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第2話: やさしい嘘

 嘘には、下手な嘘と上手な嘘がある。


 リネットは、たいていの嘘が下手だった。つくとすぐ、目が泳いでしまう。ただ一種類だけ、とても上手な嘘があった。誰かを守るための嘘だ。


 そのほとんどを、彼女はこの小さな家でついた。


 職人街のはずれに、その借間はあった。階段を四つ上がった先の、窓がひとつきりの部屋だ。冬は隙間風が入り、夏は下の酒場の匂いが上がってくる。それでも家賃が安いのが、いちばんの取り柄だった。


 扉を開けると、薬草を煮る苦い匂いがした。リネットは湯を足した。荷を置いて、祖母の枕をそっと直す。


「ただいま戻りました、おばあさま」


 寝台の上で、祖母が薄く目を開けた。


「おかえり、リネット。遅かったのね」


「ええ。今日は大きなお仕事がありましたの」


「そう。あなたの腕なら、当たり前のことよ」


 半分は本当で、半分は嘘だった。大きな仕事はあった。ただ、その手柄も報酬も、リネットのものにはならなかった。




 祖母は、かつてカルヴェ子爵夫人だった人だ。


 白い漆喰の館で、絹をまとって暮らしていた。今はもう、その面影を探すほうがむずかしい。痩せた手も、薄い髪も、時が容赦なく持っていった。


 それでも祖母は、背筋だけは伸ばそうとする。


「リネット。あなた、また指を荒らして」


 祖母がリネットの手を取った。乾いた指先が、あかぎれと針胼胝を一つひとつなぞっていく。絹ばかりを触って生きてきた人の指だ。淑女の手と働く手の違いくらい、なぞればすぐに分かってしまう。


 その指が、針胼胝の上でふと止まった。


「淑女の手ではありませんよ。昔は、あんなに綺麗だったのに」


「ふふ。今は、これがわたくしの手ですの」


 祖母は、ゆっくりと窓のほうへ目をやった。外はもう、職人街の暗がりだけだ。


「いけません。あなたはカルヴェの娘です。いつか、ふさわしい殿方が――」


 その先が、続かなかった。


 いつもの祖母なら、その先をうっとりと続けたはずだった。舞踏会の灯のことも、差し出される絹の手袋のことも。けれど今夜は暗い窓を見たまま、そこで口をつぐんでしまった。


 リネットの、返事が一拍遅れた。


「……はい。いつか、きっと」


 やわらかく、そう受け取った。


 リネットはずっと、祖母は時の流れの少し手前で暮らしているのだと思っていた。そこにはまだ、あの白い館がある。両親が生きていて、令嬢だったリネットもいる。今の暮らしなど、祖母の目には映っていない――そう思うことにしていた。


 でも今夜は、そうとも言い切れなかった。あの指が、針胼胝の上で止まったとき。あの目が、窓の外にあの館を探すのをやめたとき。


 祖母だって、本当は分かっているのかもしれない。けれど、その先はもう考えないことにした。分かっていてなお夢を口にしたのなら、リネットにできるのは、信じたふりでそれを受け取ることだけだから。


 嘘には、たいてい、庇いたい誰かがいる。今この狭い部屋には、それが二人いた。




 薬の包みは、あと三日ぶんしか残っていなかった。


 リネットは竈のそばで、財布の中をそっと数えた。いちばん効く薬が、ひと包みで銅貨八枚。それが三日でなくなる。家賃は、月で銀貨ひとつ。今日の手間賃は、値切られて銅貨五枚きり。


 どう数え直しても、足りなかった。


(足りない)


 今日だって、そうだった。


 三晩も指を刺して縫った肩掛けを、貴族の使いに納めた。相手は出来上がりをろくに見もせず、約束の半分の銅貨を卓に放って寄越した。何枚かが卓の縁からこぼれ落ち、足もとに転がっていく。


「これで十分だろう。針子の手間なんて、どうせこんなものだ」


 転がった銅貨を、使いの者は拾おうともしない。


「どうした。拾わないのか。針子なら、下を向くのは得意だろう」


 リネットは膝をついて、その一枚一枚を拾い集めた。半分に値切られた銅貨を、床を這って拾う。使いの者は手伝いもせず、つまらなそうにそれを見下ろしている。それでも、いる。祖母の薬の、幾日ぶんかにはなるのだから。


 頭を下げた。


「……はい。ありがとうございます」


 それしか言えなかった。ここで食い下がって仕事を切られたら、祖母の薬が買えなくなる。悔しさより先に、そっちが怖い。


 横で、下働きのドリスが拳をぷるぷると握っていた。


「リネット様は、どうして怒らないの。お金を床に投げて、拾わせるなんて。あんなの、ぜったいおかしいよ」


「ふふ。怒るの、下手なんですもの」


「じゃあ、あたしが代わりに怒ってあげる。針子の手間がどうせこんなもの、だなんて。あの縫い目、ろくに見てもいないくせに! 人に這わせておいて、なにが十分なもんか!」


「ドリスったら。……ありがとう」


「もう。そこでお礼を言うから、リネット様は付け込まれるんだよ」


「ふふ。付け込まれても、お薬は買えますもの」


「……そういうところだよ、リネット様は」


 笑ってみせるしかなかった。腹を立てる才さえ、リネットにはなかった。だから、代わりに怒ってくれる子がいるだけで、少しだけ息がしやすくなる。


 足りないぶんは、自分を削ればいい。


 この頃は、朝を抜いている。昼も、水を飲んで腹をふくらませるだけだ。夕方になると、目の前が白くちらつくことがある。そんなときは竈のふちに手をついて、過ぎるのを待つ。


 ドリスに握らせたあのパンも、本当はリネットの一日ぶんだった。


 ひもじさには、慣れたふりが上手くなった。慣れないのは、祖母の前でそれを気取られないようにすることだけだ。


「リネット」


 祖母がまた呼んだ。


「あなた、ちゃんと食べているの? ずいぶん細くなって」


 リネットは鍋の湯気の向こうで、にっこり笑ってみせた。空きっ腹が、小さく鳴りそうになる。それを笑い声でごまかした。


「もちろんですわ。今日なんて、お肉をこんなにいただきましたのよ」


 両手で、大きさを作ってみせる。


「まあ。それはよかったこと。たんと、お食べなさいね」


「ええ。とっても、しあわせですの。……おばあさまも、明日はもっと召し上がってくださいね」


「ふふ。そうね。そうしましょう」


 嘘だった。今日いちばん、上手についた嘘だった。


 リネットはいつからか、こういう嘘が上手になっていた。誰かを安心させるための嘘。誰かを守るための嘘。それだけは、賢くない彼女にもするりとつけた。


 ――こんな嘘、どこで覚えたのだろう。さっき窓のほうを見ていた祖母の横顔が、静かに浮かんだ。


 祖母が、うとうとと目を閉じかけた。それから、ふと思い出したように言った。


「リネット」


「はい?」


「わたくしね、近頃、分からなくなるの。今が、いつなのか」


 リネットは、針を持つ手を止めた。


「……おばあさま」


「でもね。あなたが針を動かす音だけは、分かるのよ。ああ、リネットがそばにいる、って。……あの音が、いちばん安心するの」


 リネットは、しばらく返事ができなかった。


「……はい。ずっと、おそばで縫っていますわ」


 嘘ではない、と思った。これだけは、ずっと本当にしたい。




 祖母が寝入ったのを確かめて、リネットは窓辺に座った。


 膝の上で、荒れた指をそっと撫でる。淑女の手ではない、と祖母は言った。その通りだ。でも、この手だけが二人を食べさせてきた。この手だけが、裏切らなかった。


 窓の外に、王城の尖塔の灯が遠く小さく見えた。


 あの高いところで暮らす人は、明日の薬代の計算なんて、一度もしたことがないのだろう。そう思うと、悔しいというより、ただ遠かった。


 背後で、祖母の寝息が細く続いている。それを聞いていると、胸の悔しさが少しずつ角を丸くしていった。


(でも、いいの)


 悔しさをずっと握っていると、指がこわばって、いい針目が縫えなくなる。だから寝る前に、そっと手放す。明日また拾えばいい。針だけは、それでも動くのだから。




 その夜だった。


 階段を駆け上がる足音がした。ドリスだ。息を切らして、扉を叩く。


「リネット様! 大変、リネット様!」


「しっ。おばあさまがお休みで……どうしたの、そんなに慌てて」


 ドリスは一枚の書付を、震える手で差し出した。宮廷の紋が、封に押されている。


「これ、宮廷から! さっき、お使いの人が届けにきて……リネット様宛てなんだよ。リネット様、個人宛て!」


「わたくしに?」


「うん! あたし、何度も名前を確かめたもん!」


 リネットは封を切った。行儀のいい文字が、短くこう告げていた。


 ――戴冠式の儀、王太子ユリアン殿下の御衣装一式、これを其方に任ずる。


 リネットは、その一行をただ見ていた。


「……戴冠、衣装」


「王太子さまの!? リネット様の名前で!?」


 ドリスが飛び上がった。リネットはまだ信じられずに、もう一度、文字を辿った。書付を持つ指の先が、かすかに震えていた。


 王太子ユリアン。この国の、次の王。その即位の儀で、たった一度だけ袖を通す一着。本来ならマルゴが縫うはずのものだ。手柄をいつも横取りしていく、あの主席仕立て師の。


(どうして、わたくしなんかに)


 理由は書いていなかった。けれどそこには、マルゴの名でも、誰の名でもなく、「其方に」と、たしかに書いてあった。


 リネットは、二度、まばたきをした。行儀のいい文字が、少しにじんで、また元に戻った。


「ドリス」


「なあに!?」


「これ……本当に、わたくしのお名前?」


「そう! 何度だって確かめたもん。リ・ネ・ット様、って!」


 涙目のくせに、ドリスは得意そうに胸を張った。


「わたくし……縫っても、いいのかしら。こんな、わたくしなんかが」


「何言ってるの」


 ドリスが、涙目で笑った。


「リネット様の名前で、いちばん偉い人に着せるんだよ。あたし、言ったじゃない。……ほら。もう、叶っちゃった」


 リネットは、寝台のほうをそっと振り返った。祖母は静かな寝息を立てている。


 明日、この人に報告できる。おばあさま、わたくし、王太子さまのお衣装を、わたくしの名前で縫うんですよ、と。


 それは今夜ついた、どの嘘よりも――ずっとあたたかい、本当だった。

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