第16話|午後三時戦争
笹舟先輩が姿をくらました翌日、学校は完全に午後三時のものになっていた。
朝なのに、午後三時の話をしている。
一時間目の前なのに、午後三時の作戦表が回ってくる。購買のパンを選ぶ顔で、誰かが「今日は旧校舎が怪しい」と言う。時間というのは、時計の針だけでは足りないらしい。誰かが強く考えすぎると、午前中にも午後三時がにじむ。
観測隊は、笹舟先輩の不在を「現象」と呼んだ。
風紀派は、それを「逃亡」と呼んだ。
先生たちは「最近ちょっと騒がしいですね」と呼んだ。呼び方が違うだけで、学校はいくつかに分裂しかけていた。昼休み、渡り廊下に観測隊が集まっていた。中心にいるのは、しおりではなかった。けれど、誰もがしおりのほうを見ていた。中心にいない中心。そういうものが、この世にはある。
「三条さん、今日の三時、旧校舎でいいんだよね?」
「知らない」
「でも、笹舟先輩が消えた場所って図書室奥だし」
「知らないって」
「じゃあ、図書室班と旧校舎班に分ける?」
「私に聞かないで」
しおりはサンドイッチを食べながら、露骨に面倒くさそうな顔をしていた。
「リーダーって大変だね」と僕が言うと、しおりは僕をにらんだ。
「一回もなったことない」
「でも、みんなそう思ってる」
「思われたらなるの?」
「ならないと思う」
「じゃあ、ならない」
その言い方は、とてもまっすぐだった。
けれど、まっすぐな言葉は、曲がった場所ではよく引っかかる。
廊下の向こうから風紀派がやってきた。安堂を先頭に、何人かがきっちりした歩幅で近づいてくる。彼らの靴音は、廊下を定規で測っているみたいだった。
「無許可集会は解散しろ」
安堂が言った。
観測隊の男子が言い返した。
「これは集会じゃなくて、観測準備です」
「同じだ」
「同じじゃありません」
「許可を得ていない点で同じだ」
「午後三時に許可とかあるんですか」
「学校内で行われる活動には許可が必要だ」
「午後三時は学校内にあるんですか」
その質問に、安堂は一瞬だけ黙った。
たぶん、答えはある。けれど、その答えを言うと何かに負ける気がしたのだと思う。
「言葉遊びをするな」
「言葉遊びじゃないです。笹舟理論では——」
「笹舟の名前を出すな」
安堂の声が、思ったより強く響いた。
廊下が少しだけ静かになった。
しおりがサンドイッチの最後の一口を飲み込んだ。
「どっちも、笹舟先輩のこと見てないじゃん」
誰かがしおりを見る。
安堂も見る。
しおりは続けた。
「観測隊は、笹舟先輩を旗にしてる。風紀派は、笹舟先輩を違反にしてる。でも本人はたぶん、どっちにもなりたくないよ」
「君がそれを言うのか」と安堂が言った。
「私が言うよ。だって私も、勝手にリーダーにされてるし」
「影響力には責任が伴う」
「勝手に影響された人の責任まで持てないよ」
安堂の顔が硬くなった。
「無秩序を放置すれば、学校は崩れる」
「崩れたら走ればいいじゃん」
「ふざけるな」
「ふざけてないよ。私はだいたい本気で走ってる」
そのとき、すずが僕の横に来た。
いつのまにいたのかはわからなかった。そういう登場の仕方を、すずはよくする。
「みんな、午後三時を使って、自分の話をしてるんだね」
すずは小さく言った。
「自分の話?」
「うん。見つけたい人は、見つけたい話。取り締まりたい人は、取り締まりたい話。騒ぎたい人は、騒ぎたい話」
「すずは?」
「私は、ファンタグレープがぬるくなる話」
彼女は缶を持ち上げた。缶は少し汗をかいていた。
渡り廊下の窓が、がたんと鳴った。
風が吹いたわけではなかった。
窓のほうが、自分で鳴ったみたいだった。
誰かが「いまの記録した?」と言い、別の誰かが「風紀の前で記録するな」と言った。
安堂が声を張った。
「本日午後三時、旧校舎および図書室周辺への立ち入りを禁止する」
観測隊から不満の声が上がる。
「禁止されたら、そこが怪しいって言ってるようなものじゃん」
「危険があるから禁止する」
「危険って何ですか」
「騒動だ」
「騒動はもう起きてます」
言い合いは、どこまでも輪になった。輪は便利だ。出口がないことを、形のせいにできる。
午後の授業中、校舎はさらに変だった。
数学の時間、黒板に書かれた放物線が、少しずつ右にずれていった。先生はチョークの粉のせいだと言った。たぶん違う。廊下を歩くと、突き当たりにあるはずの階段が、二歩ぶん遠かった。トイレの鏡に映る自分の後ろで、誰もいないドアが開いた。教室の時計は、二時四十分を指したまま、秒針だけが妙に急いでいた。
「校舎、ぐにゃぐにゃしてるね」
すずが言った。
「比喩?」
「まだ比喩」
「まだ」
「うん。比喩って、たまに本当になるから気をつけたほうがいいよ」
僕は窓の外を見た。
校庭では体育の授業をしていた。そこだけは普通に見えた。ボールが転がり、生徒が追いかけ、先生が笛を吹く。普通というものは、遠くから見るとわりと頑丈だ。
午後二時五十分。
廊下に人が出はじめた。
観測隊は、風紀派の禁止をほとんど守らなかった。むしろ禁止されたことで、いつもより真剣な顔をしていた。風紀派も、いつもより人数が多かった。安堂の周りに、紙ばさみを持った生徒たちが集まる。
しおりは、階段の手すりに座っていた。
「逃げないの?」
僕が訊くと、彼女は片足をぶらぶらさせた。
「逃げる方向を決めてる」
「逃げる前提なんだ」
「走る前提」
「一緒じゃない?」
「ぜんぜん違う。逃げるのは後ろに理由がある。走るのは前に理由がある」
「前に理由あるの?」
「たぶん、ある」
しおりがそう言ったとき、床が小さく鳴った。
みし、と。
古い木造校舎なら似合う音だった。けれど、ここは普通の鉄筋コンクリートの校舎だ。鳴り方を間違えている。
すずが、僕の袖を少しつまんだ。
「陽太くん」
「なに」
「今日の午後三時、音が濁ってる」
「前も言ってたね」
「今日は、割れそう」
午後二時五十九分。
校内放送が鳴った。
雑音だけが流れた。
ザー、という音。海に似ていた。昨日見つからなかった海が、校内放送の中にだけあった。
その雑音の向こうで、誰かの声がした。
「旧校舎に集合」
観測隊の誰かが歓声を上げた。
安堂が叫んだ。
「移動するな!」
しおりが手すりから飛び降りた。
「移動しないと、始まらないじゃん」
午後三時。
チャイムは鳴らなかった。
かわりに、校舎が鳴った。
壁の内側で、巨大な動物が寝返りを打ったような音だった。
廊下の窓が一斉に震えた。
黒板の文字が、ばらばらにほどける。
誰かが叫んだ。
「校舎が、ずれてる」
その声が終わる前に、床が一段下がった。
いや、下がったのは僕の足元だけで、隣の床はそのままだった。廊下が、ひとつのものではなく、いくつもの板の集まりだったことを急に思い出したみたいだった。
すずが息をのむ。
しおりが笑う。
安堂が何かを命令する。
観測隊が記録しようとして、ペンを落とす。
風紀派が秩序を保とうとして、足場を失う。
学校が、ばらばらになりはじめていた。




