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第3話: その手は、いい手だ

 白絹は、光を吸って、やわらかく返す。


 リネットはその一反を作業台に広げ、しばらく、ただ見ていた。王太子ユリアン殿下の、戴冠の衣装。この絹を裁つ日のことを思うと、指の先が少しだけ震えた。


 こわいのではない。うれしいのだ。


「リネット様、また笑ってますよ」


 傍らで、ドリスが糸を巻きながら言った。


「あら。そう?」


「朝から、もう三回目です。にやにやして、気味が悪いくらい」


「まあ、ひどい」


 リネットは笑って、それからそっと絹を撫でた。


 これは、マルゴの名で納めるものではない。誰かに横取りされるものでもない。「其方に」と、あの書付にはたしかに書いてあった。リネットの、名前の仕事だ。


「ねえ、ドリス」


「はい」


「わたくし、ちゃんと、やれるかしら」


「やれます」ドリスは即答した。「だって、リネット様の縫うものが、いちばん綺麗だもの。あたし、ずっと見てきたんですから」


 リネットは、返事の代わりに、もう一度、絹を撫でた。




 昼前、その人が来た。


 マルゴだ。宮廷主席仕立て師の彼女が、わざわざリネットの狭い仕事場まで足を運ぶことは、めったにない。


「戴冠のお衣装ですって?」


 マルゴは、広げた白絹を一瞥した。声は静かだった。


「あなたに務まるとは思えないけれど。……よければ、わたくしが預かってさしあげてもよくてよ。あなたの名は、残してあげるから」


 名だけ残して、中身を取る。いつもの手だった。


 リネットは鋏を置いて、頭を下げた。


「……ありがとうございます。でも、これは、わたくしがいたします」


 言ってから、自分でも驚いた。声が、震えなかった。


「まあ」マルゴの眉が、わずかに動いた。「ずいぶん、強気ね」


「いいえ。強くは、ないんです。ただ」


 リネットは白絹に目を落とした。


「この一着にだけは、わたくしの名前がついていますから」


 マルゴは、しばらくリネットを見ていた。それから、ふんと小さく息を吐いて背を向けた。


「せいぜい、指を刺さないことね」


 扉が閉まると、ドリスがこらえきれずに小さく叫んだ。


「言ってやりましたね! リネット様、今の、すごくよかった!」


「……心臓が、まだ、どきどきしていますわ」


 リネットは胸を押さえて、ふふ、と笑った。今日、四回目の笑みだった。




 昼を過ぎて、リネットは絹糸を商う店へ向かった。


 あの白絹には、いちばんいい糸がいる。いつもは端切れの糸で間に合わせてばかりだ。けれど今日ばかりは、いちばん細くて強い絹糸を選びたかった。この一着のためなら、と思うと足取りが軽くなった。


 店の棚には、染めのいい絹糸が色ごとに並んでいた。茜の赤。藍の青。リネットはそのひとつずつを、指の腹でそっと確かめた。


「おや、カルヴェの。今日はまた、いいのをお求めだね」


 顔なじみの店主が、めずらしそうに言った。


「ええ。……大きなお仕事を、いただいたので」


「へえ。どちらの」


「……王太子殿下の、戴冠のお衣装を」


 口にしてから、声がしぼんだ。自分で言うのは、まだ面映ゆい。


 店主が目を丸くした、そのときだった。横から、若い男の笑い声が上がった。


 仕立てのいい上着を着崩した、貴族の子息だった。連れを二人ばかり従えている。


「今、なんと言った。針子が、殿下のお召し物」


 男は、わざと聞こえるように言った。


「これだから成り上がりの店は困る。落ちぶれ令嬢の手習いに、王家のお仕事だと。冗談にしても、たちが悪い」


 店じゅうの客が、いっせいにリネットを見た。


 リネットは、糸を持つ手をそっと下ろした。顔が熱い。言い返す言葉なんて、ひとつも出てこない。ただ、この場から消えてしまいたかった。


 針子ふぜいが。胸の内で、いつもの声がそう言う。ここでも、やっぱりそうなのだ。


「……申し訳、ございません」


 何に謝っているのかも分からないまま、リネットは頭を下げた。


 けれど、その頭を上げたとき――見えてしまった。


 男の上着の右の袖口。ボタンをとめる糸がほつれて、あと二針も引けば切れる。それだけではなかった。脇の縫い目も、寸法を無理に詰めたせいだろう。糸が突っ張って、生地が今にも音を上げそうだった。


 見なければよかった。人の綻びに目が行くのは、いつものことだ。今だけは黙っていよう、と思った。


 ――だめだった。


「……あの」


 気づけば、声が出ていた。


「ごめんなさい。余計なことを……。その、右の袖のボタンが、もうすぐ取れそうで。……脇の縫い目も、少し。このままだと、人前で、ほどけてしまうかもしれません」


 男は、鼻で笑った。


「何を言うかと思えば。この上着は一流の仕立て屋のものだ。針子ふぜいが、何を――」


 言いかけて、男が腕を上げた。その拍子に。


 ぷつ、と小さな音がした。


 右の袖口のボタンが、床に落ちて、ころころと転がっていった。


 店が、しんとした。


 男の顔が、じわりと赤くなった。連れの二人が、そろって目をそらす。


「あの針子、大したもんだ」


 棚の向こうで、年配の商人がひとり、感心したように呟いた。それが聞こえたのだろう。男は言葉をなくした。脇の縫い目を手で押さえ、足早に店を出ていく。


 リネットはぽつんと立ち尽くしていた。胸のすくような気持ちには、少しもなれない。ただ、いたたまれなかった。


「……わたくし、また、余計なことを」


「なんの」店主が、こらえきれずに笑った。「あんた、いい目をしてるよ。そういう目の子が縫うんなら、殿下のお衣装も安心だ」


 褒められたのに、うまく笑えなかった。リネットは絹糸を胸に抱いて、小さく頭を下げた。抱えた糸だけが、じんわりとあたたかい。


 店を出るとき、店主がふと声を落とした。


「カルヴェの。よけいなお世話だがね。……戴冠が近い。こういうときに目立つのは、あまり身のためにならないよ。気をつけてお帰り」


 その言葉の意味を、リネットはうまく汲めなかった。ただなんとなく、抱えた糸を少し強く抱き直した。




 日が傾きかけたころ、思いがけない客があった。


 名を書かない、若い貴公子だった。


 身なりは地味だが、布はいい。所作が静かで綺麗だ。それでいて、仕立て代の相場を尋ねると、まるで見当違いの額を口にする。お金に不慣れというより、お金と縁のない暮らしをしてきた人の不慣れさだった。


「どのようなお召し物に、仕立てましょう」


「目立たない、ふつうの上着がいい」


「ふつう、ですか」リネットは少し首を傾げた。「せっかく、こんなにいいお生地ですのに」


「そのほうが、都合がいいんだ」


 彼は、それ以上は言わなかった。


 采寸のあいだ、彼はずっとリネットの手元を眺めていた。値踏みするのでも、退屈そうにするのでもない。ただ、めずらしいものを見るようにおもしろそうに。


「あなたは、針を持つと、こわい顔が消えるな」


「……そう、でしょうか」リネットは、瞬いた。「自分では、分かりませんけど」


「消える。今みたいに」


 彼は、少しだけ笑った。丁寧な、けれどどこか寂しい笑い方だった。


 その笑い方に、リネットはなぜだか見覚えがある気がした。誰の、とは言えない。ただ――ひとりでいることに慣れすぎた人の笑い方だった。自分もときどき、鏡の中で同じ顔をしている。


(この方は、たぶん、とても寂しい人だわ)


 根拠はなかった。ただ、そう思った。布を合わせるために背に手を回すと、彼の体がほんの少しこわばった。人に触れられることに慣れていない、そういう体だった。


「……あの」リネットは、そっと手を止めた。「痛く、ありませんでしたか」


「いや」彼は、少し驚いたように言った。「……気づくんだな、そういうのに」


「ごめんなさい。つい」


「謝ることじゃない」


 彼は、窓の外へ目をやった。それきり、二人とも、しばらく何も言わなかった。針を運ぶ音だけが、静かに続いた。




 采寸が終わると、彼は立ち上がった。


 最後に、リネットの荒れた指先をしばらく見ていた。


 見られている。そう気づいた瞬間、リネットはその手を袖の陰へ引っこめかけた。ささくれて、針だこで固くなった手だ。人に見せるものではないと、いつのまにか思う癖がついていた。


 けれど彼はその手から目をそらさず、静かに言った。


「その手は、いい手だ。大事になさい」


 リネットは針を持ったまま、動けなくなった。


 いい手だ、と言われた。


 淑女の手ではありませんよ、と祖母は言う。昔はあんなに綺麗だったのに、とも。針子ふぜい、と貴族は笑う。値切られ、横取りされ、名前も呼ばれない、この手を。


 その手を、いい手だと。


 喉の奥が、きゅっと詰まった。袖に隠しかけた指を、リネットはそっと開いた。誰かにこの手を褒めてもらえたのは、思い出せないくらい久しぶりだった。


「……ありがとう、ございます」


 いつもの「ありがとうございます」とは、ちがった。頭を下げるための言葉ではなく、胸の奥からそっとこぼれた言葉だった。


 彼はそれには答えず、ただ小さく頷いて出ていった。名も、身分も、次に来る日も告げないまま。


「なんだったんでしょう、今の人」ドリスが、扉を見て言った。「変わったお客さんですね」


「そうね」


 リネットは、閉じた扉をしばらく見ていた。


「……でも、いい人だったわ」




 その晩、リネットは祖母に、戴冠衣装のことを話した。


「まあ。王太子さまの?」祖母は、久しぶりに、はっきりと目を開けた。「あなたの、名前で?」


「ええ。わたくしの、名前で」


「それは……それは、たいしたこと。カルヴェの娘ですものね」


 祖母は痩せた手で、リネットの手を握った。その手は紙のように軽く、けれどあたたかかった。


「おばあさま。わたくし、いい針子になれたでしょうか」


「なあに、今さら」祖母は、ふっと笑った。「あなたは昔から、そう。人の綻びにばかり、目が行く子でしたよ」


「まあ。それは、褒めてくださっているの?」


「もちろんですとも」


 リネットはその夜、なかなか寝つけなかった。うれしいことが、一日に、こんなにたくさん。こんな日が来るなんて、思ってもみなかった。


 明後日には、王太子殿下ご本人の采寸に、王城へ上がる。それがすんだら、いよいよ、あの白絹に鋏を入れる。あの幼い殿下は、どんな子だろう。世界でいちばんあたたかい一着を、縫おう。


 ただ、しあわせすぎると、少しだけこわくなる。どうしてだろう。


 窓の外に、王城の尖塔の灯が見えた。昨日まではあんなに遠かったのに、今夜はなぜだか、すぐそこにあるように思えた。


 リネットはそっと目を閉じ、その灯が朝まで消えませんように、と祈った。

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