第13話|午後三時の通路で
廊下が風の通り道になるのは、午後三時ごろがいちばん多い。
僕は、ちょうどその時間に校舎と校舎のあいだを歩いていた。体育館と特別教室棟の間にある短い通路は、陽の当たらない灰色の空気に包まれていた。風がびゅっと吹いて、通路の脇、ちょうど段差の影になっているところから、人影がひとつ現れた。
「やっぱり、君に会うね」
三条しおりだった。
シャツのボタンを全部外し下に来た黄色いTシャツがのぞいていた。スカートには小さな泥の跡がついている。片手にはスケッチブック、もう片方の手でサンドイッチのようなものを持っていた。僕は驚かないふりをした。
「こんなところで何してるの?」と僕が訊くと、しおりは「逃げてる」と言った。
「観測隊がまた追ってくる。あと風紀も」
「しおりを?」
「うん。なんか最近、リーダーって呼ばれてるみたいで」
「風紀派の?」
「観測隊だよ」
「リーダーじゃないの?」
「一回もなったことないよ」
しおりは苦笑いを浮かべて、サンドイッチの袋を丁寧にたたんだ。
「ファンクラブみたいなものなんじゃないの」と僕が言うと、しおりは「やめてよ、それ」と真顔になった。
通路の上では、春の風がまたひとつ、スカートの裾を揺らしていった。
「この前、紙に午後三時記録簿って書いて貼ってる子がいたよ」と僕。
「いたね。日直表の裏にね」
「教室の黒板に今日の出現率って書いたやつもいた」
「知らないところで、熱が上がってるんだよね」
しおりはスケッチブックを開いた。
中には、色鉛筆で描かれた断片的な図と、手書きの短い文章がいくつか並んでいた。
「なにこれ」
「風の流れとか、光の角度とか。午後三時のまわりにあるもの」
「観測隊っぽいね」
「わたしのは、記録じゃなくて、落書きだよ」
そう言って、しおりは本当に少しだけ笑った。
でも、その笑顔はすぐに消えた。足音が近づいてきたからだ。複数の足音。整った靴音。
「まずい、そろそろ来る」
しおりはスケッチブックを閉じた。
「君はそのままで。私は、また逃げとく。そういえばーー」
「そういえば?」
「すず、戻ってきたね」
「戻ってきたね」
「元気そうで良かったよ」
そう言って、彼女が背を向けて駆け出そうとすると、背中越しの角から風紀派の生徒たちが現われたのが見えた。しおりが踵を返す。僕と目が合った。
「困ったよ。まったく」
「そうだね」
後ろから物音がしたので振り返ると、反対側からも風紀派の生徒たちが通路に現れた。制服はすべて第一ボタンまできっちり留められ、髪型も整っている。先頭を歩いていたのは、安堂だった。しおりは、そしてついでに僕も、挟み撃ちにされてしまったわけだ。
「三条しおり話を聞きたい」と安堂が声を張り上げた。
「嫌なこった」としおりは屈んだかと思うと、思い切り飛び上がった。いつものやつだ。彼女は、いつでもやすやすと宙を駆けて逃げてしまう。校舎の壁面を駆けていく。しかし、ほれぼれと見上げる僕や観測隊の隊員たちのなか、安堂ひとりがほくそ笑んでいた。
「甘い!」と彼が叫ぶと、校舎の窓という窓から無数の手が飛び出した。裾のボタンがきっちりとしまったワイシャツ。観測隊だ。「お前の逃げ道は、すでに織り込み済みだ!」
無数の手が壁面を駆けるしおりを捕まえようと賢明に虚空を手探りする。僕は唖然としてしまったが、なんのことはない。しおりの高笑いが響いた。彼女はわざわざすべての手を踏んづけて駆けていく。その足を捉えることは誰にもできなかった。手を踏まれた観測隊の悲鳴としおりの高笑い。顔を真っ赤にした安堂が、僕たちの周囲にいた観測隊に指示をだし、彼らはしおりが駆け消えていった方へと走り出した。
僕と安堂だけが残っていた。
安堂は憤怒の表情で僕をにらんだ。
「お前、やはり三条と関わっているのか」
「彼女とは友人だから」
「先日、お前はやつらとは関係ないと言ったはずだ」
「観測隊とは関係ないよ」
「彼女が観測隊の動きを誘導していると、複数の報告がある」
「リーダーじゃないって言ってたよ」と僕。
「実質的な影響力は、形式を超えることがある」
そう言い残し、彼は去っていった。
その背中を見送りながら、僕はふと、ここ数日のことを思い出していた。
◇◇◇
観測隊の動きが激しくなったのは、ほんの少し前のことだった。校内の掲示板に、謎の貼り紙が現れたのが最初だった。
「昨日、教室が空だった理由:午後三時の干渉」
「午後三時速報:旧館北廊下に無音の五分間出現」
それらは、授業中に読まれ、昼休みに回覧され、誰かが勝手に「午後三時通信」などと名づけていった。
同時に、風紀派の取り締まりも強化された。
「許可のない掲示は剥がす」
「午後三時という名を騙った誇張表現に注意」
張り紙が剥がされ、観測中の生徒が叱責され、名簿上で特別指導対象にマークがつけられた。
ある日、図書室の机にノートが置かれていた。
そこには、観測記録がびっしりと書かれていた。
「午後三時04分、図書室南窓からの風が逆流」
「午後三時07分、天井の蛍光灯が一瞬だけ点滅」
そのノートは翌日には消えていた。
誰かが持ち去ったのか、風紀派に回収されたのか、誰も知らない。
観測隊の何人かが、階段の裏で風紀と口論しているのを見たこともある。声は荒くなかったけれど、言葉の間には硬いものがあった。
放課後、渡り廊下で追いかけっこのように走る足音。
「違反だ」「記録してるだけです」
午後三時は、ただの時間ではなくなっていた。
それは、何かをめぐる争いの合図のようになっていた。
◇◇◇
通路の風が、少し強くなった。
僕は、その風に押されるように校舎の影から出たしおりも観測隊の姿も、もう見えなかった。すずがいた。校舎とグラウンドの間に生えた植木と植木の間、いちばん明るいところに彼女は立っていた。
「今日の午後三時は、音が割れてるね」
誰もが何かを言おうとして、うまく届いていないような、そんな午後だった。




