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第1話: 針だけが、居場所だった

 白い絹が、赤を吸っていく。


 金糸で蔓草を刺した、真新しい絹だった。これまでの生涯で、いちばん心を込めた一着。その白さの端から赤がゆっくりと滲み上がり、金の葉をひとつ、またひとつと飲み込んでいく。


 戴冠式の前夜。金の燭台と花で満ちるはずだった王城の一室で、リネットは冷たい石の床に膝をついていた。すぐ目の前に、人が倒れている。自分の手のひらが、赤く濡れていた。


 誰かが叫んでいた。走り寄る衛兵の足音。松明の、油の匂い。


 そして、まっすぐ伸びた指がリネットを指した。指の主の袖は、上等な絹でできていた。


「その娘だ。その娘が、殿下を刺したんだ」


 ――どうして、こんなことになったのだろう。


 処刑、という言葉が、誰かの口からぽとりと落ちた。


 その言葉が落ちるあいだにも、白絹はもう半分ほど赤く沈んでいた。あんなに幸せな気持ちで縫った白さが、みるみる暗い色へ変わっていく。


 ――話は、その少しだけ前に遡る。




 リネットは、宮廷お抱えの仕立て師である。


 そう言えば聞こえはいい。けれど、その称号にふさわしい扱いを受けたことは一度もなかった。


 早春の朝は、まだ暗い。仕立て場の窓は白みかけたばかりで、隅の蝋燭の火が、糸くずの舞う空気をぼんやりと照らしていた。


 まだ火の入っていない鉄の火桶。壁ぎわに立てかけた反物。糸巻きの並んだ棚と、針山のふくらみ。よく研いだ鋏の刃だけが、蝋燭の光をひとすじ返している。


 新しい絹の、かすかに青い匂いがした。指先に触れるのは、糊のきいた布の張り。リネットは、この匂いと手ざわりの中にいるときだけ少し息がしやすかった。


 ここでは、誰も自分を笑わない。布は、ただ黙って手を待っている。


 その朝も、リネットは徹夜明けだった。卓の上には、縫い上げたばかりの一着がある。伯爵夫人の夜会服だ。三晩、ろくに眠らずに仕上げた。


「リネット様、まだやってたんですか」


 下働きのドリスが、眠そうに目をこすりながら入ってきた。夜の明けきらないうちから、この子も働きに来る。


「おはよう、ドリス。もう、仕上がるところ」


「もう、って……三晩、寝てないでしょう。あたし、知ってるんだから」


 リネットは笑って、それでも針を止めなかった。止め方を、もう忘れてしまった。親指の腹の針だこは爪のように固く、人差し指のあかぎれは、ゆうべまた割れた。糸を引くたびに、そこが小さくしみる。それでも、手だけは動く。


 卓の一着を覗きこんで、ドリスが「わあ」と小さく声をあげた。


「この葉っぱ……なんだか、揺れてるみたい」


「分かる?」つい、少しだけ嬉しくなった。「日の当たる葉は光る糸で、影の葉はつや消しの糸で刺したの。布を動かすと、風に揺れて見えるでしょう」


「すごい……すごいですよ、これ」


「ふふ。でもね。こんな工夫、近くでよくよく目を凝らした人にしか分からないの。そして、この一着をそんなふうに見てくれる人なんて、たぶん、一人もいないわ」


 それでも、リネットは葉の艶を変えずにはいられなかった。手を抜いた葉が一枚でもあると、その葉だけが何か言っている気がする。だから、抜けなかった。誰も見ていなくても。


「あたしが見てます」ドリスが、ぷうと頬をふくらませた。「あたしが、ちゃんと見てますからね」


「……ありがとう」


 あかぎれと針胼胝でごつごつした指先を、リネットはそっと握った。令嬢の手では、もう、とうにない。それでも、この手だけが、二人を食べさせてきた。


 その一着を、主席仕立て師のマルゴが手に取った。窓の光にかざし、裾の刺繍を指でなぞる。葉の艶の違いに、その指が一瞬だけ止まった。気づいたのだ、とリネットは思った。この人なら、気づく。


 けれどマルゴは、何も言わなかった。ふう、と息をついて、布を卓に放った。


「悪くないわ。これは、わたくしが仕上げたことにしておくから」


「……はい」


「不服?」


「いいえ。とんでも、ないです」


「三晩もかけたそうね。聞いたわよ」マルゴが糸を指ではじいた。「要領の悪いこと。わたくしなら一晩で仕上げるわ」


「……申し訳、ありません」


「謝ることじゃないでしょう。あなたが遅いだけ」


「……はい」


「それにね」マルゴは夜会服を畳みながら、こともなげに言った。「これはね、伯爵夫人が"マルゴの仕立て"だと思って袖を通すの。あなたの名前なんて、どこにも要らないのよ。分かるでしょう?」


「……はい」


「いいお返事。あなた、その物分かりのよさだけが取り柄ね」


「恐れ、入ります」


「褒めてないわ」


「……はい」


「手間賃はいつも通り、そこに置いておくわ。……足りる? まあ、足りなくても、わたくしの知ったことではないけれど」


 一晩では、この葉の艶は出せない。そう言えたら、どんなに楽だろう。でもリネットは、言えなかった。


 この葉を風に見せるために、自分がどれだけの夜を渡したか。それを口にした瞬間、この人はきっと鼻で笑う。


 工夫まで笑われるくらいなら、黙って手柄を渡すほうが、まだましだった。


 リネットは頭を下げた。マルゴの名で納められれば、報酬はマルゴのものになる。リネットに残るのは、下働きぶんの手間賃だけだ。


 それでも逆らえなかった。逆らえば、この仕事ごと失う。そうしたら、祖母の薬が買えなくなる。


「ありがとう、ございます」


 手柄を奪った相手に、リネットはそう言うしかなかった。


 頭を下げたまま、リネットは自分の指先を見ていた。三晩ぶんの縫い目が、そこにある。糸の艶を変えた葉も狂いのない縫いも、明日にはマルゴの手柄になる。


 それでも、ひとつだけ。誰にも奪えないものが、リネットにはあった。


 リネットは自分の縫うものすべてに、たった一針だけ隠しの縫い目を入れる。裏の縫い代の、いちばん奥。ほどいて仕立て直しでもしないかぎり、誰の目にも触れない場所だ。


 そこへ糸の色をほんのわずかに変えて、一針だけこっそり結んでおく。


 誰かに見せるためではない。ただ、そこに自分がいたというしるしだった。


 名前を呼ばれず、手柄を取られる。それでも、その一針だけはたしかにリネットのものだ。


 三晩を費やしたあの夜会服の左脇にも、その一針はもう結んである。


 ――わたくしは、ここにおりました。


 布にしか届かない、ちいさな署名だった。


 マルゴがちらりとリネットを見た。その目に一瞬、憐れみとも苛立ちともつかない寒々しい色がよぎった。でもそれは、すぐに消えた。




 昼過ぎ、仮縫いのために伯爵夫人の私室へ呼ばれた。


 香の焚きしめられた部屋だった。厚い絨毯に膝をつくと、自分の身なりの粗さがいっそうはっきりした。すり切れた袖口。継ぎのあたった膝。リネットはなるべく小さくなって、針だけを見ていた。


 夫人はリネットを見もせず、侍女とのお喋りを続けている。膝をついて、裾の丈を直す。


「そこの。丈が、まだ長いこと。やり直しなさい」


「ほんに、気の利かないこと」侍女が、聞こえよがしに言った。「これだから、素性の知れない者は困りますわ」


「およしなさいな」夫人が扇で口もとを隠して、くすりと笑った。「言っても、分からないでしょうから」


 丈は、指一本ぶんも狂っていない。ゆうべ、糸目を数えて合わせたばかりだった。けれどリネットは、そうとは言わなかった。言ったところで、通らない。


「……はい。ただいま」


 同じ寸法に、もう一度縫い直す。針を運びながら、リネットは思う。直したふりをして、元の丈に戻すだけ。そうすれば、夫人は満足する。おかしな話だけれど、そういうものだった。


 仕上げた裾を、夫人がつまんで持ち上げた。ちょうどそのとき、盆を運んできた侍女がその裾を踏んだ。上等な絹が、ぴりと小さな音を立てた。


「あら。……ちょっと。この糸のほつれ、なあに」


「も、申し訳ございません。ただいま、お直しを――」


「あなたが裾を長く垂らしておくからでしょう。おかげで、うちの者が引っかけたじゃないの」


 踏んだのは、侍女だ。裾は、長くなかった。それでもリネットは、頭を下げた。ここで何を言っても、通らないと知っていた。


「……申し訳、ございません」


「まったく。ほつれの弁償は、お代から引かせてもらいますからね」


 針子。そこの者。――この私室で、リネットが名前で呼ばれることは一度もなかった。リネットという名があることを、そもそも誰も知らないのだ。


 こんなとき、うまく腹を立てられたらどんなに楽だろう。でもリネットは、腹の立て方が下手だった。ただ、すこし悲しくなるだけだ。


 それでも、裾はまっすぐに上がっている。針だけは、裏切らない。


「……できました。お確かめください」


 夫人は裾に一瞥をくれ、ふんと鼻を鳴らした。礼の言葉はない。


 仮縫いが終わると、侍女が銅貨を数えて卓に置いた。約束の、半分にも満たない額だった。しかもその半分は、覚えのない染みの弁償に消えている。


「これで十分でしょう。ほつれを作った針子に、これでも多いくらい」


 言いながら、侍女は指先で銅貨を弾いた。硬貨は卓を滑り、ひとつ、またひとつと絨毯の上へ転がり落ちた。


「あら、落ちてしまったこと。……拾わないの? それとも、要らないのかしら」


 夫人と侍女が、顔を見合わせて小さく笑った。


 リネットは、膝をついた。柔らかな絨毯に手をつき、散らばった銅貨をひとつずつ拾い集める。冷たい金属が、あかぎれた指の腹に触れた。


「まあ、いじらしいこと」夫人が扇の陰で言った。「そうまでして、ほしいのねえ」


 リネットは、答えなかった。椅子の脚のかげまで転がった一枚に、黙って手を伸ばす。


 この幾枚かが、祖母の薬の幾日ぶんかになる。今はただ、それだけを思った。


 最後の一枚を拾い上げて、リネットは両手でそれを押しいただいた。


「……ありがとう、ございます」


 夫人は、もう見てもいなかった。




 仕事場に戻ると、ドリスが鼻息を荒くして待っていた。


「リネット様! また取られたんですね、あの一着!」


「……ドリス。声が大きいわ」


「だってっ。三晩も寝ないで縫ってたの、あたし知ってるんだから! それを『わたくしが仕上げた』だなんて。ひどいよ、あのマルゴさま!」


「しっ」リネットは思わず笑った。「聞こえたら、二人とも仕事を失ってしまうもの」


 笑ってみせたけれど、うまくはいかなかった。ドリスの目が、リネットの手に止まっている。それから、膝の埃に。


「……リネット様。その手、どうしたの。膝も」


「……ころんだの。なんでもないわ」


「うそ。……うそでしょう、それ」


 リネットは、少しためらった。黙っていれば、この子はきっと明日にでも夫人の屋敷へ怒鳴り込みに行く。それだけは、させられない。


「お代を床に撒かれてしまって、拾っただけなの。……ほんとうに、それだけよ」


 しんと、部屋が静かになった。


「……拾わせたの」ドリスの唇が震えた。「床にお金を撒いて、リネット様に拾わせたなんて。……あの人たち」


「ドリス、いいのよ」


「よくない! ぜんぜん、よくないっ! リネット様のほうが、あの屋敷の誰よりちゃんとしてるのに! 針だって、誰よりきれいなのに! なのに、なんで……なんで、そんなことされなきゃいけないの!」


 ドリスの目に、みるみる涙が盛り上がった。自分のことみたいに、この子は怒って泣いてくれる。


「……ありがとう、ドリス」


「なんで、お礼を言うんですかっ。怒ってるのは、あたしなのに!」


「ふふ。ドリスが怒ってくれるから、わたくしは怒らなくてすむの」


「そんなの、ずるいよ」ドリスは、袖でぐいと目もとを拭った。「リネット様って、いつもそう。自分のことなのに、自分で怒らないんだから」


「……怒るの、下手なのよ。昔から」


「……悔しくは、あるんでしょう」


「悔しいわよ。とっても」リネットは、小さく笑った。


「なら、どうして言い返さないの。あんなの、おかしいよ」


「……言い返して、この仕事を失ったら。お祖母さまの、お薬が買えないもの」


「……」


 ドリスは、口をつぐんだ。そういう話になると、この子はいつも黙ってしまう。


「……ごめんね、リネット様」


「どうして、ドリスが謝るの」


 リネットはそう言って、ドリスの手に布の包みをひとつ握らせた。


「はい、これ。朝の残りだけど」


「え。パン? ……これ、リネット様のぶんじゃ」


「わたくし、朝は食べない主義ですの」


「……じゃあ、半分こ」ドリスが、パンをちぎって半分を差し出した。「これなら、朝を食べない主義でも食べられるでしょう。ね?」


「……ドリスったら」


「はんぶんずつなら、ずるっこじゃないもの」


「……おいしい?」リネットが訊くと、ドリスはこくりと頷いた。


「うん。……でも、ちょっとしょっぱい。涙、入っちゃったかも」


「あらあら」


 嘘だった。朝を食べない主義なんて、あるはずがない。ドリスにも、それが嘘だと分かっている。分かっていて、それでも半分に割って、二人で食べる。そういう娘だった。


「……いつか」ドリスが、口をもぐもぐさせながら言った。「いつかね。リネット様の名前で、いちばん綺麗なお着物を作るの。いちばん偉い人に着せてやるんだ。あたし、絶対に見届けるからね」


「わたくしの、名前で」


「そう。針子ふぜいじゃなくて、リネット様の、名前で」


「……大きく出たわね、ドリス」


「本気だもの。あたし、こう見えて忘れっぽくないんだから。約束は、ちゃんと覚えてる」


「ふふ。頼もしいこと」


「じゃあ、指切り。ほら、リネット様も」


「……子どもみたいね」


 そう言いながらも、リネットは小指をからめた。ドリスの指は、あたたかかった。


「嘘ついたら、針千本のーます」ドリスが節をつけて言った。「あ。リネット様なら、ほんとうに刺せちゃうね」


「まあ。おそろしいこと」リネットは笑った。


「これで、約束。……ぜったいの、ぜったい、だからね。忘れたら、承知しないんだから」


「ええ。……忘れないわ。ちゃんと、約束」


 リネットは、ゆうべ結んだ一針のことを思った。名前なら、もう布の奥にある。誰にも見えない場所に、たった一針だけ。


 けれどドリスの言う「名前で」は、それとは違うのだろう。日の当たるところで、胸を張って呼ばれる名前。そんなものが、いつか自分にも来るのだろうか。そう思いかけて、少しだけくすぐったくなった。


「……そうね。そうだと、いいわね」


 リネットは、また笑った。こわばっていた頬が、ほんの少しほどけた。




 その晩。道具を片づけながら、リネットは棚の奥から革表紙の帖面を取り出した。


 采寸帖。亡くなった師のハンナが遺した、この世にひとつきりの帖面だ。古い革の匂いを吸い込むと、師の声がすぐそばで聞こえる気がする。


「あんたは、頭はよくないよ」


 師はいつもそう言って、リネットの頭を小突いた。でも、そのあとに必ず続けた。


「でもね。あんたの目は、人の泣いてるとこを見ちまう。……才能より、よっぽど厄介で、よっぽど尊いもんだ」


 小突かれた頭の、そのぬくもりだけは、三年たった今も覚えている。


 誰にも要らないと言われた子どもだった。その頭を、この人だけが痛くない力で小突いてくれた。頭がよくなくてもいいと言ってくれたのは、後にも先にも師だけだった。


 帖面のいちばん最後の頁には、寸法でも繕い書きでもない、たった一行が残っている。亡くなる前の晩に一度だけ口にして、自分で書き写したらしい。


 ――ほどけない結び目は、ほどくんじゃない。結び直すんだよ。


 その意味だけは、三年経った今も分からないままだった。ほどけないものを、どうやって結び直すというのだろう。ほどけないから、ほどけないと言うのに。


 そう思いながら、リネットはいつものようにそこを読み飛ばそうとした。


 けれど今夜は、指先が一瞬その一行の上で止まった。理由は、自分でも分からない。すぐにまた、指は離れた。


(お師匠さま。わたくし、今日もちゃんと針を握っていますよ)




 帖面を閉じ、リネットは灯を吹き消した。


 職人街のはずれの、階段の軋む借間へ戻るころには夜もだいぶ更けていた。戸を開けると、奥の寝床から細い咳が聞こえた。祖母だ。


 枕もとには、底の見えかけた薬瓶が置いてある。琥珀色の薬が、瓶の底に指二本ぶんほど。あと三日で、なくなる。


 リネットは灯りもつけず、卓の前に座った。今日の銅貨を、手のひらに出して数える。


 夫人からの、半分にも足りない代金。そこから家賃を引き、炭を引き、薬代を引く。何度数え直しても、答えは同じだった。足りない。


 自分の食べるぶんを、また削ればいい。パンを一日おきにすれば、薬のもう幾日ぶんかになる。そう思うと、不思議と気が楽になった。削れるものが、まだ自分に残っている。悪いことでは、ないのだと思う。


 寝床のそばへ寄って、祖母の枕をそっと直した。かつて子爵夫人と呼ばれた人の手は、今はもうリネットの手より薄く軽い。


 その寝息と咳の間を、リネットはそっと数えた。ひとつ、ふたつと間があいて、また咳が来る。この音が、明日も続きますように。


 自分が頭を下げるのは、そのためだけだ。頭のひとつくらい、いくらでも下げる。この細い息が、明日も聞こえるのなら。


 ――こんな夜が、これからもずっと続くのだと思っていた。


 けれど、数日後。リネットは、一世一代の大仕事を任される。白絹に金糸で蔓草を刺す、幼い王太子の戴冠衣装を。


 その白絹の奥にも、リネットはあの一針を縫い込むことになる。今度は自分のためではない。着る人がひとりぼっちだと思わずにすむようにと願う、小さなまじないの一針だ。


 その一着が、あの血の匂いのする夜へ、リネットを連れていく。


 針だけが居場所だった娘の静かな日々は、もうすぐ終わる。

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