第6話: 名乗り出た人
どこかで、鐘が鳴っている。ひとつ鳴るたびに、処刑の時が一歩ずつ近づく気がした。
石の牢は、冷たかった。
リネットは膝を抱えて、壁の隅に座っていた。手のひらの血は、もう乾いて茶色くこびりついている。何度こすっても、爪の間の赤だけは落ちなかった。
あの人の血ではない。ジョスさまの血だ。抱き起こそうとして胸に手を当てた、あのときの。
まだ、あたたかかった。それだけを、指が覚えている。
夜が明けたのかどうかも、分からなかった。ここには窓がない。あるのは、ただ、あの鐘の音だけだ。
――こわい。
その気持ちだけが、はっきりとあった。強い覚悟も、無実を叫ぶ勇気も、リネットにはなかった。ただ、こわい。それだけだった。
昼近く、リネットは大きな広間へ引き出された。
長い卓の向こうに、宰相オットマールが座っていた。灰色の髪の、静かな目をした人だ。その両脇に書記と、壁ぎわに衛兵が並ぶ。
リネットは、床に膝をつかされた。
「針子リネット」オットマールの声は、低く落ち着いていた。「戴冠前夜、王弟ジョス殿下の私室にて、殿下を刺した。相違ないか」
「ち、ちがいます」声が震えた。「わたくしは、お衣装をお届けに……」
「衣装を届けに来た者が、なぜ刃物を持っていた」
「刃物なんて、持っていません」
「では、なぜお前の手は血にまみれていた」
「それは……倒れておられたので、抱き起こそうと……」
「抱き起こした、か」
オットマールは、それきり黙った。何も、書き取らせなかった。リネットの言葉は、この場のどこにも残らなかった。
卓のわきに、若い貴族が立っていた。ベルント。戴冠前夜、廊下でリネットとすれ違った辺境伯家の嫡子だ。
「私が見たのです」ベルントが、よく通る声で言った。「この針子が、殿下のお部屋から出てくるところを。手には血。目は血走って。まるで、獣のようでした」
嘘だ、とリネットは思った。ベルントとすれ違ったのは、部屋に入るずっと前だ。廊下の角で。そのとき自分の手に、血なんてついていなかった。
けれど、その嘘を指摘する言葉が、うまく出てこない。喉の奥で、つかえてしまう。
それに――ベルントの声は、上ずっていた。指の先がかすかに震えている。この人は、嘘をつき慣れていない。誰かに言わされている。そんな気配が、した。
(この人も、何かを庇っている)
なぜ、そう思ったのかは分からない。ただ、そう感じた。
言えることが、ひとつだけあった。
あの夜、あの部屋には、もう一人いた。血まみれの、あの人が。あの人が本当のことを話してくれれば、わたくしの無実も分かってもらえるかもしれない。
あの人を、見ました。
その一言を言えば、助かるかもしれない。喉まで、出かかった。
(――でも)
あの人の覚悟した目を思い出す。ここで捕まればすべてが終わる、と分かっていて、それでも動かなかった目。ひとりぼっちで終わっていこうとしていた、あの目。
あの人を、売ることになる。
自分が助かるために、あの寂しい人をこの石の床に引きずり出す。
――できなかった。
どうしても、できなかった。賢い選び方ではないと、分かっていた。それでも、あの夜、自分は考えるより先に、あの人を逃がした。だったら今さら、その手を裏切れない。
「申し立てることは、ないか」
オットマールが、静かに問うた。
リネットは床を見つめたまま、首を横に振った。
「……ございません」
言えなかった。いちばん大事なことだけ、言えなかった。
自分の首を、自分で絞めていると分かっていた。それでも、これだけは。
「処刑は三日後――」
オットマールがそう言いかけたとき、広間の奥の扉が開いた。
衣ずれの音とともに、年配の婦人が入ってきた。黒い喪の衣。背筋のまっすぐな、けれど疲れきった顔の人だった。
「王太后陛下」
オットマールが立ち上がり、頭を下げた。広間の全員が、それにならう。
王太后アデルハイト。亡き先王の后であり、幼い王太子ユリアンの、ただ一人の後ろ盾。
アデルハイトは、床に膝をついたリネットの前で足を止めた。しばらく、じっと見下ろす。値踏みするのとも憐れむのとも違う、読めない目だった。
「宰相」アデルハイトが言った。「事を急いてはなりません」
「しかし陛下。証拠も、証言も――」
「戴冠を明後日に控えた今、王弟殺しの咎人をあわてて処刑したと、諸侯に知られてどうします。ユリアンの御代は、その血で始まることになりますよ」
オットマールが、口をつぐんだ。
「弁明の猶予を与えます。三日」アデルハイトの声は、静かだった。「その間に、この娘が真実を申し立てるなら、聞きましょう。何もなければ――そのときは、是非もありません」
「……御意」
アデルハイトは、もう一度リネットを見た。それから、何も言わずに背を向けた。
なぜ、と思った。
この方に、わたくしを庇う理由なんてひとつもないのに。幼い王太子のためなら、さっさと咎人を片づけたいはずなのに。
どうして、三日も。
その問いの答えは、まだどこにもなかった。
牢に戻されて、しばらくして。
格子の向こうに、小さな足音が駆けてきた。
「リネット様!」
ドリスだった。息を切らして、格子にしがみついている。目が、真っ赤に腫れていた。
「ドリス……どうして、ここに」
「どうしてって、そんなの……っ」ドリスの声が詰まった。「リネット様が、人を殺すわけない。あたし、そんなの、ぜったい信じないから」
その一言で、リネットの目の奥が熱くなった。
この石の場所で、誰も自分の言葉を聞かなかった。それなのに、この子だけは、何も聞かずに信じてくれる。
「……ありがとう、ドリス」
「お祖母さまは、あたしが見てるから。だから、リネット様は――」ドリスは、ぐしゃぐしゃの顔で言った。「だから、ぜったい、帰ってきて。約束したもの。リネット様の、名前で、いちばん綺麗なお着物を作るって」
「……ええ」
「指切り、したもの。忘れてないでしょうね」
「忘れてないわ」リネットは、格子の間から小指を差し出した。「ちゃんと、覚えてる」
冷たい鉄ごしに、二人の指がからんだ。ドリスの指は、あのときと同じで、あたたかかった。
ドリスが帰ったあと、看守が夕食の椀を置きにきた。
年かさの、無口な男だった。椀を差し入れて、去りぎわに、ぼそりと言った。
「……妙な話があるもんだ」
「え」
「お前さんのほかに、もう一人、名乗り出た奴がいるんだとよ」
リネットは、顔を上げた。
「名乗り……出た?」
「『王弟を刺したのは自分だ』ってな。それも、身分のある貴族様が、じきじきに。おかげで上は、大あわてさ」
「その方は……どなたですか」
「さあな。名は、伏せられてるよ」看守は肩をすくめた。「家の体裁でもあるんだろうさ。……妙な話だろう? お前さんは『やってない』の一点張り。なのに、頼まれもしないのに『自分が刺した』と名乗り出る貴族様が、別にいるってんだから」
「どうして、そんな……」
「知らんよ。だが、どっちかが嘘をついてるのは確かだ。……無実を訴えるお前さんか、罪をかぶりたがるお貴族様か。はてさて、どっちだろうな」
看守は、それだけ言って行ってしまった。
リネットは、椀を持ったまま、動けなかった。
もう一人、名乗り出た人がいる。自分が刺した、と。
誰だろう。なぜ、そんなことを。
まさか、と思いかけて、リネットは首を振った。そんなはずはない。あの人であるはずがない。あの人は、逃げたのだ。わたくしが、逃がしたのだ。せっかく助かった命を、わざわざ捨てにくるなんて、そんな。
けれど、目を閉じると、あの夜の目が浮かんだ。ここで捕まればすべてが終わると分かっていて、それでも動かなかった、あの目。ひとりぼっちで終わっていこうとしていた、あの――
リネットはぶるりと頭を振って、その像を追い払った。だめだ。考えてはいけない。考えてしまったら、こわくて、もう息ができなくなる。
(わたくしのために嘘をつく人なんて、いるはずないのに)
そう自分に言い聞かせても、指の震えは、止まらなかった。
牢の外で、また鐘が鳴った。三日のうちの、一つ目の夜が、静かに更けていく。




