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第24話: 急がない針

 糸と猫が喧嘩をすると、たいてい糸のほうが負ける。


 負けた糸は、こぶを作る。


 リネットの指の先で、ちょうどそのこぶがひとつ、できあがったところだった。


 台の下では、ボタンが糸巻きを前足で転がしていた。糸巻きから出た糸は、リネットの針につながっている。針は、羊毛の脇の縫い目の途中に刺さっている。ボタンが糸巻きを引っぱるたびに、糸はきゅっと撚《よ》れて、布のすぐ手前で小さな玉になった。


「ボタン」


 呼ぶと、ボタンは糸巻きから前足を離した。離して、何も知らない顔で毛づくろいを始めた。


「……あなたねえ」




 戴冠の鐘が鳴ってから、季節がひとつ進んだ。


 職人街の窓は、どこも開け放しになっている。通りからは水売りの声と、染め屋の干し場の匂いが入ってくる。


 台の上に広げてあるのは、アルノーの上着だった。


 寒くなったら着てもらう、羊毛の上着だ。脇を割って、肩が戻ったときの寸法に裁ち直したあの一着を、リネットは今、縫い直している。誰の手も借りずに、全部自分で。マルゴさんにそう言われたからだ。


 脇の縫い目は、腕の付け根から腰のあたりまで進んでいた。そこで、こぶができた。


 リネットは針の先で、こぶをつついた。


 少しゆるんだ。ゆるんだと思ったら、もっと固く締まった。


「また、ほどくの?」


 窓ぎわの小さな卓から、ドリスが顔を上げた。向かいのおかみさんに頼まれた産着の裾を、朝からずっとかがっている。


「……え」


「その縫い目。リネット様って、気に入らないといつも最初から全部ほどくじゃない」


 言われて、リネットは自分の右手を見た。


 糸切り鋏を握っていた。刃の先は、こぶのほうではなく、縫い目のいちばん始まりのほうを向いていた。


 自分でも気づかないうちに、そうしていた。


「そこまで縫うの、朝からかかってたよね」


「……ええ」


「ほどいたら、お昼までにまた同じとこだよ」


 ドリスは、もったいないものを見る顔をしていた。


 リネットは、鋏を持ったまま動けなくなった。


 この春は、ほどいてばかりいた。人の縫ったものの糸を抜いて、掌に溜めた。最後には、自分で縫ったこの上着まで、袖付けから脇から全部ほどいた。ほどく手つきだけが、ずいぶん上手になった。


 お師匠さまに最初に習ったのは、玉結びだった。


 最後に聞いたのは、あの一行だった。


 ――ほどけない結び目は、ほどくんじゃない。結び直すんだよ。


 リネットは、こぶを見た。


 針の先でつついても、ほどけない。これ以上つつけば、糸より先に布が毛羽立つ。


 鋏の刃を、縫い目の始まりから離した。


 代わりに、ひと目だけ糸を戻した。こぶの手前で糸を切る。残った糸の端で、縫い代の裏に小さく玉止めを作った。


 新しい糸を針に通して、端に玉結びをひとつ。止めたひと目に重ねて、また縫いはじめる。


 縫い目は、さっきと同じ場所から、さっきと同じ向きへ進んだ。


「え」


 ドリスが、かがっていた産着を膝に落とした。


「それだけ?」


「それだけ、ですわね」


「前のぶん、ほどかないの?」


「前のぶんは、ちゃんと縫えておりますもの」


「こぶは?」


「切って、捨てました。結び目だけ、裏に残ります。縫い代の、奥のほうに」


 リネットは布を裏返して見せた。小さな玉止めが、縫い代の陰にひとつ沈んでいる。


「着る方には、見えません」


「なあんだ」


 ドリスは、心から呆れた声を出した。


「じゃあ今まで全部ほどいてたのは、なんだったの」


「……なんだったのかしら」


 本当に、分からなかった。


 新しい糸で縫い進めながら、リネットはそればかり考えていた。


 ほどけないものは、ほどけない。だから切って、結んで、続きを縫う。前の縫い目は残る。結び目も、裏に残る。それでも縫い目は、その先へちゃんと続いていく。


 大広間の帳のことを思い出した。


 わたくしの嘘も、あの人の嘘も、帳から消されなかった。その下に、誰を守るための嘘だったかが書き足されただけだ。


 台の下で、ボタンがまた糸巻きに前足を伸ばした。


「ボタン。今度やったら、お昼の小魚は半分ですわよ」


 前足が、すっと引っこんだ。




 昼が近くなったころ、戸口に影が差した。


「お針子さーん。生きてる?」


 ニコさんだった。


 顎を巻いていた布は、もう取れていた。顎から頬にかけて、赤い筋が一本残っている。あの夜、小さな殿下を守って刃を受けた痕だ。


「生きております」


「よかった。こっちは見てのとおり、男前が一段上がった」


 ニコさんは顎を突き出して、赤い筋を指でなぞってみせた。


「下がってませんか」


 ドリスが言った。


「上がったの」


「下がったと思う」


「お嬢ちゃん、手厳しいね」


 ニコさんは笑いながら戸口のほうへ二、三歩戻って、外へ親指を向けた。


「あいつは表で止まってる。入るかどうか、さっきから悩んでるんだ」


「どうしてですの。毎日、いらしているのに」


「今日は、おばあさまのとこへ行く日でしょ」


 リネットは、あ、と小さく声を出した。


「朝から上着を二回着替えたよ」


「着替えたって」ドリスが首をかしげた。「あの人、いつも同じ上着じゃない」


「裏返して、また表に戻したの」


 ドリスが吹き出した。


 それから、急に笑うのをやめて、ニコさんのうしろ姿をじっと見た。肩から足もとへ、目が下りていく。


「……あーっ」


「なに」


「角を曲がったら、いなくなった人!」


 ニコさんの笑顔が、そのままの形で止まった。


「おばあさまの戸の前に、お薬と炭と卵を置いてった人。あたし、一回追いかけたんだよ。顔は見てないけど、うしろ姿は見たもん」


「人違いじゃないかなあ」


「肩を片っぽだけ揺らす歩き方。そうだもん」


 ニコさんは、自分の肩を見た。


「……歩き方は、直せないなあ」


「なんで名前を言わないで帰ったの。お礼も言えなかったじゃない」


「言うなって、言われたからね」


 ニコさんの目が、戸の外へ流れた。


 ドリスの目も、同じほうへ流れた。


 リネットも、つられてそちらを見た。


 戸口の脇の日なたに、背の高い影が、こちらに背を向けて立っていた。




「入れば、いいのに」


 ドリスが大きな声で言った。


 影が、一度だけ揺れた。それから、あきらめたように戸口をくぐってきた。


 アルノーだった。


 詰めた袖の借り着を着ていた。左の腕は、もう体に寄せてはいない。右手に、布をかぶせた籠を提げていた。


「……卵だ」


 まだ誰も何も訊いていないのに、アルノーはそう言った。


「おばあさまに、ですか」


「ニコが、手ぶらで行くなと言った」


「花にしろって言ったんだよ、俺は」ニコさんが言った。「そしたらこいつ、花じゃ腹がふくれないって」


「ふくれないだろう」


「そういう話じゃないの」


 アルノーは答えずに、台の上の上着を見た。


 それから、台の端に落ちている糸くずと、糸切り鋏を見た。


 顔が、少しこわばった。


「……ほどいたのか」


 戴冠の日の午後、この仕立て場で言われたことを、リネットは思い出した。半年で入らなかったら、お前はまたほどくだろう。それは、やめてくれ。


「ひと目だけ、ですわ」


「ひと目」


「糸が、こぶになりましたの。そこだけ切って、結び直しました」


 アルノーは、縫い目を見下ろした。指の先で、上からなぞった。


「どこだ」


「裏です。縫い代の奥に」


「分からん」


「分からないように、結びましたもの」


 リネットは、針を布に休ませた。


 言おうかどうか、少し迷った。迷っているあいだに、口のほうが先に動いた。


「アルノーさん」


 アルノーが、顔を上げた。


「ほどくのは、もう、やめますわ」


 指の先で、縫い目の裏をそっと押さえた。小さな玉止めが、布ごしに触れた。


「……わたくし、結び直す人に、なりたいの」


 言い終えても、玉止めを押さえた指が離せなかった。ずいぶん大きなことを言った気がした。


 アルノーは、しばらくリネットを見ていた。


「……上着の話か」


「上着の話、ですわ」


 少し考えてから、付け足した。


「たぶん」


「そうか」


 アルノーは、上着の脇にもう一度だけ目を落とした。それから、籠を持ち直した。


「なら、いい」


 ニコさんが、戸口の柱に額をつけて肩を震わせていた。


「こいつね、ゆうべ練習してたんだよ。おばあさまへのご挨拶。『ご無沙汰しております』って」


「ニコ」


「会ったこともないのにさ」


「黙れ」


 リネットは上着をたたんで、布で包んだ。続きは、祖母の枕もとで縫えばいい。


「ドリス。お留守番をお願いできるかしら」


「いいよ。ボタンの小魚、半分にしとく?」


 台の下で、ボタンが耳だけこちらへ向けた。


「……今日は、まるごとでいいわ」




 祖母の借間は、職人街のはずれの、階段を四つ上がった先にある。


 窓がひとつきりの部屋だ。窓を開けると、下の酒場の匂いが上がってくる。今日も、煮込みと麦酒の匂いがかすかにしていた。


 祖母は、寝台の上で背を起こしていた。


 ゆうべ、髪をとかしてちょうだいと言われた。とかして、まとめて、いちばんましな寝間着の襟を整えた。腰は立たなくても、人に会う日には襟を正さずにいられない人だった。


「おばあさま。お連れしました」


 リネットのうしろで、アルノーが頭を下げた。下げたまま、戸口の脇の壁ぎわへ下がって、そこに立った。


 祖母が、その壁ぎわを見た。


「そんなところに、お立ちにならないで」


 アルノーの肩が、小さく動いた。


「壁ぎわは、お客さまの場所ではありませんよ。そこの腰掛けへ、お掛けなさい」


 部屋に、腰掛けはひとつしかなかった。いつもリネットが座る、背もたれのない低いものだ。


 アルノーは、少し迷ってから、そこへ座った。背の高い人が座ると、膝が胸のあたりまで上がった。


 壁から離れた場所に、あの人が座っている。


「……ご無沙汰、しております」


 アルノーが言った。


 ニコさんが、戸口で咳きこんだ。


 祖母は、まばたきを一つした。


「お目にかかるのは、初めてだと思いますけれど」


「……初めて、お目にかかります」


「はい。初めまして」


 祖母は、楽しそうだった。




 それから祖母は、アルノーをじっと見た。


 顔を見て、肩を見て、手を見た。子爵家の奥方だったころ、夜会で殿方を見たときも、きっとこういう目をしていたのだろう。


「背の高い方」


「……はい」


「肩が、少し薄いわね」


「寒くなるまでには、戻りますの」


 リネットが横から言うと、祖母はリネットのほうを見た。


「あら。仕立て屋の言い方」


「仕立て屋ですもの」


「お痩せになって。ちゃんと召し上がっていらっしゃる?」


「三度」


 アルノーは答えてから、リネットのほうへ目をやった。


「……この家は、みんな同じことを訊く」


 リネットは、下を向いて笑いをこらえた。


 アルノーは膝の上の籠から、布を取った。


「卵です」


 籠を差し出す手が、少しだけぎこちなかった。


 祖母は籠を見た。それから、ゆっくりと首をかしげた。


「ドリスがね」


「はい」


「名前も言わずに戸の前に卵を置いていく人がいるって、いつも怒っていましたよ。お礼が言えないって」


 アルノーの手が、籠を差し出したまま止まった。


 リネットは、祖母の顔を見た。


 戴冠の日の晩に、祖母には本当のことを話した。あの晩から、祖母に嘘はつかないと決めている。


「その方です、おばあさま」


 アルノーが、リネットを見た。言うな、という顔ではなかった。困った顔だった。


「……運んだのは、ニコです」


「でも、置くように言ったのは、あなたなのね」


「……はい」


「そう」


 祖母は、寝台の上で背筋を伸ばした。伸ばして、腰から少しだけ頭を下げた。寝たきりの人にできる、いちばん深い礼だった。


「では、あなたにお礼を申し上げます。あの卵のおかげで、あのころのお粥がおいしゅうございました」


 アルノーは、何も言えなくなっていた。


 腰掛けの上で、大きな体がひとまわり小さくなったように見えた。


 仕立て場の戸に新しい掛け金を打たせ、祖母の戸の前に卵を置かせた人。いつか、その人にお礼を申し上げたい。その人が、まだ生きているうちに。仕立て場から牢へ戻る明け方に、リネットはそう思ったことがある。


 その人は今、祖母の枕もとの低い腰掛けに座っていた。




「お家は、どちらですの」


 祖母が訊いた。


 リネットの背中が、こわばった。


 この人の生まれは、誰にも言えない。口にすれば、六つの王さまの御代が割れてしまう。だから今も、名のない者のまま、王太后陛下のお預かりになっている。


 アルノーは、少しだけ黙った。


「……ありません」


「そう」


 祖母は、それだけ言った。


 それから、窓のほうへ目をやった。窓の外に、もう無い家を探すような目だった。


「わたくしの家も、もうありませんの」


「……」


「では、お互いに気兼ねがなくてよろしいわね」


 アルノーの肩から、ふっと力が抜けた。膝の上の籠が、少しだけ傾いた。


 戸口で、ニコさんが急に窓の外の鳩を熱心に見はじめた。




「リネット」


 祖母が言った。


「針の音が、聞きたいわ」


「今、ですか」


「ええ。あなた、何か持ってきているでしょう。包みの形で分かりますよ」


 リネットは、布の包みをほどいた。


 羊毛の上着を膝に広げる。朝、結び直したところの続きからだ。針に糸を通して、寝台の脇の床に座った。


 布に、針を入れた。


 ひと針。もうひと針。


 祖母は、目を閉じていた。


 アルノーは低い腰掛けの上から、リネットの手もとを見ていた。いずれ自分が着る上着の脇が、少しずつ閉じていくのを見ていた。


 しばらくして、祖母が言った。


「今日の音は、知らない音ね」


 リネットの針が止まった。


 戴冠の日の晩、祖母は言った。針の音がちがったから、何かあったと分かっていた、と。


「……また、何かちがいますか」


「ええ。ちがいますよ」


 祖母は、目を閉じたまま言った。


「ゆっくりしてる」


 リネットは、自分の手を見た。


「あなたの針は、いつも何かに追いかけられている音でしたよ。夜明けまでにとか、明日までにとか」


「……」


「今日のは、追いかけられていない音」


 祖母の目じりに、細いしわが寄った。


「あなた、もう急がなくていいのね」


 リネットは、すぐには返事ができなかった。


 いつも、何かに間に合わせるために縫ってきた。間に合わなかったら、誰かが困る。誰かが寒い。誰かが死ぬ。そういう針ばかりだった。


 膝の上の上着は、寒くなってから着てもらうものだ。


 間に合わせる相手が、そのころにも、ちゃんと生きている。


「……はい」


 声が、少しかすれた。


「寒くなるまで、まだございますもの」


 腰掛けの上から、アルノーが言った。


「それまでに肩が戻らなかったら、どうする」


「戻るように、召し上がってください」


 リネットが言うと、アルノーは少しだけ目もとをゆるめた。


「……三度」


「はい。三度」


 祖母が、目を閉じたまま、くすくすと笑った。


「やっぱり。この家は、みんな同じことを言うのね」


 窓の下から、酒場の昼の笑い声が上がってきた。いつのまにか階段を降りていたニコさんの声が、そのなかにまじっていた。


 リネットは糸を引いて、布の具合を指でたしかめた。


 それから、次のひと針を、急がずに布へ入れた。

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