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第18話|ファンタグレープ・カンバセーション

 そのあと、学校は少し静かになった。観測隊は解散したわけではない。ただ、腕章をつける人が減った。風紀派も消えたわけではない。ただ、安堂が前ほど大きな声で注意しなくなった。


 掲示板には、剥がし忘れられた紙の跡だけが残っていた。

 長方形に日焼けしていない場所。何かが貼られていたという、白い不在。廊下の隅には、まだチョークの粉のようなものが残っていた。掃除当番が何度か掃いていたけれど、完全には消えなかった。消えない粉というのは、粉として少し頑固すぎる。


 誰かが「あの日、なんかすごかったよね」と言いかけて、途中でやめる。

 別の誰かが「何が?」と訊く。

「いや、なんでもない」と答える。

 そういう会話が、校内のあちこちに落ちていた。


 しおりは、相変わらず校舎のあちこちを歩いていた。でも、以前のように誰かを追いかけている感じではなかった。どちらかといえば、歩くことで学校の輪郭を確かめているようだった。

 ある日、昇降口で会うと、彼女は言った。

「探すもの、減った気がする」

「見つかったから?」

「ううん。探しててもいいってわかったから」

 それは、かなりしおりらしい答えだった。

「すずは?」

「屋上じゃない?」

「なんでわかるの」

「わかるっていうか、陽太が行きそうな場所だから」

「僕が?」

「うん。君、最近ちょっとだけ主語っぽいよ」

 そう言って、しおりは笑った。

 笑って、すぐに走っていった。

 走る必要のない廊下を、走る必要のない速度で。


 僕は自販機でファンタグレープを買った。

 取り出し口に落ちてきた缶は、思ったより冷たかった。春の午後なのに、手のひらが少し痛いくらいだった。

 屋上へ向かった。階段は静かだった。途中の踊り場に、誰かが落とした消しゴムがあった。角が欠けていた。

 拾おうか迷って、拾わなかった。

 すべての落とし物を拾っていたら、たぶん人生が鞄に入らなくなる。

 扉は開いていた。

 屋上には風があった。

 強くも弱くもない、でも何かを言いたそうな風だった。空は白く、校庭は遠く、街はいつものように何も知らない顔をしていた。


 すずは、フェンスのそばではなく、屋上の真ん中にしゃがんでいた。

 手にはチョークを持っていた。

 白い、短いやつ。

 僕は近づいて、足を止めた。

 屋上の床に、白い円が描かれていた。最初に会った日の教室の床にあった円より、少しだけ大きい。

 半径は、たぶん五十センチくらい。きれいな円ではなかった。ところどころ線が震えていて、風に笑われたみたいに歪んでいた。

「何してるの」

 すずは振り返らずに言った。

「円を書いてる」

「それは見ればわかる」

「見ればわかることを、言葉にするのも大事なんだよ」

 僕は黙った。

 ファンタグレープの缶を持ったまま、円の外側に立った。

 すずはチョークを置いて、立ち上がった。

 白い粉が指についていた。彼女はそれを払わなかった。

「入る?」

「どこに」

「円の中」

「入ったら、ちょっとだけ僕じゃなくなる?」

「うん。たぶん、ちょっとだけ」

「今日はやめとこうかな」

「そっか」

 すずは残念そうではなかった。

 むしろ少しだけ、満足そうに見えた。

 僕は缶を開けた。

 プルタブの音が、屋上の空に小さく穴を開けた。

 炭酸の泡が、缶の口で震える。

「飲む?」

 すずは受け取って、一口飲んだ。

「ぬるくないね」

「買ったばかりだから」

「買ったばかりのものって、少しだけ残酷だよね」

「なんで」

「まだ思い出になってないから」

 僕は笑った。

 その笑いは、風にすぐ持っていかれた。

 屋上から見下ろすと、校庭に生徒たちが散らばっていた。

 午後三時のまわりに、いつものように人がいた。

 誰かは走り、誰かは座り、誰かは名前を呼ばれ、誰かは呼ばれなかった。観測隊だった子たちが、校舎の影で何か話しているのが見えた。

 でも、もう腕章はしていない。安堂は昇降口の前に立っていた。手には紙ばさみではなく、缶のお茶を持っていた。

「平和だね」とすずが言った。

「平和かな」

「少なくとも、今日は誰も宇宙をひっくり返してない」

「それは平和の基準としてどうなんだろう」

「高め?」

「低めかも」

 すずはファンタグレープをもう一口飲んで、僕に返した。

 缶の口に残った泡が、紫の匂いをしていた。

「しおりは?」

「歩いてる」

「そっか。似合うね」

「うん」

「ササブネ先輩は?」

「どこかにいると思う」

「知らない人だけど、どこかにいそうな名前だよね」

「うん」

「水に浮きそうだし」

 僕は少し笑った。

 すずはそれ以上訊かなかった。

 彼女は知らない。

 でも、少しだけ知っている。

 そういう顔をしていた。

 僕たちは円の外側に並んで座った。

 白い粉が靴の裏につく。

 風が吹くと、円の一部が少しだけ薄くなった。

「午後三時って、終わると思う?」とすずが訊いた。

「終わると思う。毎日」

「じゃあ、毎日なくなるんだ」

「でも、毎日来る」

「律儀だね」

「電車みたいに?」

「電車よりは遅れるよ。午後三時は」

「でも、来る」

「うん」

 しばらく黙った。

 沈黙は、前ほど怖くなかった。

 何かを言わないことと、何もないことは、たぶん違う。

 僕は最近、それを少しだけ覚えた。

 ファンタグレープの缶を床に置くと、円の外側で小さく揺れた。風のせいなのか、床が傾いているのかはわからない。笹舟先輩なら、たぶんメジャーか水平器を取り出しただろう。

 でも僕は、測らなかった。

 測れないものは、測らないままでもいい。

 ただ、そこにあったと言えばいい。

 そこにいたと言えばいい。

「そういえば、予言についてなんだけど」

 僕は言った。

 すずがこちらを見た。

「予言?」

「呪いかな」

「なにそれ」

「すずのこと、好きみたいだ。すずが初めて会った日に言ったように」

 言ってから、心臓が一拍遅れて動いた。

 自分の言葉が、自分より先に屋上へ出ていった感じがした。

 すずは少し目を丸くして、それからすぐに細めて、意地悪な笑みを浮かべた。

「私って、ありとあらゆる陽太くんに対してそういうことを言ってるタイプだと思わない?」

「だとしたら、がっかりしちゃうな」

「私に?」

「いや、僕自身に対してかも」

「でも、いまさらそんなこと言うなんて」

「言葉にするのは大事なことじゃない?」

「まあね」

「うん」

「つまり、私も言葉にしないといけないね」

「そうしてほしい」

 すずは小さく口を開いて、なにかを吐き出しかけた。

 それから一度、きゅっと唇を結んだ。

 弾みをつけるように、あらためて言葉を発した。

「――」

 強い風が吹いて、僕らは宇宙ごとひっくり返ってしまった。

 白い粉が舞った。

 ファンタグレープの缶が倒れて、紫の甘い匂いが屋上に広がった。

 すずの髪が顔にかかり、僕は思わず目を閉じた。

 なんてね。


 本当は、ただ春の風が吹いただけだった。

 でも、目を開けたとき、僕はたしかに見た。

 宇宙の端っこみたいな屋上の床に、白い円が残っていた。

 その円の中に、僕たちは入らなかった。

 入らないまま、しばらくそこにいた。わからないことは、わからないままで。

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