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第15話|担がれる人

 海へ行った次の日、学校は少しだけ傾いていた。

 もちろん、実際に傾いていたわけではない。廊下の床も、窓枠も、黒板も、たぶん建築基準法的にまっすぐだった。けれど、歩いていると右肩だけが余計に重くなるような感じがした。

 昨日、僕たちは海に行こうとして、海ではない場所に着いた。フェンスの向こうに工場があって、潮のにおいだけがして、すずが「ササブネ先輩って、知らない」と言った。その一言が、僕の中でまだ小さく鳴っていた。

 知らない。

 知らないという言葉は、なかなか強い。なかった、よりも強い場合がある。なかった、には終わりがある。でも知らない、には始まりがない。教室に入ると、後ろの黒板に大きく「午後三時観測隊・臨時集会」と書かれていた。

 その下には、何人かの名前が並んでいる。

 三条しおり。

 安堂対策班。

 旧校舎観測班。

 笹舟理論研究会。

 最後の文字を見て、僕は立ち止まった。

 笹舟理論研究会。

 そんなものは、昨日までなかった。少なくとも、僕の知っている世界にはなかった。

「なにそれ」

 僕がつぶやくと、近くの席にいた男子が振り返った。

「知らないの? 笹舟先輩、午後三時現象の第一発見者らしいよ」

「第一発見者」

「うん。観測隊の中ではそういうことになってる」

「そういうことになってる、って便利だね」

「便利だよ。話が進むから」

 話は、進めばいいというものではない。進んだ先が崖だったり、購買の売り切れだったりすることもある。すずは窓際の席で、頬杖をついていた。彼女は黒板を見ているようで、見ていないようだった。春の光が彼女の髪に当たり、髪の一本一本が別々の国の細い旗みたいに揺れていた。


「すず」

「うん」

「笹舟先輩のこと、本当に知らない?」

「知らないよ」

「三年の先輩。図書室とか、理科室前とかにいた」

「図書室には本がいるし、理科室前には理科室前の空気がいるよ」

「人の話をしてる」

「人って、ときどき場所みたいな顔するから」

 すずはそう言って、黒板の文字を見た。

「ササブネ理論研究会」

「声に出すと、ますます怪しいね」

「ササブネって、水に浮きそうなのに、理論になると沈みそう」

「たぶん本人も嫌がると思う」

「本人、そういうの嫌がるタイプなんだ」

「たぶん」

「陽太くん、たぶんが多いね」

「たぶんね」

 すずは少し笑った。


 その笑いは、昨日海ではない場所に吹いていた風と似ていた。ちゃんと届いているのに、どこから来たのかわからない。

 昼休み、廊下はいつもより騒がしかった。

 観測隊らしい生徒たちが、プリントを持ってあちこち歩いている。プリントには「午後三時現象基礎理論」とか「笹舟仮説による校内空間のゆらぎ」とか、ずいぶん立派な言葉が並んでいた。立派な言葉は、立派すぎると急に薄くなる。

「笹舟仮説って何?」

 しおりが横からプリントを覗き込んできた。

「知らない」

「本人に聞いたら?」

「聞きに行こうとしてたとこ」

「じゃあ、行こう」

 しおりは今日も迷わなかった。

 彼女はスケッチブックを小脇に抱え、廊下の人波をすいすい抜けていく。逃げているときでなくても、しおりは逃げているみたいに歩く。世界のほうが彼女を追いかけているのかもしれない。


 僕たちは図書室に向かった。奥の窓は開いていた。そこに笹舟先輩はいた。

 毛玉だらけの白いのセーター。薄い紙の本。何かを知っていそうで、たぶん半分くらいしか知らない顔。

「やあ」

 先輩は僕たちを見ると、まったく驚かずに言った。

「今日は二人か。いや、三人目もいるのかな」

「三人目?」

「噂。噂はだいたい、人より先に部屋へ入ってくる」

 そう言って、笹舟先輩は本を閉じた。

 しおりがプリントを差し出した。

「先輩、担がれてますよ」

 笹舟先輩はそれを受け取り、目を細めて読んだ。

「笹舟仮説」

「知ってます?」

「知らないね。僕に無断で僕より賢くなってる」

「観測隊が、先輩を中心にしたいみたいです」

「中心か」

 笹舟先輩は窓の外を見た。

「中心って、たいてい居心地が悪いよ。台風の目みたいに静かならいいけど、学校の中心はだいたい埃っぽい」

「嫌なんですか」

「僕は旗じゃないんだよ。風が吹くと、みんな旗を探すけどね」

 先輩はプリントを折った。丁寧に、でも折り目は少し曲がっていた。

「観測隊も風紀派も、最近は熱心だね」

「知ってるんですか」

「知らないふりをするには、少しうるさすぎる」

 しおりが本棚にもたれた。

「風紀派は先輩のこと、騒動の元凶みたいに見てるっぽいです」

「元凶」

 先輩はその言葉を口の中で転がした。

「元凶って、いい響きだな。元気な凶器みたいだ」

「感心してる場合じゃないですよ」

「感心してる場合というのは、だいたい感心してから気づくものだよ」


 そのとき、図書室の入口に人影が立った。

 安堂だった。

 彼は図書室に似合わないくらい制服を正しく着ていた。正しすぎる服装は、場所によっては暴力に近い。

「笹舟朔」

 安堂が言った。

 笹舟先輩は小さく手を上げた。

「はい。たぶん僕です」

「君の名前を使って、無許可の集会が行われようとしている」

「僕の名前も大変だな。本人より忙しい」

「冗談ではない」

「冗談じゃないことを冗談で言う練習をしてるんだ」

 安堂は一歩近づいた。

「午後三時観測隊に関与しているのか」

「してないよ」

「では、なぜ君の名前が使われている」

「使いやすいからじゃないかな。笹舟って、軽そうだし」

 すずと同じことを言った。その偶然に、僕は少しだけ驚いた。

 安堂は表情を変えなかった。

「君には事情聴取を行う必要がある」

「事情って、聞くと増えるよ」

「逃げるつもりか」

「まだ逃げてない」

「まだ?」

 笹舟先輩は立ち上がった。

 本を棚に戻し、机の上にあった鉛筆を一本だけポケットに入れた。

「高槻くん」

「はい」

「人に担がれると、景色はよく見える。でも足元が見えなくなる」

「はあ」

「その返事、なかなかいい。説明を拒む湿度がある」

「褒めてます?」

「たぶん」

 先輩は図書室の奥へ歩き出した。

 奥には壁しかない。少なくとも、普通はそうだ。でも午後三時が近づくと、この学校の壁はときどき壁であることを忘れる。笹舟先輩は本棚と本棚のあいだに入り、こちらを振り返った。

「僕は少し、旗でない場所に行くよ」

「どこですか」

「旗じゃないところ」

「説明になってません」

「説明にならないもののほうが、たまに役に立つ」

 安堂が走り出した。

 しおりも一歩踏み出した。

 でも笹舟先輩は、次の瞬間にはいなかった。本棚のあいだには、少しだけ風が残っていた。安堂は壁を叩いた。

「どこへ行った」

「さあ」としおりが言った。

「君が逃がしたのか」

「逃げる人を逃がすほど、私は親切じゃないよ。追いかけるほうが得意」

 安堂は僕を見た。

「高槻」

「僕も知りません」

「君たちは、いつも知らないと言う」

「知ってるふりよりはいいと思います」

 安堂は答えなかった。

 彼は笹舟先輩が消えた本棚の隙間をしばらく見ていた。その顔には、怒りよりも不安に近いものがあった。放課後、学校中に噂が広がった。

 笹舟先輩が消えた。笹舟先輩は午後三時に飲み込まれた。笹舟先輩は風紀派から逃亡した。笹舟先輩は観測隊の秘密本部にいる。笹舟先輩はそもそも存在しなかった。噂は、どれも少しずつ嘘で、少しずつ本当だった。


 すずは自販機の前でファンタグレープを飲んでいた。

「知らない人なのに、みんながその人のことで騒いでる」

「うん」

「変だね」

「変だよ」

「でも、そういうことってあるよね」

「あるかな」

「あるよ。知らない人が、急に世界の中心になること」

 すずは缶を傾けた。

 紫の泡が缶の口に残って、すぐ消えた。

「その人、嫌だったんじゃない?」

「たぶん」

「じゃあ、逃げて正解だね」

「でも、逃げたせいで余計に騒ぎになってる」

「人って、いない人のほうが好きなときあるから」

 午後三時は過ぎていた。

 けれど、学校はまだ少しざわついていた。まるで時間のどこかに、閉め忘れた窓があるみたいだった。

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