第5話: その夜、光が砕けた
戴冠衣装は、我ながらよく縫えたと思う。
白絹に金糸の蔓草。裏地の見えないところに、小さなまじないの一針を入れてある。殿下が、ひとりぼっちだと思わずにすむように。リネットの、生涯でいちばんの一着だった。
采寸から、幾日も寝る間を惜しんで縫い続けた。指の腹は針だこで固くなり、目の奥はずっと痺れていた。それでも、こんなに幸せな疲れは生まれて初めてだった。
戴冠式は、明日。届けるのは、今夜。
箱を抱えて王城の廊下を歩きながら、リネットは少し笑っていた。明日、殿下がこれを着る。あの小さな肩に、この絹が乗る。ちゃんと、あたたかいだろうか。似合うだろうか。
――そこまでは、幸せだった。
廊下の奥が、いやに暗い。灯がひとつ、消えている。
戴冠前夜だというのに、人の気配がなかった。静かすぎる。リネットの足がなぜか速くなった。理由は分からない。ただ、胸の奥で何かが鳴っていた。
「……殿下?」
王弟ジョスの私室の扉が、半分ほど開いていた。
その隙間から、赤いものが細く廊下へ流れ出していた。
リネットは、箱を落とした。
部屋の中に、人が倒れていた。ジョスだった。采寸の日、あの子が久しぶりに笑ったと目を細めていた人。その胸から、赤いものが広がっていた。
「――ジョス、さま」
駆け寄って膝をついた。震える手を、その胸に当てる。あたたかい。まだ、あたたかい。でも、動かない。手のひらが、みるみる赤く濡れていく。
「いや……いや、そんな。誰か、誰か!」
声が、うまく出ない。
そのとき、部屋の隅で何かが動いた。
リネットは顔を上げた。
――そこに、あの人がいた。
采寸の日に目立たない上着がいいと言った、名を知らぬ貴公子。荒れたその手を見て「いい手だ」と言ってくれた、あの人。
その手が、その服が真っ赤に濡れていた。ジョスを抱き起こそうとした、そのままの形で。凍りついたように、リネットを見ている。
二人の目が、合った。
時が止まったようだった。
リネットの頭は、まっしろになった。この人が刺したのだ、と理屈は言う。血に濡れた手。倒れた王弟。逃げなければ。叫ばなければ。頭は、そう言った。
でも、心のほうはまるで違うことを言っていた。
(――ちがう)
どうして、と問われても答えようがない。ただ、分かってしまった。この人は、殺していない。あの采寸の日、背に手を回しただけでびくりと身をこわばらせた人だ。人に触れられることにさえ慣れていない人だった。あんなに寂しそうに笑った人が、人を刺せるはずがなかった。証拠なんて、ひとつもない。ただ、リネットの心がそう叫んでいた。
廊下の遠くから、幾つもの足音が近づいてきた。石を打つ、革靴の音。角を曲がるたび松明の火が壁を舐め、揺れる光がこちらへ滲んでくる。
あの人の目が、揺れた。覚悟した目だった。ここで捕まればすべてが終わる――そう分かっていて、それでも動かない目。ジョスを抱いた腕を、ほどこうとしない。
その目を、リネットは知っていた。誰にも「ここにいていい」と言われないまま、たったひとりで終わっていこうとしている人の目。……昔から、鏡の中で何度も見た目だった。
気づけば、リネットはその人のそばに膝をついていた。血に濡れた手の甲へ、そっと自分の手を重ねた。冷たい。それなのに脈だけが、まだ生きて速く打っていた。指の下で、その手が細かく震えていた。松明の光は、もうすぐそこまで来ている。油の匂いが、廊下の奥から流れてきた。
リネットは、あの人の耳もとで小さく何かを囁いた。たった一言だった。
――その言葉だけは、今も誰にも言えずにいる。
あの人の目が、大きく見開かれた。信じられない、という顔だった。その頬を、涙が一筋伝った。
考えるより先に、リネットの手が動いていた。
自分の肩から、肩掛けを外す。粗い毛織りの、色の褪せた一枚。それを、血に濡れたあの人の肩へふわりとかけた。赤く濡れた胸もとが、その下に隠れる。人の痛むところを、いつも布でそっと覆ってきた手だった。
それから、その手を引いた。立って、と声には出さずに引く。あの人は動かない。ジョスを抱いた腕を、まだほどこうとしなかった。覚悟した、あの目のままで。
リネットは、首を横に振った。だめ、と伝えるように。そうして部屋のいちばん奥の、使用人しか使わない小さな扉を指さした。松明の光の、届かない側を。
あの人の喉が、かすかに動いた。何か言おうとして、けれど声にならないようだった。リネットは、その背をそっと押した。行って、というように。細い、力の入らない手で。
あの人は、一度だけリネットを見た。涙のたまった目で。それから、ジョスの体を静かに床へ横たえた。音もなく、暗い扉の向こうへ消えていった。
あの人が消えて、いくらも経たなかった。
リネットはひとり、血の海の中に取り残されていた。両手が、真っ赤だった。
扉が荒々しく開いた。松明の光が、部屋になだれ込む。衛兵たち。その後ろから、青ざめた貴族たちが。
誰かが悲鳴をあげた。誰かが震える指で、まっすぐにリネットを指した。
「その娘だ。その娘が――殿下を、刺したんだ!」
「ち、ちがいます。わたくしは、届けに来ただけで……」
「手を見ろ! 血まみれじゃないか!」
「これは……これは、抱き起こそうと……!」
誰も、聞いていなかった。
衛兵の手が、リネットの腕を乱暴に掴んだ。引きずり起こされる。落とした箱から白絹の戴冠衣装が半分こぼれ出て、その裾が広がった血を静かに吸いはじめた。
白が、沈んでいく。真っ白な絹の端から赤が滲み上がり、金糸の蔓草をひとつ、またひとつと飲み込んでいく。あんなに時間をかけ、あんなに幸せな気持ちで縫った白さがみるみる暗い色へ変わっていく。
殿下が明日、着るはずだった一着。ひとりぼっちだと思わずにすむよう、まじないを縫い込んだあの一着が。
赤く、染まっていく。
(ああ)
リネットは思った。妙に静かな気持ちで。
(わたくしのしあわせは……たった一日だったのね)
処刑、という言葉が、誰かの口から、ぽとりと落ちた。
その夜、リネットのたった一日きりの光が砕けた。
冷たい手に引き立てられながら、リネットの胸に最後まで残ったものがあった。明日の処刑でも、着せられた罪でもない。あの部屋でこちらを見て声もなく涙をこぼした、あの人の顔だった。
あの人は生きて、あの暗い扉の向こうへ逃げた。それだけは、たしかだった。
砕けた光の中で、その一つだけが消えずに残った。リネットが胸の奥へそっとしまった、たった一つの灯だった。




