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第17話|校舎がばらばらになる日

 午後三時の校舎は、もう校舎であることに飽きていた。

 廊下が横にずれた。

 教室の扉が、引き出しみたいに半分だけ飛び出した。

 階段は上へ続くのをやめ、途中から斜めにほどけていた。ほどける、という言い方がいちばん近かった。階段は積み重なった板ではなく、長いリボンだったのかもしれない。

「記録! 記録して!」

 観測隊の誰かが叫んでいた。

 でも、記録する紙のほうが先に風に飛ばされた。紙は廊下だった場所をひらひら進み、黒板の裏側に吸い込まれた。

「全員、落ち着け!」

 安堂が叫ぶ。

 その声は立派だった。立派すぎて、崩れている校舎には少し似合わなかった。


「落ち着いたら落ちるよ!」

 しおりが笑いながら叫んだ。

 彼女はすでに窓枠の上を走っていた。窓枠と言っても、窓はもう壁から外れて空中に浮いている。しおりはそれを、飛び石みたいに踏んでいく。

「こっち!」

 しおりが僕たちに手を振った。

 僕は動けなかった。

 足元の床が、さっきから少しずつ薄くなっている。床というより、古い写真みたいだった。踏めるのに、信用できない。


 すずは隣にいた。

 彼女は床の裂け目を見下ろしていた。裂け目の下には、たぶん一階があるはずだった。けれど見えたのは、古い理科室の天井と、屋上のフェンスと、見覚えのない夕焼けだった。

「すごいね」

 すずが言った。

「感心してる場合?」

「うん。こういうときは、感心したほうがいいよ。怖がると、怖いほうに落ちるから」

 その言葉が本当かどうかはわからなかった。

 でも、すずの足元が崩れた。

 床が、紙を破るみたいな音を立てて裂けた。

 すずの身体が少し傾く。

 たぶん、これまでの僕なら見ていた。

 驚いて、名前を呼んで、誰かが何とかするのを待っていた。

 しおりが来るとか、午後三時が気を変えるとか、すず自身がふわっと戻ってくるとか、そういうことを。

 なんでだろう。でも、その日は違った。

 僕はすずの手を取った。

 思ったより冷たかった。

 思ったより簡単だった。

「こっち」

 自分の声が、自分のものではないみたいに聞こえた。

 すずは目を丸くした。

「陽太くん?」

「走る」

「どこを?」

「わからない」

「いいね」

 いいのか。

 よくはない。


 でも、考えている時間はなかった。

 僕はすずの手を引いて、廊下だったものを蹴った。

 次の瞬間、僕たちはたぶん空中にいた。こんなことは普通できない。でも、普通のほうがさっき崩れたので、仕方なかった。

 足の下に、黒板が流れてきた。

 僕はそれを踏んだ。チョークの粉が舞う。

 次に、誰かの机が横向きに浮いていた。机の中からプリントがこぼれ、春の雪みたいに散った。

 しおりが前を走っている。

 走っているというより、校舎の崩れ方に合わせて踊っているようだった。

「遅い!」

「こっちは初めてなんだよ!」

「初めてにしては上出来!」

「採点しないで!」

 すずが笑った。

 手を引かれているのに、彼女はやけに軽かった。引いているのか、引かれているのか、途中からよくわからなくなった。

 下では、観測隊と風紀派が混ざっていた。

 腕章も紙ばさみも、もうあまり意味がない。誰かが誰かの手を掴み、誰かが誰かを引き上げ、誰かが「記録どころじゃない」と叫んでいた。

 安堂は崩れかけた階段の途中で、落ちそうになった観測隊の女子の腕を掴んでいた。

「違反行為だぞ!」

「助けながら言うことですか!」

「助けてから言う!」

「順番逆じゃないですか!」

 安堂は歯を食いしばりながら、その子を引き上げた。

 少しだけ笑いそうになった。笑っている場合ではなかったけれど、笑ってしまうようなことは、だいたい笑っている場合ではないときに起きる。

「上!」

 しおりが叫んだ。

 見ると、天井が落ちてきていた。

 いや、天井というより、三階の廊下が裏返って降ってきている。そこには下駄箱がくっついていて、誰かの上履きが宙に散らばっていた。

 僕はすずの手を強く握った。

「わっ!」

「ごめん」

「ううん、離さないで」

「うん」

 僕たちは窓枠を蹴った。

 体が浮く。

 風が頬に当たる。

 校庭が見えた。

 屋上が見えた。

 図書室の本棚が、巨大なカードみたいに倒れていくのが見えた。

 しおりが最後の足場を蹴った。

 僕たちもそれに続いた。

 空中で、すずが言った。

「陽太くん、けっこうやるね」

「いま言う?」

「いましか言えないことってあるじゃん」

 僕は返事をしようとして、できなかった。

 着地したからだ。

 校庭だった。

 たぶん。

 少なくとも、土があった。

 僕とすずは転がるように着地し、しおりは少し先で片膝をついていた。まるで最初からそういうポーズを決めていたみたいだった。振り返ると、校舎がばらばらに崩れていた。

 窓が空へ流れ、廊下が折れ、教室が箱みたいに開いていた。でも、生徒たちは誰も死んでいなかった。怪我をした様子もない。午後三時の崩壊には、どこか遊園地の安全基準みたいなものがあるのかもしれない。

 チャイムが鳴った。

 いつもの、普通の、少し間の抜けたチャイム。


 その音が鳴り終わるころ、校舎は元に戻っていた。

 窓は窓に、廊下は廊下に、階段は階段に。

 黒板には、消えかけの数式が残っている。

 観測隊は校庭に座り込んでいた。

 風紀派も座り込んでいた。安堂は立っていたけれど、襟元が曲がっていた。彼はそれに気づいていないようだった。誰もすぐには話さなかった。

 あれほど騒がしかった午後三時が、急に空っぽになっていた。

 すずがぽつりと言った。

「静かになったね」

 僕は、まだすずの手を握っていることに気づいた。

 慌てて離そうとすると、すずは指先だけ少し残した。

 それから、何事もなかったみたいに離した。

 しおりがこちらを見ていた。

「陽太、飛んだね」

「飛んだというか、落ちなかっただけ」

「それを飛んだって言うんだよ」

「そうかな」

「そうだよ」

 しおりは笑った。

 でも、その笑いもいつもより少し静かだった。


 放課後、自販機の横で笹舟先輩に会った。

 彼は缶コーヒーを持っていた。

 まったく悪びれていなかった。

「大変でしたよ」と僕は言った。

「そうらしいね」

「先輩、どこにいたんですか」

「購買の裏でパンの耳を見てた」

「この非常時に?」

「非常時にしか見えないパンの耳もある」

「ないですよ」

「高槻くんは、断言が少しうまくなったね」

 笹舟先輩は缶コーヒーを開けた。

 プシュッ、という音がした。

 それは、さっきの校舎崩壊よりもずっと現実的な音だった。

「なんだったんですか、あれ」

「どれ」

「校舎がばらばらになったやつです」

「ああ」

 先輩は少し考えるふりをした。

 本当に考えているのか、考えるふりを考えているのかはわからなかった。

「午後三時は、もともと期待と退屈が釣り合っている時間なんだと思う」

「はい」

「何かが起きそうで、でも起きない。起きないから、ますます起きそうに見える。そういう釣り合いで、なんとか立っている」

「それが崩れた?」

「みんなが意味を持ち込みすぎたんだろうね。観測したい人。取り締まりたい人。担ぎたい人。逃げたい人。走りたい人」

「先輩は逃げたい人ですか」

「僕は、担がれたくない人」

「似てますね」

「違うよ。逃げる人には目的地がある。担がれたくない人には、肩車の拒否権しかない」

 わかったような、わからないような説明だった。そんことばかりだ。でも、僕にはわかりたいことが、あるかもしれない。

 笹舟先輩は続けた。

「観測する力と、取り締まる力がぶつかって、校舎が耐えられなくなった。学校って、思っているより柔らかいからね」

「豆腐みたいに?」

「豆腐は偉いよ。崩れても豆腐だから」

「学校は?」

「崩れると、少しだけ本音が出る」

 僕は校庭を見た。

 観測隊だった生徒と風紀派だった生徒が、同じベンチに座っていた。何かを話している。遠くて内容は聞こえなかった。

「でも、終わったんですか」

「たぶん」

「たぶん」

「午後三時的異変はね。少なくとも、ああいう大きいのはしばらくないと思う」

「なんで」

「君が手を引いたから」

 僕は黙った。

「僕が?」

「集団が午後三時を奪い合っていた。でも君は、その中でひとりの手を引いた。話が急に個人的になったんだよ」

「それで?」

「午後三時は、個人的なほうが落ち着く」

 先輩は缶コーヒーを飲んだ。「知らないけど」

「知らないんですか」

「知らないよ。僕は解説しているだけで、正解を持っているわけじゃない」

「無責任ですね」

「責任のある解説なんて、午後三時には重すぎる」

 先輩は笑った。

「でも、高槻くん」

「はい」

「観測するより先に、手を引いたのはよかったと思う」

「そうですか」

「うん。愚かで、よかった。青春の無理筋ってやつだ」

 乱暴。

 僕は自分の手を見た。

 すずの手の感触が、まだ少し残っていた。

 冷たくて、軽くて、でも確かにそこにあった。

「君、ようやく少し主語を持ったね」

 笹舟先輩はそう言った。

 その言葉に、僕は何も返せなかった。

 けれど、返せないことが、前ほど嫌ではなかった。

 午後三時は、もう終わっていた。

 でも、空にはまだ少しだけ、その名残があった。

 薄くて、甘くて、炭酸の抜けかけた紫色の名残。

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