第14話|午後三時に海へ行く
朝から、学校の廊下が少し軋んでいた。
床がというより、空気が。
生徒たちの声が妙に低く、職員室前の掲示板には「生徒指導上のお願い」みたいな紙が雑に貼られていた。風紀派が立てこもった教室の写真が、無断で共有されたとか。観測隊のメモが盗まれたとか。そんな噂が、波のように黒板の端を濡らしていた。
「ちょっと、抜けない?」としおりが言った。
昼休み、購買のパンの棚を前にして、すずはもうチョコクロワッサンを選んでいた。
僕の知らないところで、すずとしおりは再会していた。二人の関係をよくしらない。でも、二人がいて、僕がいて、すんなりと僕たちは三人でもあれた。
「どこに?」と僕。
「遠くに」
「どのくらい遠く?」
「たとえば、海とか」
海。
たしかに、今日は、海に向かうのにふさわしい天気だった。理由も目的も持たない、青だけが支配しているような空だった。
◇◇◇
僕たちは、学校をさぼった。
誰にも言わず、どこにも名前を書かずに、最寄りの駅の先頭車両に乗った。車内はがらんとしていて、座席の布地がまっすぐに並んでいた。
「逃避行、だね」としおりが笑った。
「他愛のないやつ」と僕。
「制服だと補導されるかも」とすずが言う。
「補導?」
「親に連絡されるやつ」
「うちらに親とか学校とか、あるんだっけ」
それを聞いて、しおりが喉の奥で笑った。
都心に入る頃には、車内の空気が重くなっていた。次々と駅を通過する。何百、何千という人が、別々の場所へ、でもほとんど変わらない表情で移動していた。
「みんな、どこに向かってるんだろうね」とすず。
「たぶん、ほとんどが移動してるだけなんじゃない?」としおり。
「それって、私たちと同じってこと?」
「同じかも」
「じゃあ安心だね」
◇◇◇
乗り換え駅では、僕たちは少し迷った。
スマホで検索しても、線が多すぎてわからなかった。とりあえず、人が多く降りる方向に歩いて、出てきた電車に乗り換える。空調の効きすぎた車内、背後の会話、次の駅のアナウンス。音がすべて、紙の裏から聞こえてくるように感じた。
「電車って、偉いよね」とすずが言った。
「なんで?」
「時間通りに来るじゃん。ちゃんとしてる」
「確かに、学校よりずっと偉い」
「学校は……乱れてる?」
「うん、ぐにゃぐにゃ」
「ぐにゃぐにゃって」
「現実味がないってこと」
「外の方が秩序があるって、変な感じだね」と僕が言うと、しおりがうなずいた。
「なんで、あんなに必死なんだろうね。風紀派も、観測隊も」
「必死じゃなきゃ、どこかに行けないんだよ」
「でも、結局、どこにも行けてないよ」
「たしかに、あの学校で行き先がある人って、いるのかな」
電車はまた新しい駅に着き、扉が開き、風が流れた。
乗ってきたおばあさんがすずの隣に座った。すずは少し体を寄せた。
◇◇◇
「ねえ、陽太」
「ん」
「このまま、何本でも電車に乗り継いだらどうなると思う?」
「最終的には環状線に戻るんじゃない?」
「ループ?」
「たぶん」
「じゃあ、終わらないね」
「終わらないけど、着かない」
「それ、学校に似てる」
すずはそう言って、窓の外を見た。工場の煙が細くのびて、すぐに風にちぎれた。
◇◇◇
電車を降りた駅の名前は、誰も覚えていない。地図を見てみると、確かに海の近くのはずだった。でも、どこをどう歩けばいいのかはわからなかった。
改札を抜けて、僕たちはまばらな住宅地を抜けて歩いた。坂道の途中で、しおりが足をとめて言った。
「さっきの会話、録音してたら、何かのラジオっぽかったかも」
「深夜のやつ?」
「そう、リスナーが三人しかいない番組」
「それ、楽しいじゃん」
笑い声が風にとけた。近くの家から昼のワイドショーの音が聞こえた。
「ねえ、潮のにおいする」とすず。
たしかに、かすかに、潮とアルミみたいなにおいが混ざっていた。
「もうちょっと行ってみようか」誰かが言った。
◇◇◇
視界がひらけた。空は確かに広かった。でも、海はなかった。
ただ、フェンスの向こうに工場が並び、トラックの音がどこかで反響していた。
「たどりついてない……のかな」
「もしかして、ここが海だった場所?」
「潮のにおいは、するよ」
「でも、ないよ」
「ないけど、あるみたいだね」
「それって、うちらもじゃない?」とすずが言った。
しばらく沈黙が流れた。
「陽太くん」としおりが小さく呼んだ。
「ん」
「どうして私なのかな」
「観測隊?」
「そう」
しおりが観測隊に影響を与えているのだという噂があった。しおりは、転向初日から少々目立っていたから、そのせいなのだと僕は何となく思っていた。
「笹舟先輩のほうが観測隊っぽくない?」としおり。
「たしかに、観測とかよく言ってる」
「でしょ?」
「たしかに。すずはどう思う?」と僕が言葉を向けると、すずはきょとんとした表情をしていた。目がビー玉のようで、湾を湛えていた。海だ、と僕は思った。
「ササブネ先輩って、知らない。会ったことない」とすずは笑った。 目が細まって、湛えた湾がこぼれ出し、僕たち三人は溺れそうになった。涙ではなかった。海だった。「海だ」としおりがさけんだ。すずはあいからわず笑っていた。僕は目をつむり、身をまかせた。僕の唯一の得意技。
◇◇◇
どこにも着かないまま、どこかに着いた。
時計の針が傾いて、午後三時だった。
世界が最もぼんやりとしながら、最も輪郭を持つ時間。
しばらくその場に立ちつくして、僕たちは引き返した。
電車はまた、時間通りにやってきた。




