第4話: 小さな殿下
王城のなかは、リネットが思っていたよりずっと静かだった。
磨かれた石の廊下に、自分の足音だけが響く。抱えた采寸の道具箱が、やけに重い。
場違いだ。全身がそう言っていた。針子ふぜいが、こんなところに来ていいはずがない。
それでも、窓の外は違った。中庭では戴冠式の準備で人が行き交っている。花を運ぶ者。緋色の長い布を広げる者。石畳を磨く者。誰もが忙しそうで、誰もリネットになど目もくれない。それがかえって、少しだけ息をしやすくした。
「そんなに固くならなくていい」
案内に立った男が振り返って笑った。仕立てのいい上着を無造作に着こなしている。歳は三十半ばほど。物腰がやわらかく、それでいて芯のある人だった。
「あなたを選んだのは、私だ。王弟のジョスという」
リネットは危うく道具箱を落としかけた。
「お、王弟殿下、じきじきに……!」
「そう畏まらないでくれ」ジョスはゆっくり歩きながら言った。「マルゴの仕立ては上手い。上手すぎて、どれも同じ顔をしている。私はあの子に、心のこもった一着を着せたかった」
「心の、こもった……」
「だから、あなたの繕い物をこっそり見せてもらった」
「わたくしの、繕い物を」
「継ぎの一針に、その人を大事にする気持ちがあった。あれを縫う人がいい。そう思ったんだ」
リネットはうつむいた。まぶたの裏が、ちりりと熱くなる。
見てくれている人がいた。名も呼ばれず、手柄を奪われ続けたこの手を、ちゃんと見ていてくれた人が。
「……ありがとう、ございます」
その礼が、今日は頭を下げるためのものでないことが、うれしかった。
歩きながら、ジョスはぽつりと言った。
「あの子は、動くものが好きでね。蟻の行列を、飽きずにいつまでも見ている」
「殿下が?」
「兄が――あの子の父が生きていたころは、二人でよく庭を這っていた。王と王太子が、揃って泥だらけでな」
その横顔に、遠いものを見る色が差した。
「今は、私が代わりに這うことにしている。膝が痛いのには参るがね」
リネットは小さく笑った。この人は、あの子を心から大事にしているのだ。そう思うと、まだ会わぬ殿下のことが、少しだけ好きになった。
通されたのは、日当たりのいい一室だった。
窓辺の椅子に、小さな子がちょこんと座っていた。
王太子ユリアン。六つになる、この国の次の王。絹の服に、まだ体が負けている。膝の上で、両手をぎゅっと握りしめていた。
「ユリアン。衣装の人が来たよ」
ジョスが優しく言うと、子はこくりと頷いた。けれど、目は合わせない。
「はじめまして、殿下。リネットと申します。お召し物の采寸に上がりました」
「……よろしく」
小さな、消え入りそうな声だった。
リネットはそっと膝をついた。子の目の高さに合わせる。それから道具箱から、巻いた采寸の紐を取り出した。
「殿下。腕を、こんなふうに上げていただけますか」
ユリアンはおずおずと腕を上げた。細い。折れてしまいそうなほど細い。そして、震えていた。
リネットはその震えに気づかないふりをして、紐を肩から手首へそっと渡した。指で骨のありかをたどる。ここに縫い目が当たれば擦れる。ここは、腕を上げても突っ張らないようにゆとりをひとつ。
子どもの体は日ごとに伸びる。今日の寸法のままでは、袖はじきに窮屈になるだろう。リネットは肩と袖に、ほんの少しだけ、育つぶんの余りを見込んだ。
誰も見ていない。誰にも分からない。それでもこの一針が、この子の一日をほんの少しだけ楽にする。名もなく続けてきた、それがリネットの仕事だった。
「殿下は、もうすぐ王さまにおなりですのね」
「……うん」
「こわい、ですか」
ユリアンの肩が、びくりとした。それから初めて、リネットの顔を見た。
「……こわく、ない。王さまは、こわがっちゃいけないんだ。叔父上が、そう言ってた」
「あら。そうでしょうか」
リネットは寸法を測る手を止めずに、少し考えた。うまく言えるだろうか。こんなこと、殿下に言っていいのだろうか。
「あの……わたくし、頭はよくないので、うまくは言えないのですけど」
「うん」
「わたくしも、こわがりで。針を持つ手が、いつもちょっと震えていますの」
ユリアンが、まばたきをした。
「……でも、こわいのは、そんなに悪いことばかりでもないのかもしれません」
「どうして?」
「だって……こわいのは、大事にしたいものがあるから、なのかもしれませんもの」リネットは言ってから急に不安になって、そっと付け足した。「……いえ、違っていたら、ごめんなさい」
ユリアンは、まじまじとリネットを見た。
「……大事にしたいもの」
「ええ。殿下には、ありませんか。守りたいもの」
子はしばらく考えて、それからぽつりと言った。
「……この国。父上と母上が、好きだった国」
リネットは、針を持つ手をそっと止めた。
両親を亡くした子だと聞いていた。この小さな体で、亡き父母の国を背負おうとしている。
膝の上で握られた手の甲に、うっすらと爪のあとがついていた。ずっと、握りしめてきた手だ。
「殿下は……ここに……」
言いかけて、リネットは口をつぐんだ。
その先は、針子ふぜいの自分が口にしていい言葉ではない気がした。喉まで出かかった言葉は、行き場をなくして胸の奥に沈んだ。
「殿下」
リネットは寸法帖を閉じて、ユリアンを見た。まっすぐには見られなくて、少しだけ目を伏せながら。
「わたくしの縫うお召し物なんて、そんなにたいそうなものではないのですけど」
「うん」
「でも……せいいっぱい、あたたかく縫います。これを着ていらっしゃるあいだだけでも、ひとりぼっちだと思わずにすむように」
言葉にすると、心臓が鳴った。こんな約束を、針子ふぜいの自分がしていいのだろうか。それでも、言わずにはいられなかった。
「……お約束します。守れなかったら、ごめんなさい。でも、精いっぱい」
ユリアンの目が、揺れた。
「……ほんとう?」
「はい」リネットは少しだけ笑ってみせた。「針に、かけて」
子はこくりと頷いた。それから、ほんの少しだけ笑った。今日、初めての笑顔だった。
その笑顔を見た瞬間、リネットの指先がじんわりと温かくなった。荒れて冷たいはずの、その指の先まで。
針子ふぜいと呼ばれ、落ちぶれ令嬢と笑われる弱い自分でも、この子のためにできることがある。
それは、生まれて初めての感覚だった。
ここにいても、いいのだ。そう思えた。
部屋を出ると、ジョスが廊下で待っていた。
「あの子が、笑ったな」
「……はい。少しだけ」
「あの子の笑った顔を見たのは、久しぶりだ」ジョスは窓の外へ目をやった。中庭では、まだ戴冠の準備が続いている。「兄夫婦が亡くなってから、あの子はずっと気を張っている。六つの子が、だぞ」
ジョスの横顔に、影が差した。
「リネット。ひとつ、頼みがある」
「はい」
「あの子は、あなたに心を許したようだ。戴冠がすむまで――どうか、ときどきでいい。あの子のそばにいてやってくれないか」
「もちろんですわ。喜んで」
「助かる」ジョスは少しだけ笑った。
そのとき、廊下の先で誰かがひそやかに言葉を交わしていた。ジョスがそちらへ目をやると、その声はぷつりと止み、二人の男が会釈だけを残して去っていった。
ジョスは、しばらくその背を見送っていた。笑みは、もう消えていた。
「あの子のそばに、あなたのような人がいてくれると、私も少し息がしやすい」低い声だった。「この城は、見た目よりも狭くてね」
リネットには、その言葉の意味がよくは分からなかった。ただ、あの小さな殿下のそばにいられる。それだけで、胸が温かかった。
道具箱を抱えて城を出ると、日はもう傾きかけていた。それでも、リネットの足取りは軽かった。
これから数日、あの絹と向き合う。裏地には、殿下がひとりぼっちを忘れられるように、小さなまじないの一針を入れよう。
そして戴冠の前の晩、仕上げた一着を抱えて、また、この城へ上がるのだ。そのときには殿下と、もう少しお話しできるだろうか。虫の話でも聞かせてもらおうか。
家に帰ったら、祖母に何から話そう。殿下が笑ってくれたこと。ジョスさまが、この手を選んでくださったこと。話したいことが、多すぎる。
リネットは、夕焼けの道を少し急いだ。
胸のなかに、小さな灯がひとつ、ともっていた。誰かに必要とされる。ただそれだけのことが、こんなにもあたたかい。
その灯を、リネットはそっと両手で包むようにして、家路をたどった。




