第23話: 半分より、大きいほう
喪が明けた日、リネット・カルヴェの名前は、帳の上でもう一度読み上げられた。
今度は、咎人の欄ではなかった。
王太后陛下の裁きは短かった。帳に入った二つの偽りは消さない。何のための偽りだったかも、書いたまま残す。仕立て師カルヴェは、もとのお抱えの席へ戻す。名のない者の身の上は、これまでどおり陛下が預かる。
それから陛下は、扇を膝に置いた。
「二人とも、赦します」
広間の反対の端に、あの人が立っていた。左の腕を体に寄せて、衛兵に挟まれていた。名のない者、と読まれても、顔は上げなかった。
リネットの膝から、すとんと力が抜けた。柱に手をつくと、握りしめていた指がようやくほどけた。
書記が読み終えても、リネットは柱に手をついたまま黙っていた。返事をするのを忘れていたのだ。
隣で、年かさの衛兵が小さく咳払いをした。
「呼ばれたら、返事だ」
「……はい」
声は、ちゃんと出た。
名のない者の欄には、赦されたあとも名前は書かれなかった。
喪の黒布が城の窓から外されて、幾日かが過ぎた。戴冠の朝、リネットは城の控えの間にいた。
呼んだのはマルゴさんだった。着付けに手が要るから来なさい、という言づてが、ゆうべ仕立て場に届いたのだ。
台の上に、白い絹の一着が広げてあった。
牢の中で、リネットは殿下の寸法を紙一枚に書き写した。首まわりと肩と袖の長さ。
その寸法のとおりに、一着が縫い上がっていた。
リネットは袖口を指でたどった。針目がまっすぐで、どこにも迷いがない。悔しいくらい、きれいだった。
「見とれていないで、糸を選びなさい」
マルゴさんが針箱を開けた。
「糸、でございますか」
「左の脇。縫い代のいちばん奥を空けてあるわ」
リネットの指が止まった。
「……何のために」
「あなたの一針よ」
マルゴさんは、こちらを見なかった。糸巻きを一つ選んで、台の端へ転がした。白に、ほんの少しだけ黄みを足した糸だった。
「わたしの名で納めた服には、全部入っていたわね。縫い代のいちばん奥に」
息が、小さく詰まった。
誰にも見えない場所のはずだった。
「ご存じ、だったのですか」
「主席が縫い代を見ないとでも思って?」
「……抜かなかったのですね。一つも」
「抜く暇があったら、次を縫うわ」
マルゴさんはそれきり、その話をしなかった。
リネットは糸巻きを拾って、針に糸を通した。左の脇を裏返す。縫い代の奥に、指の先ほどの隙間がきちんと残してあった。
扉が開いて、侍従に手を引かれた殿下が入ってきた。
「針子の姉さま」
殿下はリネットを見るなり駆け出して、途中で止まった。王さまは走らないものだと、誰かに言われたのかもしれない。残りの何歩かは、きちんと歩いてきた。
「おはようございます、殿下」
「姉さま、もうつかまってない?」
「はい。もう、つかまっておりません」
「ほんと?」
「ほんとうでございます」
殿下は、リネットの手首をじっと見た。それから袖をめくって、もう一度見た。縄の跡がないのを確かめると、ようやく大きく息を吐いた。
「よかった。ぼく、まいにちきいたんだよ。そしたら、まだって言われるの」
リネットは、なんと答えていいか分からなかった。代わりに、針を持った手を少しだけ持ち上げてみせた。
「今、まじないを入れているところでございます」
「なんの」
「殿下が、ひとりぼっちだと思わずにすむように」
殿下は台の縁につかまって、背伸びをした。
「まえのにも、入ってた?」
リネットの手が、一度だけ止まった。前の一着は、殿下の手もとへ届かなかった。
「はい。入っておりました」
「じゃあ、二回ぶんだね」
殿下は得意そうに言った。
リネットは笑って、糸を結んだ。結び目は縫い代の奥に沈んで、すぐに見えなくなった。
白い上着に、殿下が腕を通した。腕はまっすぐ上がった。采寸の日のように、震えたりはしなかった。
マルゴさんが前を合わせ、リネットが後ろの襟を整えた。襟は、首に当たらない高さできちんと止まっていた。紙に書いたとおりだった。
同じ一着の上で、二人の手が動いた。どちらも、相手の手の邪魔はしなかった。
戸口で、ごとんと音がした。
ドリスが、リネットの道具箱を床に落としていた。廊下で待っているように言われていたのに、待ちきれずにのぞいたらしい。
「……リネット様」
「ドリス。箱を拾ってちょうだい」
「着てる」
ドリスは、箱のことなど忘れた顔で言った。
「いちばん偉い人が、着てる」
殿下が、きょとんとドリスを見た。
マルゴさんは卓に向かって、納めの書付に筆を走らせていた。誰が縫い、誰が寸法を取ったかを書いて、城の帳場へ回す紙だ。リネットの縫ったいちばんいい一着は、この紙の上でいつもマルゴさんの名前になった。
マルゴさんは、二行書いた。
上の行に、縫い、マルゴ・ジス。
下の行に、寸法、リネット・カルヴェ。
それから、筆を置いた。
ドリスが首を伸ばして、紙をのぞきこんだ。一字ずつ指でなぞるみたいに、目で追っていく。
「……ある」
「ドリス」
「リネット様の名前、ある」
ドリスの顔が、くしゃっと崩れた。
「あたし、見たからね。ちゃんと見届けたからね。……リネット様の名前で、いちばん偉い人に着せるって、約束したもん」
「声が大きいわ」
マルゴさんが言った。言っただけで、止めはしなかった。
リネットは、紙の上の自分の名前を見た。
布の奥の一針は、誰にも見えない名前だった。こちらは、城の帳場で誰でも読める。
どう返していいか分からなくて、結局いつもの言葉が出た。
「マルゴさん。……ありがとう、ございます」
マルゴさんは、針箱の蓋を閉めた。
「礼を言われる筋合いはないわ。寸法を書いたのはあなた。だから、あなたの名前を書いた。それだけよ」
道具箱を提げて、マルゴさんは戸口へ向かった。
「もう、お帰りですか。儀式は、まだこれからですのに」
「母が、家で待ってるの」
振り返らずに言った。
「わたしが作らないと、あの人は冷めた粥を温め直しもしないのよ」
戸口で、一度だけ足を止めた。
「カルヴェ」
「はい」
「次の一着は、自分で縫いなさい。全部」
返事をする前に、戸が閉まった。
職人街の仕立て場に戻ったのは、昼を過ぎたころだった。
城のほうで、鐘が続けて鳴っていた。新しい王さまのための鐘だ。
戸を開けると、ボタンが台の上で丸くなっていた。脇を割ったまま広げてある、半年さきの上着の上だった。羊毛の、ちょうど胸のあたりに陣取っている。
「ボタン。そこは、お客さまの上着ですのよ」
ボタンは片目だけ開けて、また閉じた。
リネットはため息をついて、前掛けを締めた。
針に糸を通したところで、戸を叩く音がした。
戸口に、あの人が立っていた。
借り着の上着を着ていた。医師の部屋で詰めた袖は、手首の骨のところで止まっている。左の腕は、まだ体のほうへ寄せていた。右手には、湯気の立つ包みを提げていた。
後ろに、顎を布で巻いたニコさんがいた。
「取りに来た」
あの人が言った。
リネットは台の上の上着を見て、それからあの人を見た。
「……半年さきでございますけど」
「知ってる」
「では、何を」
「見に来た」
あの人は、戸口から台のほうへ目をやった。上着の胸の上で、ボタンが大きなあくびをした。
「先客がいるな」
ニコさんが、顎の布の下で笑った。
あの人は包みを卓に置いた。
ほどくと、焼いたばかりのパンが一つと、肉と豆を煮た小さな鍋が出てきた。市場の角の屋台の匂いがした。
「食え」
「わたくしが、ですか」
「三度食えと言ったのは、お前だ」
「それは、あなたに申し上げたのです」
「俺は食った。今朝も、昼も」
あの人は、パンを右手だけで二つに割った。片手なので、うまく割れなかった。大きいほうと小さいほうができた。
大きいほうが、迷わずリネットの前に置かれた。
「……逆ですわ」
「逆じゃない」
「お体を戻していただかないと、上着が」
「お前は今朝、何を食った」
リネットは口を閉じた。
夜明け前に城へ上がって着付けをし、紙の上の自分の名前を見て、そのまま帰ってきた。何も口に入れていなかった。
「……いただきます」
大きいほうを、両手で受け取った。
あの人は小さいほうを口に入れた。噛みながら、リネットが食べるのを見ていた。見られていると、パンが思うように進まなかった。
「見ないでください」
「見ないと、お前は残す」
「残しません」
「人には三度食えと言って、自分は後回しにする。……ニコが言ってた」
ニコさんが、急に窓の外を見た。口笛を吹こうとしたらしく、顎の布が少しだけふくらんだ。
リネットは、黙ってパンをかじった。
煮込みは、少ししょっぱかった。おいしかった。おいしいことにしましょう、と自分に言い聞かせなくても、ちゃんとおいしかった。
食べ終えると、リネットは巻き尺を取った。
「少しだけ、測らせていただけますか。腕は、上げずに」
あの人は黙って立った。
肩の先から先へ、巻き尺を渡す。それから、背の丈。背中に手を回すと、あの人の体が少しこわばった。
こわばって、それから、ゆっくりほどけた。
リネットは巻き尺の目を読んだ。それから、もう一度読んだ。
「……戻っております」
「何が」
「肩が。ほんの少しですけれど」
塔で測ったときより、目がひとつ先へ進んでいた。
「三度食った」
あの人は、前を向いたまま言った。
「毎日」
「……はい」
「半年で入らなかったら、お前はまたほどくだろう」
「ほどきますわ」
「それは、やめてくれ」
リネットは巻き尺を当てたまま、笑ってしまった。
「どうして、そんなに」
「着たい」
あの人は、短く言った。
「お前が縫ったのを。半年さきに」
リネットは、巻き尺から指を離せなくなった。離したら、目盛りがどこだったか分からなくなりそうだった。
リネットは、棚から采寸帖を下ろした。
お師匠さまから継いだ帖面だ。春の終わりの頁を開くと、あの人の寸法の一行がある。名前の欄と代金の欄は、空いたままだった。その下に、塔で測り直した数がもう一行。リネットは、今日の数をその下へ書き足した。
それから、筆を持ったまま顔を上げた。
「お名前を、伺います」
あの人は、すぐには答えなかった。
帳の上では、あの広間でも、名のない者と読まれた人だった。
「この帖面は、帳ではございません」
リネットは言った。
「誰にも読み上げられません。わたくしが、お客さまの寸法を忘れないためだけのものです」
あの人は、帖面を見た。
「アルノー」
低い声だった。
「アルノーだ」
リネットは、名前の欄にその名を書いた。
筆が少しだけ遅くなった。自分の字なのに、書き慣れない字に見えた。
「代金は」
アルノーが言った。
右手で懐を探って、卓に銀貨を置いた。一枚、二枚。まだ置く。
「お、お待ちくださいまし。多すぎます」
「相場だろう」
「どなたに、お聞きになったのですか」
アルノーは、戸口のほうを見た。
ニコさんが、天井を見ていた。
リネットは銀貨を一枚だけ取って、残りをアルノーのほうへ押し戻した。
「これで足ります。半年ぶんの直しも込みで」
代金の欄に、その一枚を書き入れた。春から空いていた二つの欄が、両方とも埋まった。
アルノーは、埋まった一行をしばらく見ていた。
「お前の名は」
「はい?」
「この帖面の、どこに書いてある」
「どこにも、ございません」
リネットは帖面を閉じた。
「持ち主の名は、書かないものですから。お師匠さまのお名前も、表には書いてございませんの」
「そうか」
アルノーは、それ以上は訊かなかった。
日が傾きかけたころ、ニコさんが戸口で自分の顎を指さした。それから、城のほうを指さした。医師の部屋へ、布を替えに行く時刻らしかった。
アルノーは借り着の襟を直して、戸口へ向かった。
リネットは針を置いた。
置いてから、自分が何を言おうとしているのか分かって、少しこわくなった。自分のために何かを頼むのは、ずいぶん久しぶりだった。
「あの」
アルノーが振り返った。
「明日も、いらしてくださいますか」
声が、少し裏返った。
「上着のためでは、なくて」
言ってしまってから、耳の先まで熱くなった。
アルノーは、戸口の柱に右手をかけてリネットを見た。春に初めてここへ来た日、名前も言わずに出ていった戸口だった。
「来る」
短く言った。
それから少し間をおいて、もう一言だけ言った。
「リネット」
リネットは、動けなくなった。
お前、とばかり呼ぶ人だった。塔でも、医師の部屋でも、そうだった。
「……はい」
返事は、ちゃんと出た。
喪の明けた日、広間の端で忘れかけた返事だった。
アルノーはそれで用が済んだという顔をして、戸を出ていった。ニコさんが、すれちがいざまにリネットへ片目をつぶってみせた。
その晩、リネットは借間で、祖母の枕もとに座った。
薬草を煮る鍋が、小さく鳴っていた。祖母の頬には、少しだけ色が戻っている。戸の前に置かれていた上等の薬が、ちゃんと効いたのだろう。
「おばあさま」
「なあに」
「わたくし、おばあさまに嘘をついておりました」
祖母が、薄く目を開けた。
「お仕事が長引いている、と申し上げた日がございましたでしょう。あれは、嘘です」
リネットは、前掛けの端を握った。
「わたくし、牢に入っておりました。王弟殿下を刺したと、疑われて」
布団の上で、祖母の指がきゅっと縮んだ。しばらく、黙っていた。
「どこか大変なところにいるのは、知っていましたよ」
「……え」
「針の音が、ちがったもの」
祖母は、天井を見たまま言った。
「ドリスの針は、せっかちなの。一針ごとに、糸をきゅっと引きすぎる。あなたの音じゃないって、すぐに分かりました」
「では、どうして何も」
「あなたがわたくしに嘘をつきたいのなら、つかせてあげようと思ったの」
祖母の手が、布団の上でリネットの指を探した。
「その嘘をあなたに教えたのは、たぶんわたくしですからね」
リネットは、その手を両手で包んだ。薄くて乾いていて、それでも温かかった。
「それで」
祖母が言った。
「本当のことは、もう全部?」
「いいえ。まだ、ございます」
リネットは、少し息を吸った。
「王さまのお衣装は、わたくしが縫ったのではありません。マルゴさんが縫いました。わたくしは寸法を書いて、一針入れただけです」
「そう」
「でも、納めの書付にわたくしの名前がございました」
祖母の口もとが、ゆっくりゆるんだ。
「それは、本当?」
「本当です。ドリスが見届けました」
「なら、本当ね」
「それから、今日はちゃんと食べました」
「まあ。何を」
「パンを。半分より、大きいほうを」
「どなたに、いただいたの」
リネットは、答えに詰まった。詰まっているあいだに、頬が熱くなってきた。
「お客さまに。……上着を、半年待っていただいている方です」
「お名前は」
「アルノーさんと、おっしゃいます」
誰かにその名を話したのは、初めてだった。
祖母は、しばらくその名前を口の中で転がすように黙っていた。それから、言った。
「今度、お連れなさい」
「おばあさま」
「腰は立たなくても、殿方の値踏みくらいはまだできますよ」
かつて子爵夫人と呼ばれた人の声だった。寝台の上でも、背筋だけは伸ばそうとする人の声だった。
「……それは、こわいですわ」
リネットは笑った。
笑いながら、明日はアルノーさんに何を食べさせようかと、もう考えていた。




