでも遠くて、どこにも届かないような青。

 その青の下では、誰かが白球を追いかけていた。

 歓声はないのに、時間だけがやけに熱かった。


 すずは、白いブラウスを着ていた。

 学校指定のものよりすこし薄い色をしていた。

 袖が風で揺れて、肘のあたりがすこしだけ透けて見えた。


「今日も拾ったよ」


 すずはそう言って、ポケットからビー玉を取り出した。

 紫がかった、半透明のやつ。

 中で小さな気泡が、誰にも見られないまま息をしてるように見えた。


「ファンタグレープのふりをしてた」

「なにが」

「このビー玉。自販機の下で、誰にも気づかれないまま、『私はファンタグレープです』って言ってた気がした」


「それで拾ったの?」


「うん。かわいそうだったから」

 すずは、ビー玉をもう一度ボトルの口に近づけた。

 紫が、紫と重なって、どっちがどっちかわからなくなった。


「陽太くん、告白ごっこしようよ」


 突然だった。

 だけど、唐突ではなかった。

 すずは、意味が変なところで止まって、言葉だけが先に進んでいくタイプだ。


「どういうルール」


「私が『君のことが好きです』って言うから、君は『ありがとう』って言って」

「それだけ?」

「それだけ。感情は使わなくていいよ。言葉だけで充分」


 彼女は立ち上がって、グラウンドに向かって歩き出した。

 制服のスカートが音もなく揺れていた。

 地上では部活たちが騒いでいて、だけど彼女はどこにも属していなかった。


 僕は立ち上がって、彼女の隣に並んだ。


「じゃあ、どうぞ」

「……高槻陽太くん、君のことが好きです」

「ありがとう」


 そこには、何の揺れもなかった。

 ただ、遠くで白球が空を切って飛んでいく音がした。

 ボールを追いかける影が、誰にも追いつかずに空を裂いた。


「今の本気だった?」

「ううん、ファンタグレープくらいの本気」

「それは、甘いってこと?」

「すぐぬるくなるってこと」


 すずはボトルの最後の一口を飲み干した。

 残った紫の泡が、口の端から一粒だけ落ちた。


「でもさ、告白って、言葉だけで成立するから面白いんだよね」

「そう?」

「うん。だって、相手が嘘でも本気でも、好きって言葉は一度だけ本物になる」

「なんか哲学っぽいな」

「ううん、炭酸っぽいの」

「どういう意味」

「ぬるくなって、でも手放せなくて、最後に飲んだときに『やっぱりこれだったな』って思うでしょ」


 彼女はビー玉を空にかざした。

 ビー玉の紫と、空の青と、ボールの白と、汗の粒がぜんぶ混ざって、

 今日という一日が、すこしだけ水色になった。


 グラウンドの遠くで誰かが転んだ音がした。

 声が上がって、水が撒かれて、歓声が飛び、何かが終わった。

 全部の音が、同時に午後に吸い込まれていった。


 僕は空を見上げようとしてひっくり返り、座り直すと翌日のすずがいた。


「ねえ、告白ごっこしようよ」

 まただ。前にもそう言った。あのときは冗談みたいだったけど、

 今回は少しだけ、真顔だった。


「また?」

「うん。今日のは、ちょっとだけ正式なやつ」


「正式なごっこって、どういうルール?」


「今日は、告白のあと、質問していいルール、でいこうと思う」


「質問?」

「うん。『好きです』のあとに、『なんで?』って聞いていいの」


「で、答えなきゃいけない?」


「答えなくてもいいよ。でも、答えるふりだけはして」


 彼女はファンタオレンジの缶を僕に差し出した。

 飲む? とは言わない。そういう言い方をしないのが彼女だ。

 僕は受け取って、残っていた炭酸を少し飲んだ。ぬるかった。


「じゃあいくね」


 彼女は立ち上がり、僕の前に回って、少しだけ背筋を伸ばした。


「高槻陽太くん。君のことが、好きです」


 風が吹いた。

 遠くのグラウンドで誰かが空振りして、その音が空に吸い込まれた。


 僕は黙って、ファンタオレンジの缶を見ていた。

 そして、缶越しにすずの顔を見た。

 ちょっとだけ、いつもより目が細くなっていた。


「なんで?」


 僕は訊いた。ごっこのルール通りに。


「えーとね」

 すずは空を見た。

 その空の白さは、昼と夕方のあいだを漂っていて、夏だけに許された厚みを持っていた。


「好きになった理由なんて、だいたい甘すぎるか苦すぎるかのどっちかなんだよね。

 だから、ちょうどファンタグレープくらいの感じで、理由があると思った」


「それ、味の話?」


「うん。君って、炭酸が残ってるようで、抜けてるようで、よくわかんない味する」


「褒めてる?」


「褒めてる。たぶん」


 僕はファンタオレンジの缶を掲げて、すこしだけ笑った。

 乾杯ではなかったけど、何かを終わらせる合図にはなった気がした。


「でも、これファンタオレンジだ」


「え?」


 夏の夕方、空は赤くて、遠くでまたボールが打ち上がっていた。

 紫の缶と白い空と砂埃のなかで、誰にも知られないラブレターのやりとりが、

 さざ波のようにくり返されていた。


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