第12話|午後三時の周りで
春の校舎は、少し明るすぎる。
光が余っている。机の天板に反射して、ノートの文字が読めなくなるくらい。午後の授業になると、そのまぶしさが鈍い眠気と一緒にやってくる。教師の声は、スピーカーを通して遅れて届くアナウンスみたいに聞こえた。僕は黒板を見ていたけれど、何が書かれていたかは覚えていない。
その日は、昼休みに変な紙を拾った。
校舎の渡り廊下。風に吹かれて、下駄箱のあたりにひらひらと落ちていた。
「午後三時観測隊 本日始動」
下手なイラスト。手書きのグラフ。謎の出現地点リスト。
「音楽室の譜面台が一瞬だけ消えた」「裏庭の像が笑った気がする」など、報告と称する落書きのような記録が並んでいた。
たしかに最近、「午後三時が騒がしい」と思った。
でも、それはたぶん現象のせいじゃない。人が増えたのだ。午後三時のあたりに集まる生徒が。校内のあちこちで、なにかを観測するふりをしてうろうろしている。スマホで時間を確認したり、隅に立って目を閉じたりしている連中が、日に日に増えている。
そのきっかけが何だったのかは、たぶん誰も知らない。
しおりが火をつけたと言われていたけど、当の本人は姿を見せない。「巻き込まれるのはごめん」と言っていたらしい。どこまでがほんとうで、どこからが脚色された噂なのか、もうわからなかった。
「そこに立つと、風が止まるんだよ。昨日はそうだった」
そう言って、窓のそばで腕を組んでいた男子がいた。その隣で、別の女子がグラフのようなものをノートに書いている。腕には「観測隊」と書かれた腕章をしていた。
「また風止まり仮説?」
「うん、昨日は証明できなかったけど、今日こそいける気がする」
「なにがどういけるんだろうな」
思わず口にしてしまった僕のつぶやきに、二人がこちらを振り向いた。
「あ、陽太くんだっけ?すずの友達の」
「まあ、そうだけど」
「良かったら観測、付き合ってくれない?」
「観測って、具体的には何を?」
「その時に、そこにいること」
「……いるだけでいいの?」
「うん、でも真剣に」
観測隊の活動は、どう見ても半分は遊びだった。
でも、その遊びを本気でやっている感じが、どこか不気味だった。
本気のふりがうまくなってくると、遊びの輪郭はどんどん曖昧になる。
「午後三時って、もうみんな知ってるじゃん」
「うん、でも知ってるつもりじゃ何も見えてこないんだよ」
「……なるほど」
そこに、靴音が響いた。
風紀派の生徒たちだった。制服をきっちりと着こなし、目線を高く保っている。
その中心にいたのは、何度か廊下や屋上で見かけた男子だった。名前を知らなかったが、その瞬間、ひとりの生徒が小声で呼んだ。
「安堂くんだ」
校内の風紀を実質的に仕切っている生徒で、教師よりも厳しいと噂されている。観測隊がしおりから影響を受けてたと言われているけど、僕には彼こそしおりから最も影響されていると思う。それはつまりひっくり返った影響で、怪盗を追いかけつづける執念深い刑事だ。ただ、しおりは探偵でもあるわけだけど。
「放課後活動は申請が必要だ。何度言ったら理解する?」
「これは活動じゃなくて、生活です」
「言葉遊びをしている暇があったら、授業に戻れ」
「午後三時は授業の外にあるものです」
「くだらない」
観測隊の女子が、なにか言いかけたが、言葉を飲み込んだ。
彼女たちはすこしずつ後退し、風紀派に追われるように廊下の奥へ消えていった。
僕はその場に残った。
安堂がこちらを見た。
「君も、ああいうのに関わってるのか?」
「いや。ただ見てただけ」
「ならいい。ああいう遊びが蔓延ると、秩序が崩れる」
「秩序って、そんなに崩れやすいんだ?」
「陽太くん。君がどちら側に立つかは自由だが、中途半端が一番危うい」
安堂はそう言って、踵を返した。彼の歩き方は静かで、無駄がなかった。意見をまったく異にしていても、ついていく者が自然と生まれそうな背中だった。
僕はひとりになった。
風紀も、観測も、どこか遠くで響いているだけの言葉みたいだった。
自販機の前まで歩き、ファンタグレープを買った。
春の光は傾いて、空気はやけに甘かった。午後三時をすぎても、世界は特に変わらなかった。でも、誰もがなにかを探していた。
僕もたぶん、そのうちのひとりだった。
すずは、屋上にいた。
開いていたのは、旧校舎側の階段だった。鍵はかかっているはずなのに、たまに開いていることがある。誰が開けて、誰が閉めているのか、誰も知らない。扉を押すと、春の風が髪を撫でた。空はひくく、光がまだらに差していた。
「やあ」
すずは、手すりのそばで風に吹かれていた。
彼女の優雅さは熟練の航海士がつける日誌のようだ。
僕は隣に並んだ。すずが僕のファンタグレープを見ていった。
「今日も飲んでるの」
「うん」
「私は座ってるだけ」
「うん」
すずのスカートのすそが、少し膨らんだ。
風が、言葉の隙間に入ってきて、話を少しだけ逸らしていく。
「観測隊、見たよ」
「うん、増えてるね」
「風紀に追われてた」
「そういうの、好きな子たちなんだと思う」
「好き?」
「追われることとか、反発することとか。なにかにいることとか」
すずの声には、否定も肯定もなかった。
「でも、午後三時はそういうのじゃない」
「じゃあ、どういうもの?」
「たぶん、もうあるだけのもの。きっと、これからもずっと」
僕たちは、下を見下ろした。
校庭では、体育の授業をやっていた。白線の引かれた地面に、ジャージ姿の生徒たちが並び、どこか遠くでホイッスルが鳴っていた。その向こうに、探索隊の数人がまだ残っていて、建物の影を覗き込んでいた。そして、そのあとを追っている風紀のひとりが、なにかを叫んでいた。
声は風にかき消された。
「バランス、崩れてる?」
僕は、すずに尋ねた。
「少しだけ。でも、壊れるほどじゃない」
「なんでわかるの」
「なんとなく。音が濁ってないから」
すずは、そう言って、ポケットから飴玉を取り出した。
口に放り込む音が、午後三時の静けさにまぎれた。
「安堂って、知ってる?」
「うん、ああいう人は、必要だと思うよ」
「でも、嫌いそう」
「嫌いだけど、必要」
すずの言葉はいつも、丸いのに尖っている。
矛盾しているのに、矛盾していないように聞こえる。
僕はそれを翻訳しようとは思わなかった。
たぶん、訳せた瞬間に、すずはそこにいなくなる。
「君、またどこか行こうとしてる?」
「どうかな。でも、みんなが音を立てすぎてるときって、静かな場所に行きたくならない?」
「それって、消えるってこと?」
「ううん。だいたい私は別に自分の意志で消えたわけじゃないのだよ?」
「そっか」
「そうだよ」
すずは立ち上がり、手すりに寄りかかった。
その姿が、風に消えてしまいそうに見えた。
でも彼女は、そこにいた。ちゃんと。
「午後三時ってさ」
「うん?」
「前より、うるさくなったよね」
「春だからかな」
「春は嫌い」
そう言って、すずはひとつ大きく息をついた。
午後三時は終わっていた。
でも、その名残が空中にとどまっていた。
まだ誰かがそこにいるような感じ。まだ、何かが終わっていない感じ。
僕は残ったファンタグレープを飲み干して、
「春の午後三時って、ほんとうにうるさいね」と、口の中でだけつぶやいた。




